ラグーナビーチ

藤原  葵

寄せては返す潮騒の遠音が聞こえてくるような気がした。あたしはベッドの上に寝ころんでぼんやりと天井を見ていた。窓の外からは皓々と月の光が射し込んでいる。手を伸ばして、窓を開けるとさあーっと風の銀河が流れこんできた。

―日本は今、朝の三時ぐらいだろうかー

 ホームステイ先のガマとヴィッキーは今朝、メキシコに住む娘さんのところから帰って来て、疲れきって眠っているようだった。しんと静かである。近くを走る長距離列車の警笛の音が、太く長い尾を引いて鳴り響き、遠去かって行く。

明日は日本に帰る時子の送別会だ。時子はあたしの働いているM貿易の前の部署のボスである。と言っても三十歳を過ぎたばかりの独身女性で、大学時代を含め十年程アメリカに住んでいる。少し体調を崩して弱気になったのか、実家の新潟に帰るのだと言う。

「もうここでの生活にも、そろそろ飽きちゃったしね」

ちょっとした疲れと、帰国する安堵感が混じったような表情をして彼女が言った。

時子のように日本へ帰りたい人もいれば、あたしのように帰りたくないのに残る手段のない人もいる。なんだか皮肉なものだと思う。

あたしは今、新しいボス、神崎氏のもとで貿易事務の仕事に就いている。仕事といってもOPT(研修期間)なので勿論正社員ではない。同じフロアで前のデスクから数歩離れた場所があたしの新しい居場所だった。

 M貿易は、日本からアメリカのレストラン等に食材を卸していて、いくつもの支店を構える大手商社である。前の仕事は“カリフォルニアチェリー”を日本人向けに送る受発注業務だった。季節限定の単純な作業で、あまり能力を問われるという種類のものではなかった。それでもなにかの仕事にありつくということじたい大変な倍率だったのだ。  

ようやくのことでチェリーの最盛期に数ケ月だけアルバイトとして雇ってもらうことができた。そして、あたしにとっては幸運なことに、今のボスの下で働いていた女の子が、けっこういい加減な人だったらしく、解雇しようと思っていた矢先らしかった。 

近くの席からあたしの仕事振りをみていた神埼氏が、貿易事務の経験があることを知って採用してくれたとのことだった。今のところ、あたしの雇用は十二月のOPTの有効期間までという条件付だ。会社にとっては都合の良い、首の皮一枚でつながっているってわけ。 ――まさに残酷な椅子取りゲームだよねー

 

あたしがアーバインの大学のビジネスコースに入学したのは、一年半ほど前の正月明けのことだった。小さい頃から英語に恋していたあたしは、いつか外国人になることを夢みていた。関西の外大を卒業したあたしは、大阪の中堅商社で三年間OLを経験した。社内恋愛の多いと聞く会社で、若い人がたくさん働いていて活気のある会社だった。お馬鹿に見えるわりには、仕事ができるってことでその落差が面白がられた。案外とちゃっかり重宝がられる存在だったように思う。だけど、あたしには、そのぬるま湯のような生活はやっぱり何か違うような気がした。

―行くぞ!アメリカへー

あたしは、ひそかにアメリカ行きの計画を練った。半年で米国貿易事務の資格を取って、その後有給で一年間働くというプランだった。おしゃれに人一倍気を遣うあたしが、新しい洋服を買うのも我慢して貯蓄に励んだものだった。でも、出発日の数週間前に突然法律が改正された。米国ではそんなことが時々あるという。実務経験が五年以上なければ、有給では働けないのだとさ。まったくついてない話で、二年間年数が不足していてその資格がなくなった。留学斡旋業者とすったもんだの挙句、アーバインの大学のビジネスコースに行くことになった。おしゃれな高級住宅街で、治安のいいことが最大の理由だった。

どこまでも広がるカリフォルニアの青い空と、おそろしく背の高い椰子の樹があたしを出迎えてくれた。

といっても最初のホームステイ先は最悪だった。特に味のないような鶏肉や、白菜一品だけとか、明らかに食費を浮かしてることが見え々だった。理想のホームステイ先を探して、ネットや友人のつてを辿って何度がステイ先を転々とした。あるフィリピン系米国人のエンジニアの家の食事は最高に美味しくて、毎週のようにホームパーティが開かれた。でも小さい子どもがまとわりついてきて、うるさく感じだした。我慢ということが余りできない性分らしい。

大学での生活はけっこう面白いものだったけれど、ひとつだけ決めていることがあった。

それは、日本人とむやみにつるまないってことだった。日本語ばかりで話しをするのだったらここでは何の意味もない。とにかく私はアメリカ人になりたいのだから。

それにしても、留学生の授業料は高すぎる。なにしろ現地の人の一〇倍なのだから。この差別は何のだ。おかしくねえ?

語学学校へ行かず、いきなり地元の学生と一緒に勉強することになった。ちゃらんぽらんに生きてきた高校、大学時代にはあり得ないほど、勉強にはまった。一度社会人になったにもかかわらず、親に授業料を負担してもらい、なけなしのお金をはたいて来たんだもんね。もとはとらなくっちゃ。 

もちろん、文学とかなんとかそんな面倒くさいものにはいっさい興味はないし、小説なんか年に一度だって読んだことはない。それでも履修した全ての科目をオールAで修了できたことは自分にご褒美をあげてもいいくらいのものだった。

そして秋には、OPT制度(日本人留学生が学業終了後、一年間だけ研修生として有給で働ける制度)に申し込んだ。派遣会社に登録していたあたしは、某日系大手電気メーカーに内定していた。派遣の担当者は

「うちから、あそこへ採用されたのは、初めてだよ。」

 って少し興奮気味に喜んでくれたほどだったのだ。社員はほとんど現地人で、日本人はマネージャーと現地の社長だけだった。アカウンティングや秘書業務を任されるはずだった。あわよくば現地のエンジニアとの恋愛や、取引先の御曹司との結婚だってありだったかもしれないのだ。ちょっとした妄想として。

ここまでは、“強運の飛鳥”そのままだった。

 

でも、あの時がまさに悪夢のはじまりだった。

―マリアのやつのせいでー

お金さえあれば訴えてやりたいくらいだった。ここは訴訟の国なのだ。

あたしはすっかり大学の学務課のマリアを信用しきっていた。移民局へ出す書類を提出したのが十月。それを代行してくれるのが彼女らの仕事のひとつだ。でも十一月が来ても移民局からのOPTの許可証は届かなかった。

私はじりじりと焦っていた。派遣会社の人も、学校に問い合わせるようにと何度も言ってきた。

「マリア、まだ許可証が届かないんだけど、どうなってるの?」

「それなら大丈夫よ。もう郵送してあるから、心配しなくていいわよ」

マリアはさらりとそう言った。その言葉を信じるしかなかった。しかし、十二月になってもそれは届かなかった。アメ人を信用していたあたしがAHOだった。

そんなある日、移民局から通知が届いた。それは許可書ではなく全く意外な内容だった。

―あなたの文書は改正前のフォーマットですので、使用することはできません。再度提出し直してくださいー

しかも、つい数日前(十二月の二十日過ぎ)に投函されたものだった。アンビーバブル!!

何度も催促に行った時には、書類はまだ事務室の他の文書の下に埋もれていたのだ。

私の頭に身体中の血が逆流し、怒りで沸騰していた。翌日、あたしは大学の学務課へのりこんだ。

「マリア、いったいこれはどういうことなの!」

 あたしは、カウンターの上に書類を叩きつけた。

「これって、つい三、四日前に出したんだよね?しかも古いフォーマットで。いったいどういうことなのよ?あたしが依頼したのは確か十月だったよね」

 それを聞いたマリアは、

「オーマイゴッド!」

 と、大袈裟に叫んだ。

―はあ? 何がオーマイゴッドだと?悪業は必ずばれるものと相場が決まっている―

「とても忙しかったし、途中に休暇も入っていたからね。」

「それなら、他の人に頼むこともできたはずだよね。それに、あたしは何度もここに来て

確かめたよね。」

「……」

「あんたは嘘ばかりついて、いったいどういうことなのよ?」

「それは……」

「しかもマリアは、申請中に日本に帰っても大丈夫、コメントを書くからなんて言ったよね」

「まあ……」

「来月から決まっていたあたしの就職は取り消されるのよ。どう責任とってくれるのよ」

 しかし、この小太りでそばかすだらけの中年女はどうしても謝ろうとしなかった。力のない留学生が何もできないと思って舐めきっているのだろうか。あたしは周りの目などかまわず大声で責めたてた。あたしだって生活がかかっているのだ。

「なんとか言いなさいよ!謝れ!」

いっせいに他の事務員が目を丸くしてあたしたちを見ていた。

「……アイム……ソーリー」

 しぶしぶマリアは蚊の鳴くような声でそう言った。でも心底そう思っているようにはどうしても思えなかった。こちらの人は絶対に自分から謝らない。

―謝ってもらったところで事態が好転するわけではないし、ほんとうなら一月から新しい会社で働けることになっていたのに。全てが宙に浮いたまま、消滅してしまった。お金だってないー

 怒鳴り終えた後の興奮が覚めないまま学務課を出ると、あたしの涙の素がツンと鼻にあがってきて、口惜し涙が窓を伝う雨の滴のように頬を伝った。それなのに青い空には太陽が明るくあっけらかんと輝いていた。けど、あたしの心模様は曇天で、遠くなだらかな青い山々の上に雲がずしんと落ちていた。

家に帰っても頭の中が真白なことには変わりなかった。それは夢ではなくまぎれもない現実だった。あたしは、その口惜しさを聞いてもらいたくて、ヴィヴィアンに電話をした。

「飛鳥、ちょっとミスったよね。でもマリアの犠牲者は他にも何人かいるらしいよ。そんな話聞いたことあるもの」

彼女は台湾の富豪の娘で、この国の永住権を持っている五歳年下の友人だ。

「全部マリアのせいよ」

あたしは、鼻水がこぼれそうなのもかまわず、しゃくりあげた。

「同情はするけど、あなたも甘かったと思うよ」

いつもは鷹揚で、大きな瞳が愛くるしいお嬢様だけど、意外としっかりしている。

「そうかなあ、でも……」

「自分のことでしょ?何でも自分の目で見て確かめてみなくっちゃ。自己責任だよ」

「自己責任?」

「うん、そういうこと。でもおさまらないよね。校長に話してごらんよ、飛鳥」

彼女はそう言って慰めてくれた。

「聞いてくれて、ありがとね」

―よし、プレジデントにマリアのことを話して首にしてもらってやるー

あたしの頭の中にむくむくとその思いが湧きあがり、さっそくメールで校長にアポをとった。数日後、校長に会うと、既にその報告はマリアのボスからあがってきていた。校長室で、最初から事のいきさつを全て話した。

「マリアを処罰してほしいこと、そして、内定していた会社に事情を話して取り消しを解除してもらえないかと頼んでくれるように」と。

 後日、校長から返事が来た。結果はやはりアウト!わかってはいたけど、どうしようもないことだった。無力な自分を感じないわけにはいかなかった。ヴィヴィアンの言うように何でも人を無条件に信用してはいけないのだ。自分にも甘さがあったことは認めよう。

数日間、「ストレスって何?」って人に聞いていたほどの、楽天家のあたしもさすがに落ち込んだ。でも、じっとしていてもお腹はすいてくる。

―そうだ、こうしてはいられないのだ。あたしは立ちあがらなければいけない。明日からまた動きだそう。食べるためにー

 こうして、あたしの先の見えない職探しの日々は始まった。いくつもの派遣会社に登録しまくり、目ぼしいところがあればフリーウエイをぶっとばした。値切ったトヨタの中古車でどこへでも行った。ANAの物流センター、個人輸入に毛が生えた程度の小さなオフィス等。書類選考で落ち、仮に二次に進んでも面接で落ちと、何度もトライした。そのうち自分が何をしているのかさえわからなくなるほどだった。

外大を卒業し、貿易事務をしていたという実績ではなかなか難しいのだ。ここでは、誰もが英語を喋るのだから。英語専攻というだけでは、翻訳家としてしか通らなくて、商学部とか経済学部とかでなければ雇用は難しい。日本語さえ満足に話せない私が、翻訳なんかできるわけないじゃん。どんな訳になるのか、想像しただけでも空恐ろしい話だ。

 それでもあのリーマンショック以来、地元の人でも職にありつくのは至難の業なのだから、どう考えてもあたし程度の経歴では雇ってくれるところなどない。

 

とりあえず、学生時代からもぐりで雇ってもらっていた、日本人向けレストラン「うきた」で、ウエイトレスの仕事の時間を増やすことにした。その間に職をみつけるしかない。

「うきた」は地元ではけっこう有名なレストランだった。健康志向の波にのって、ダイエットフードとして手打ち蕎麦を売りにしていた。近くに日系の駐在員も多く、昼はビジネスマンやOLで混雑し、夜になると、地元の住民が訪れかなり繁盛している。

人見知りをするあたしが、一番避けたかったウエイトレスのアルバイトだったけど、仕方がない。最初、オーナーは夜に入ってくれる人を募集してはいたけど、それだけは嫌だった。夜はパーティやらなにやら友達との遊びもはずせない。それで週二回ほどのバイトを毎日できるよう増やしてもらった。

それに賄いごはんがけっこう美味しいし、何より食費が浮く。きわめつけは魅力的なチップだった。時間給だけではたいした額にはならないけれど、このチップというやつが馬鹿にできない代物なのだ。

あたしは結構要領よく仕事をこなした。手際がいいらしい。数ケ月後には、バイト仲間もたくさんできた。日本から来てバイトで生活している人達がこんなにもたくさんいることに驚いた。そのうち軽口を言えるほどには親しくなっていた仲間が

「飛鳥の男の振り方はじつに見事だね」

と言ってにやりと笑った。

「どういうこと、それ?」

あたしは、しれっと答えた。

 

 あたしが、大阪で勤めていた中堅商社の同僚の貴弘と付き合い始めたのは、こちらに来る数ケ月前のことだった。彼は経理担当で、実に数学的な頭脳をもっている男の子だった。関西的なのり、つっこみがあたしの感覚とあったということだね。

「きょうの飛鳥のポニーテール可愛いな」

 なんて、仕事中メールを送ってくれたりしたっけ。

「あんたは、いつのまにか、人の心にずかずかと足音をたててはいりこんでくる子やで」

親しくなってから貴弘はそう言った。彼は硝子の神経を持っている男の子で、繊細って感じの男の子だった。そして、貴弘はあたしが退職してから二ケ月後の三月に、アーバインに遊びに来てくれた。MTVで見たリアリティドラマ「ラグーナビーチ」の舞台へ二人で遊びに行った。パーティと買い物が大好きな金持ちの高校生たちが、繰り広げるおしゃれな青春群像は文句なしに面白かった。

芸術家の住む街といわれるだけにアートギャラリーや土産物屋さんが軒を連ねて、崖の上には、瀟洒な高級住宅が建ちならんでいた。三月といっても、昼間はけっこう陽射しが強い。あたしと貴弘は手をつないで浜辺へと続くゆるやかな坂道を降りていった。両脇の木製の手すりに添って、名前も知らない赤や黄色の小さな花が群生して風に揺れていた。

その日あたしは、淡いピンクに可愛い金色の星やお花を散らしたキュートなマニュキュアを塗っていた。けど、冷え性のあたしの指は冷たく、鶏の足のように筋ばっていてそれがプチコンプレックスだった。女の子のように華奢な貴弘の指先からやつの温かさが伝わってきた。

ブルーグリーンの海はつきぬけるような空の青さに溶け、白い砂浜ではビーチバレーを楽しむ若者や家族連れで賑わっていた。しばらく砂浜を二人で散歩した後、小洒落たブティックを見つけた。

「このTシャツけっこう可愛いやんなあ」

「うん、まじ可愛い。おそろで買っちゃう?」

「うん、買っちゃおうか」

 OC(オレンジカウンティー)というロゴの入った色違いのTシャツを買った。あたしが若葉色で貴弘がミルクホワイトで。土産物屋さんをひやかしたしたり、ギャラリーで絵を鑑賞したりしているうちに瞬く間に時間は過ぎた。

 空がラベンダー色に染まりはじめると、みんなが慌しく帰り支度を始めた。サーフィンボードを小脇に抱えた若者の姿も黒いシルエットになって動きだした。濃い夕闇の中、太陽が黄金色の光を放ちながら水平線に沈んでいこうとしていた。あたしたちはうっとりとそれを眺めていた。空に白い海鳥が羽を広げ、いつか黒い点になって消えて行った

「めっちゃきれい」

「ほんまやなあ。  けど飛鳥、太陽は沈んでも、俺らの思いだけは変わらんといて欲しいなあ」

 と、貴弘がポツリと言った。ふいに薄いやつの唇があたしの唇に重なった。耳の奥で寄せては返す波の音だけが聞こえていた。

こぎれいなモーテルで迎えた朝、テーブルに向かい合って、ほおばったベーグルとカフェオレの味とやつの笑顔は最高だった。ベッドの上の無造作に乱れた二つの枕と、シーツの白さがやけにあたしの心を刺してくる。あたしたちにとって、このラグーナビーチでの数日間が恋愛のピークだったような気がする。

「遠距離恋愛は100パーセント壊れるよ」

 誰かがそう言ってたけど、けっこう真実だったかもしれない。二度目に貴弘がアーバインに来てくれたのは夏の真っ盛りだった。ハリウッドに足をのばしたり、ラスベガスに行ったり、表面上はとても楽しそうに見えたかもしれない。空港へ送って行った時、背を向けていた彼を覗き込むと泣いていた。それなのに私は泣けなかった。

「年末には帰ってくんねんやろ?」

「え?……まあね」

 あたしは曖昧に答えるしかなかった。あたしには帰る気などさらさらなかったのだから。

ただ、急速に彼への気持が覚めていくことに気づいていた。彼があたしの行動を束縛しようとすることに耐えられないのだ。自分を曲げてまで人にあわせることなんて考えられない。

 その後、何度かメールのやりとりや、スカイプで話したりすることはあったが、前のように楽しくはなかった。あたしには大学での新しい友人関係やパーティ、楽しい行事で頭がいっぱいだった。そして、ぎくしゃくとした沈黙だけが未来を暗示していた。そして、あたしは、きっぱりと連絡を絶った。献身とか未練なんて言葉はあたしの辞書にはない。

ほんとは少し淋しい女の子なのかもしれない。いつも自分から好きになるということがない。いつも男の子が好意をもって近づいて来てくれて、なんとなく気持が傾いてきて、つき会い始める。けどいつか冷めてしまうと我慢できなくなって、スパッと切ってしまうというパターンだ。

そういえば以前友達に

「あんたはそこそこフェロモンがでていて、男の子の気をひくかもしれんけど、『そういえば昔、飛鳥っていうちょっと魅力的な女の子もいたっけ』ていうように、過ぎた風景の中の通りすがりの存在になりかねないタイプかもねえ」

と心配顔で言われたことがあった。

 

その夜のかなり遅く、パソコンを開けるとママがスカイプをしようと合図してきた。

シリアルみたいに乾いていて、ドライに見えるらしいあたしだけど、家族や友達には気を遣っているつもりだ。ミルクをかけてしばらく置いた後みたいにしっとりと柔らかい心になれたりするのだ。

「元気でやってる?」

ママはあたしに輪をかけた天然ぼけだけれど、一番の理解者ですごく応援してくれてる。

話題は認知症になってしまったおばあちゃんのことだった。骨折して入院していたおばあちゃんの様子が、次第におかしくなっているということは聞いていた。脳が萎縮して、記憶をつかさどる海馬が暴れだしたらしい。時々わけのわからないことを言って、いきなり二十五歳の妊婦さんになったり、子どもになったりするらしい。徘徊もあるということだった。

 整形外科だったので、骨折が治癒した時点で、退院させられたのだという。家の近所の病院に入院が可能かどうか出かけて行ったものの、その紹介書を見るなり診察もしないで、他の病院に電話をしたらしい。何が書かれていたのだろうか?そこしかベッドがあいていないといって、紹介されたのは精神内科だったようだ。ママ達は、何か違うんじゃないかと思いながらも、おたおたと入院の支度をして、そこに入れてもらったらしい。

でも、「まあそこのひどいことといったらない。あそこだけは絶対ださなければ」と家に連れ帰ったらしい。

 けど、覚悟していたものの、家でみるのはすごく大変らしい。パパあきらとママは共稼ぎだから、昼間はおばあちゃんがひとりになる。ヘルパーさんと連携しながらなんとかやっているらしい。でも人との交流を極力避けながら生きているあきらが、意外と思えるほど献身的におばあちゃんの面倒を見ているらしい。隠れていた母親に対するあきらの優しさを発見できたことはいいことだったかもしれない。

次第に遠いところへ行ってしまいそうな気がするおばあちゃん。

 ―おばあちゃん、お願いだから記憶の中からあたしを消さないでねー

 あたしはそう祈らずにはいられない。

「そういえば、明日はおじいちゃんの命日だよね」

「あ、忘れてたよ。九月二十九日か、よく覚えてたね、あんた」

ママはすっかり意識の底になかったようだった。あたしは、忘れないように携帯電話のカレンダーにちゃんと入力してある。建設省の役人だったおじいちゃん。地方公務員で、普段は口数も少なく、とても威厳を保っているくせに大酒飲みで、酔うと無茶苦茶だった。飲んだくれると、唾をとばしながらわけのわからないことをわめいてたよね。でも彼はあたしを愛した。それだけはとてもよくわかる。

「ママたちも大変だと思うけど、おばあちゃんのことよくしてあげてね。」

「……うん、わかってる」

 ママの声が少し小さくなった。

「それと、あきらとも少しは会話をするんだよ。この家のガマとヴイッキーはとても仲がいいよ」

とにかく、ママたちには会話というものが成り立っていないように感じてしまう。お互いの価値観が微妙にずれていて、噛み合っていないのだ。それにお互いが気づいていて面倒になり黙っているのだと思う。

ここの家のガマは六十を過ぎてもまだ現役で働いていて、マラソンやら、パソコンやら多趣味で何にでも挑戦しようとしている。ヴィッキーはとても料理自慢で、季節の花を植え替えてはガーデニングを楽しんでいる。肩をつつきあいながら、よく二人で庭のベンチでお喋りを楽しんでいる。あたしのパパやママもこんな夫婦であったらいいのにと思う。

 

 翌日の時子さんの送別会には、会社の同僚五、六人が「うきた」へ集合した。

「時子さんがいなくなると、淋しくなりますよね。」

 それぞれが淋しさを口にした。でも皆、すぐに時子さんがいなくなったことにも慣れてしまうのだろう。

「あたしのOPTの期間ももう数ケ月で切れちゃうんですよ。帰りたくないけど、もう一度学生に戻るか、日本に帰るしか選択肢は残されてないんですよね」

「そうだよねえ」

「帰っても100パー就職はないしね。もういっそ偽装結婚でもしちゃおうかなあ」

最後の切り札、“偽装結婚”という言葉が頭をかすめる。結婚してグリーンカードを取得するという方法が考えられる。

すると、時子さんが即座にこう言った。

「やめたほうがいいよ、前に勤めていたある女の子がね、アメリカに残りたいために、ちょっとした知り合いに頼んで、偽装結婚をしたらしいんだけど、それが移民局にばれちゃってね。その後がもう大変!」

 日本人が現地の人と結婚すると、二年間は同居しなければならないらしい。監視の目が

常に光っていて、証拠写真とかもいるらしいのだ。もめにもめて、結果、彼女は近く強制送還されるそうだ。

「もしなんだったら、そのことを神崎さんに相談してみたら?」

 時子さんはそう勧めてくれ、三日後アーバインを去った。

あたしはさっそく新しいボスの神崎氏に、相談してみることにした。

「ボス、今後のことでちょっと御相談したいことがあるのですが、ちょっとお時間をとっていただけないでしょうか?」

日本への出張から帰って来た神崎氏に声をかけた。

「僕もそのことが気になっていて、君の意向も聞いておこうと思っていたところなんだ」

 彼はそう言ってくれた。何かいい方法を考えてくれるかもしれない。会社がビザサポートでもしてくれないだろうかと儚い期待がなかったといえば嘘になる。あたし達は、会社の近くのタイ料理屋さんで待ち合わせることにした。

「御存知と思うのですが、あたしのOPTの期間も今年いっぱいで切れてしまいます。そこでまあ……会社でビザサポートをしていただけることは可能でしょうか?」

「え?それはまず不可能だと思うよ。この不景気だしね」

 頼りにしていた割には、ばっさりと斬られてしまった。

「やっぱり、そうですよね。」

「うん、なかなか難しいね……。ところで君」

「は、何ですか?」

 何だか神埼氏の様子がおかしい。疲れていたのだろうか、酒のまわりも早くなったようでかなり酔っぱらってきたようだ。

「ねえ、高堂さん、前から言おうと思ってたんだけど、……君って案外僕のタイプなんだよねえ」

 やばい。妙な展開になってきた。

「はあ?」

「だから、もし君さえよければ、僕の一時的な恋人にならない?」

 ―何を言うとんじゃ、このおっさんはー

「何をおっしゃってるんですか?さっぱり意味が読めません」

「だぁかぁらぁ」

 神埼氏の眼が赤い。何度話しをもとへ旋回させようとしても、神崎のAHOはこの話題へもってこようとする。

―てめえには、妻も子どももいるんだろうが、ふざけんな。舐めとんか!ー

あたしは、むかむかと嫌な気分になり、得たいの知れない吐き気を感じた。

「ボビー、ちょっと今からすぐ会えない?」

 あたしは、バッグから携帯電話を取り出すと、神崎氏に聞こえるようにあからさまにボビーに電話をした。