黒猫のティンガティンガ

菊野  啓

 背中のデイパックと片手に提げたボストンひとつ、この世に生を受けて二十五年、全財産はたったこれだけだった。なんと潔い生き方かとむしろ爽快感さえ覚える。芹沢康夫は、がらんとした昨夜までの住処を眺めた。ここ二年半ほど、自動車製造工場で単調な工員生活を続けてきた。
 まるで大きなプラモデルを組み立てているみたいだった。この仕事をとても気に入っていた。小さい頃から車がとても好きだったし、ものづくりの実感を得ることもできた。
 しかし、ずっとこれを続けていくという目論見は、昨今の金融危機とやらで突然ご破算になってしまった。販売台数が前年の半分以下という事態に、天下のヤマト自動車とてあわてふためいた。派遣労働者の解雇という便利な調整弁を開く。同様の出来事が、流行語のように日本中の若者の頭上に落ちかかっている。
 退去の挨拶をするために階段を下りた。社員寮の閑散とした食堂のテーブルで、寮母の竹内さんが新聞を読んでいる。
「お世話になりました」
 頭を下げると、老眼鏡をずらして康夫の顔を見た。
「この師走のせわしい時期に、会社も無慈悲なこったね」
 口をへの字にして言う。
「しかたないです。もともとそういう契約でしたから。自分のせいです」
「あんたらの人の良さにつけ込んで、頭のいいヤツらが勝手に押しつけた契約さね。自分の都合でどうにでもできるように。若者を大切にしないこんな国は、そのうちきっと滅びるよ」
 ゴミ出しや夜中の騒音にやたらと厳しかった寮母さんの怒りの矛先は、会社を通り越して政府や国に向けられる。
「ところで、あんた行くところはあるのかい?」
 行き先のあては、ない。自動車工場のラインがある四国のこの街で、宿を借りられそうな友人の一人もいない。柴田美智子の顔が浮かんだが、すぐにやりきれない後悔と入れ替わった。
「大丈夫です。とりあえず友達のところへでも転がり込もうかと」
 咄嗟に出た嘘に訝るような目を向けてくる。
「餞別だよ」
 籠の中のリンゴをひとつ手渡してくれた。
「ありがとう。お元気で」
 お礼を言うと、両手で握手を求めてきた。皺の多い分厚く柔らかな手だった。
「あたしもいつまでいられるか、わかりゃしないよ。食事を作る相手もいなくなっちまったし」
 竹内さんの憂鬱は、余白だらけのホワイトボードに広がり、急に天井が低くなったような閉塞感を連れてきた。
 意外とせっぱ詰まった焦りはない。いたって元気な体と経理からもらった給料袋で、しばらくは凌げることだろう。康夫は赤いリンゴに、諦めと楽観をまだらに塗りつけて、掌の上でころころと転がしてみるのだった。
 冬の陽差しを浴びながら、ぶらぶらと歩いた。忙しそうに街を行き交う人々の中で、自分だけ時計の針が遅いような錯覚に陥る。重い足どりでオフィス街から遠ざかり、町はずれの公園へと向いた。
 平日の山城公園に人影は少なく、堀のアヒルたちも小屋の中で羽を休めたままだった。ベンチのひとつに座り、安定とひきかえた自由を噛みしめている。それは食えなくもないが、渇ききったパンの耳みたいな味だった。
 ぼんやり周囲を見回した。向かいのベンチに男がひとり座っている。着ぶくれたジャンパーの上下は薄汚れ、髪の毛と髭が無造作に伸びている。ただのホームレスではないことを、双眸の潤いが示していた。
 傍らには男のものらしい、青いホンダスーパーカブが停められている。後部には大きな荷箱がゴム紐で括りつけられ、さらに重ねて大小のザックが積まれていた。
 目が合うと男は、気安く片手を上げた。
「よお、寒いね。悪いんだが兄ちゃん、タバコ持ってねえかな?」
 康夫はジャンパーのポケットから、マイルドセブンを一本抜いて差し出した。
「切らしちゃってね。これから旅行かい?」
 ジッポのオイルライターで火をつけてやると、うまそうに深々と吸い込んだ。
「いえ、ただの宿無しです」
 派遣切りにあい、寮を追われてきたことを話した。
「へえ、そりゃてえへんだ」
 ちゃかすでもなく平然と言う。
「あなたはここでなにをしているのですか?」
 男の隣に座り、タバコを吸った。
「なにもしてないね。しいて言えば、猫を観察している」
「猫?」
「ほら、あそこにいるヤツらだよ。三匹いるだろ?」
 指差す先には、たしかに猫がいた。
「正確に言うと、二匹と一匹だあね。大きさの似ているシマと三毛が、ここを根城にする若い野良夫婦だな。黒くてでっかいのはちょっと前に現れた新参者ってわけだ」
 黒の鉢割れ柄の猫は、他の二匹から少し離れて所在なげにしている。
「あいつ図体はでかいんだが、からきしだらしなくってよ。たぶん、ちょっと前まで飼い猫として贅沢してたんだろうね。ほら、去勢されちゃってるだろ。金玉抜かれちまって、袋しかねえ」
 ぶら下がっているふたつの袋は、小さくしぼんでいる。
「いきなり捨てられたか、迷い込んできたか。なんにせよ、慣れない野良生活はきつそうだ」
 ひと抱え以上もある黒猫は人なつこそうな鳴き声をあげたが、寄ってくることはなかった。
「猫を眺めているんですか?何日も」
「そう、なんせヒマなもんで」
 男は春本だと名乗った。目の前のスーパーカブに乗って日本中を気の向くまま、野宿を繰り返しながら放浪しているのだという。この公園に流れ着いて二週間になる。
「これって原付ですか?」
「いいや、余裕のキュウジッシーシーよ。たくましい旅の相棒だあね。日本の誇る工業製品だ」
 自分も昨日までハイテクの車を作る工場にいたことを話した。もう一本タバコを勧めると、春本は嬉しそうに火を求めた。
「こんな極寒の中、野宿ですかあ?」
 我が身の上の現在の不安をそのまま口にした。
「心配ないって、どこでも人間寝られるもんさ。あれっ、ひょっとして兄ちゃんも今夜から?」
「ええ、先輩と御一緒させてもらえないでしょうか?」
 贅沢な飼い猫から急に野良猫に転落したという、哀れな黒猫を眺めた。猫でも情けない顔をしている。
「ふうん、まあいいけど。袖振り合うも多生の縁ってね」
 脂ぎった髪の毛を掻きながら、異様に白い歯を見せる。四十歳にも六十歳にも見える。奥行きのある風貌だった。
「旅は何歳くらいのときから?」
「忘れた」
 乾いた声で笑う。
「旅かあ、いいなあ」
「ああ、いいともよ。俺なんか、すっかり抜けられなくなった」
「僕もそうしてみようかな」
 小さなバイクで時間を気にすることもなく、行きたいところに行って、寝たいときに寝る。食うのに困らないようにするだけなら、どうにかなりそうな気がする。
「しろしろ。やってみな。世の中意外にも、旅人がいっぱいいるのに驚くぜ。いろんなやつが彷徨ってら。じんかんいたるところせいざんありってな。知ってっか?」
「青山って墓場のことでしょ?」
「世の中には死に場所はどこにでもあるってこった。それを選ぶのは自分だってこと」
 春本は眼をしょぼつかせながら欠伸をした。
 温暖化のせいなのか、低い太陽の陽差しは眠気を誘うほど優しい。康夫の初めての無宿生活を祝福しているかのようだった。それが甘かったことを、寝袋にくるまった春本と枕を並べて寝るうちに思い知ることになる。
 そこは公園の片隅にある、三畳ほどの広さの用具置き場だった。「どこにでもねぐらにできる場所はあるんだ、どうだ上等だろう」と得意げに言った。
 夜が進み、しんしんと寒さがしみ込んできた。曇ったガラス窓から、白い満月が冷めた光を降り注いでくる。ジャンパーを掛けただけの体から、熱がしだいに奪われていく。凍え死ぬ恐怖が、歯の根をかちかちと打ち合わさせた。ここはねぐらじゃなくて青山かと思った。
 横になったとたんに聞こえ始めた春本の鼾は、ときどきしゃっくりするように中断しつつも盛大に続いている。旅人になって放浪するという夢想を、いきなり打ち砕かれてしまった。何事にも中途半端な自らの甘さ愚かさを、誰かに糾弾された気がした。
 ふと実家の父親の顔を思い浮かべた。大学入学のために家を出て以来、顔を見ていない。「半人前のくせに」と投げつけられた父の言葉は、今でも背中に突き刺さったままだ。
 冷酷な月の光を浴びながら、泣き笑いの顔になって我が身の無力さを抱きしめた。そして、再び柴田美智子のことを考えた。
 この街に来てはじめてできた恋人、と言ってよいものかどうかもわからない。たった一度の邂逅に過ぎなかった。
 半年ほど前のその出来事は、夏が行ってしまうと同時に康夫の手からぽろりとこぼれ落ちてしまった。心の柔らかい部分にできた悔恨という名の傷口からは、いまだに新鮮な血が流れ続けている。
 突然に世界を覆った金融危機と同様に、美智子との関係をもう一度やり直すことは、とうてい不可能に思えた。



 柴田美智子とは夕暮れのコンビニで出会った。梅雨が終わりかけ、早い夏の気配が濃厚にし始めている頃だった。
 会社帰りとおぼしき彼女は弁当と飲み物を籠に入れ、レジの前に並んでいた。紺色の事務服姿で背が低く、スカートの下からのぞく両足は折れそうなほど華奢で細い。やっと肩にかかる黒く艶やかなストレートヘアだった。
 後ろに立った康夫も晩飯を買い、順番待ちしていた。その日は、たまたま竹内さんの都合で寮の食堂が休みだった。
 彼女の前の老女の様子がおかしい。レジが進まない理由がわかった。小柄で痩せた白髪の老女がうろたえていた。外出にはそぐわない半袖のパジャマ姿に、サンダルを引っかけている。金を払おうとして財布を忘れたらしい。
 どうにも振る舞いがちぐはぐだった。籠に入れた商品をその場に置き、老女は店を逃げ出した。誰もかまう者はいなかった。
 温まった弁当をぶら提げて寮までの道を歩いた。通りを二本ほど横切ったとき、さっきの老女と自転車を押している事務服の彼女に追い付いた。舗道の上で何か話し込んでいる。陽が落ちて薄暮の中、街路灯が次々に点灯していった。
 立ち止まった康夫に、困惑顔の老女が救いを求めてきた。
「ねえ、あなた、ここは山城町でしょう?」
 道に迷ったらしい。不思議なことに老女の探す場所は、歩くにしてはいささかの距離だった。サンダルからはみ出た白い靴下が、泥で黒く汚れている。
「認知症だと思う。私の亡くなったおばあちゃんが同じ病気だったからわかるの。徘徊中に帰れなくなったのね、きっと」
 康夫の耳にそっと口を寄せて囁いた。
「寝間着姿だし、ふらりと出かけて迷子になったのよ」
 そんなこともあるのかと思った。認知症という病名だけは知っていた。
「柴田美智子です」
 元気な声で老女に向かって自己紹介する。つられて康夫も自分の名を告げた。なんだかちょっと照れ臭い。
「帰り道が同じみたいだから、よかったら御一緒しましょう」
 美智子は縮こまった老女の背中に手を回し、家へ帰るための目印がないかを聞き始めた。
「煙草屋の前の赤いポストを左に曲がるんだけどね。はて、もう行き過ぎちゃったかしら」
 老女はきょろきょろと落ち着かない。長い時間、我が家を探して歩き回っていたのだろう。
「手伝ってくれる?おばあちゃんの家は山城町のどこかよ。赤いポストを探してきて欲しい」
 姉のような口調で言った。子供の頃に迷子になったときの不安を思い出し、老女の気持ちを想像して気の毒になった。
「わかった。煙草屋の前のね」
 これ持っててくれる、と弁当の入った袋を預け、かわりに彼女の自転車を借りて飛び乗った。心当たりに向けて走り出す。思い切りペダルを踏み下ろすと、ぎっこんばったん壊れそうな音をたてた。
 信号が変わるのを待ちかね、矢のように自転車を走らせる。通行人に尋ねて目的のポストをやっと見つけ、全速力で美智子たちのもとに戻った。汗だくになり、Tシャツは濡れて絞れるほどだった。
「あったよ。赤いポスト。煙草屋付きで絶対まちがいなし!」
 朗らかに老女と談笑している美智子に向かって、大声で叫ぶ。その途端、高校生の自転車がぶつかってきた。危うく正面衝突は避けられたが、派手な音をたてて地面に倒れた。
「あら、大変。気を付けないと家に帰れなくなるわよ」
 老女が他人事のように言った。
 美智子は通りかかったタクシーを拾い、老女と二人で乗り込んだ。運転手に煙草屋の前の赤いポストの位置を詳しく伝え、康夫は再び自転車にうちまたがる。タクシーを追いかけて走り出した。
 赤いポストの前で老女は首を傾げた。
「どこだったかしら。このあたりもすっかり変わってしまって」
 どんなふうに変わってしまったのかわからない。
「そういえば家の前に電電公社の出張所がある」
 老女が生きている今はどんな時代なのだろうと思った。
「電話ボックスのことかしら?」
 美智子は電話をかけるジェスチャーをしてみせた。
「うん、それそれ。うち専用の無人の交換台。世の中便利になったものね」
 便利になるたびに、何か大切なものがひとつずつ遠のいていく。それに誰も気付いていない。康夫はそんな感慨を持っていた。
 仕事で毎日、先端技術の結晶であるハイテクカーを作りながら、趣味のクラッシックカーが好きだった。いつか本格的に整備してみたいと思っている。
 山城公園の裏手の狭い通りを行きつ戻りつしながら、最近めっきり数の減った電話ボックスを探した。はたして老女の家は、ポストの角を左に曲がった路地を、ずっと奥へ進んだところにあった。小さな二階建ての家の向かいには、通りを挟んで電話ボックスがある。
 シャッターの下りた一階は車庫になっているらしい。我が家を見つけると、老女は嬉しそうに裏側の玄関に向かった。
「じゃあね、あなた達も道草せずにお帰りなさいよ」
 振り向きざま、ひらひらと手を振る。その後ろ姿を、美智子と二人で見送った。
「ごくろうさん。やったね」
 笑いながら弁当の袋を康夫に返そうとして、手を止めた。
「あ、肘から血が出ちゃってる」
 花柄のハンカチを出して、傷を押さえてくれた。
「大丈夫?よかったら、わたしのうちに来ない?消毒して絆創膏くらい貼ってあげる」
 誰が見ても美人というわけではないが、色白で潤んだ瞳を持つ素敵な女性の申し出を断るほど愚かではなかった。
 自転車の荷台に彼女を乗せた。すっかり夜になった路地を、何が嬉しいのかきゃあきゃあと笑い合いながら疾走する。潤滑油の切れたチェーンがぎっちぎっちと軋んだ。千切れよとばかりに、ペダルを踏み下ろす。親に内緒で家を抜け出したいたずらっ子が、夜の気配に昂奮して騒いでいるかのようだった。
 古びたマンションの駐輪場に滑り込んだ。建物を囲む高い生け垣は、群生するアジサイだった。鈴なりに咲き誇った季節を過ぎ、落ちた花びらが湿った地面を汚している。三階までの階段を上がりながら、梅雨の終わりに特有の植物のにおいを嗅いだ。
 1LDKの部屋は、女性の一人暮らしには十分な広さに思えた。小型テレビと白い布張りのソファに四人掛けのキッチンテーブル、壁には日めくりカレンダーがピンで留めてある。きちんと片付いて清潔だが、若い女性にありがちな何かが足りないような気がした。
「汗を拭いて。お弁当でもつまみながら、ビールでも飲みましょう」
 康夫の肘に器用な手付きで絆創膏を貼り付ける。
「オヤジっぽい部屋だと思ってるでしょ?」
 冷蔵庫の中からよく冷えたハイネケンを取りだし、手渡してくれた。
「とんでもない。童話に出てくるお姫様の家かと思った」
「アジサイがあるからいいの、ここは」
 一輪挿しには、無造作に手折ったうす紫色の花が立っている。プルトップを引き、乾杯した。走り回って火照った体を、冷えた炭酸が一気に冷ます。
 電力会社に勤めているOLだと美智子は言った。オールドレデイ だけど、と目尻の皺を気にしながら笑う。康夫より五つほど年上らしい。二人で同時に二本目のビールを開けた。
「アジサイの森に住むお姫様に、もういちど乾杯」
「ありがとう。てきとうにやってるけど、なんだか窮屈な世の中になってしまった。とくに、いい歳の女が一人で生きていくにはね。息が詰まりそう」
 溜息をつく美智子の気持ちが胸に伝わった。男の康夫だって歳をとるにつれて、少しずつ自分の居場所が縮小した気がする。
「人間が増えすぎたのがいけない」
 暗くなりかけた話題をそらしたかった。
「世界の人口は六十六億人、人類は誕生してからわずか四百万年の間に地球上にはびこった。。地球ができてから四十六億年というから、たとえばこれを一年に例えてみる。地球が一月一日の午前0時に生まれ、今が大晦日の夜十二時だとしたら、人類が生まれたのはいつ頃になると思う?」
 真面目な顔で思案した後、美智子は「十二月三十一日の午後五時頃」と答えた。
「正解、さすが」と康夫は親指を鳴らして賞賛した。
「つまり生まれてから、たった七時間しかたっていない。しかも七時間のうちのほとんどを、地球を傷めすぎることなく無難にやってきた。ここ二百年くらい、さっきのたとえで言うと最後の一秒で、これをとんでもなく破壊し尽くそうとしている。人間ほどたちの悪い害虫はいない」
「環境のためには、人間が減ればいいってこと?」
「そう、最良の環境対策は、世界の人口を無差別にせめて十分の一くらいにすること。そのうち核戦争が起こるか、巨大な隕石が降るか、おっかないウィルスが蔓延するかして、イヤでもそうなるかもしれないけどね。あとは地球が勝手に回復浄化してくれるさ」
「なんだか、話ちょっとずれてきてない?」
 微苦笑しながら美智子が体を少しだけ寄せてきた。
「うん、わかってる。言いたいのは、君や僕の孤独の悩みなんて一瞬のうたかたの夢、たかがしれてるってこと」
 しんなりとした丸い肩を抱き寄せながら、そっと唇を合わせた。脳をとろけさせる柔らかさだった。
 ゆっくりと衣服を脱がせ合う。雪のように白く、それでいて熱を帯び、うっすらと湿って滑らかな肌だった。ためらいながら触れると、指にすぐ馴染んできた。
 胸を露わにしたとき、美智子は急に態度を硬くし、脅えに近い表情を浮かべた。それが何を意味するのかわからなかった。
 その何かを追い払おうと、康夫は思いつく限りの愛撫を加えた。しかし、相手は少しでも胸に触れられるたびに、苦悶に近い声を漏らし、少しずつ熱を冷ましていくようだった。
 いきり立つ自分の体の一部の命じるままに、相手の性器の反応を確認して、かろうじて繋がった。やがて脳を灼く一瞬の快感とともに果てたが、お互いを手に入れ合った充足感はなかった。
 ベッドに並んで横たわり、うつ伏せになった背中を撫でようとした。枕に顔を埋めたまま、彼女は泣いていた。やがて押し殺した嗚咽になる。声をかけることもできずにうろたえた。
「突然ごめんなさい」
 濡れた顔で言った。
「ねえ、あなたは乳房のない女を愛することができる?」
 唐突な問いかけの答えを持つはずがなかった。
「わたし、乳ガンなの」
 癌という言葉が、頭の中で教会の鐘のように鳴り響いた。
「ここ触ってみて」
 小ぶりだが乳輪の色が薄く形のいい乳房だった。その片方に康夫の指を導く。付け根のあたりにあるしこりに触れさせる。
「来週、全摘手術を受ける。癌の広がり具合によっては、乳房を全部失うかもしれない。これに触ったのは、あなたが最後の男になるかもね。どう?どん引きしちゃう?」
 しだいに落ち着きを取り戻していく。
「母親も乳ガンで死んでしまった。私が小学生の時、アジサイの花の咲く頃だった。認知症の祖母の介護で、自分の体を後回しにした結果だったの」
 起きあがって膝を抱いた。
「半年の間に二人とも逝ってしまった。本当に悲しかった。父も早くに亡くなっていて、私だけが一人取り残されたの。そのとき訪れた孤独の恐怖は、今も薄まることなく続いている」
 シーツを引き寄せて、涙を拭いた。
「母が最後の入院をする直前に、きれいに咲いたアジサイの群生の前で写真を撮ったの。小雨の中、母がさしていた透明のビニール傘の上に、カタツムリが一匹落っこちてきたのよ。ぽとりってね」
 ふと雨の気配を感じる。
「粘液を垂らしながらくっついてた。それをアジサイの葉の上に戻してやりながら、母は言ったの。こう見えてもカタツムリは強いんだよ。カタツムリは雌雄同体、オス、メスどちらにでもなれて、繁殖力旺盛なんだからって」
 傘の上を這いずった後に残る透明の軌跡を見た気がした。
「私に強く生きて欲しいと言いたかったのね、きっと」
 それ以来、アジサイの葉の上にいつもカタツムリを探してしまう。だから、アジサイの垣根のあるこのビルに住んでいる。
「母は亡くなるときに私の手を握って言ったの。あなたも気をつけてって。いつも狙われているからねって」
 白くて細い両手で顔を覆う。
「母は死ぬ間際になって、予言めいたことを口にした。わたしも?何に狙われているというの?とうとう聞くことはできなかった。でもその言葉は、とても嫌な感じで耳に残ったの」
 彼女の怖れが伝わってきた。
「母親の命を奪ったのと同じ病気が、つい最近になってわたしを襲った。とうとうやってきたかってかんじだった」
 そのときの驚きと諦めを口にした。
「自分の遺伝子にプログラムされていると、なぜか確信してた。その予感に怯えながら、たった一人で生きてきたの。いつ時限スイッチが入るのかと思うと、ろくな恋愛もできなかった。その運命に逆らって闘う覚悟がなかったから」
 胸にできた腫瘤がじわじわと大きくなるのを、漫然と観察していた。恐怖が彼女を竦ませた。意味のない逡巡が医者にかかるタイミングを遅延させた。
 診断を告知する若い医師は、遅い受診を叱責する口調で、できるだけ早期の外科手術を勧めた。命の危険は少ないが乳房は失うかもしれないと、あっさり宣告した。命に比べたら乳房など取るに足りないだろうという表情だった。
「だけどわたしには、乳房のない女としての自分を想像することができない。勇気を奮い起こそうと努力しては、ひどく落ち込むということを繰り返しているの」
 彼女の体を貫く鉛のような孤独を想った。
「カタツムリだったらよかった。そしたらさっさとメスをやめてオスになるのに」
 胸の内側をあったかいものが流れた。
「じゃあ、僕がメスになるよ」
「バカ」
 頬を寄せ、もう一度唇を合わせた。ほのかに海の香りがした。
「君と付き合いたい。いま始まったばかりだと思う」
 目の前の顔がくしゃっと歪んだ。
「ありがとう。でも次に会えるとしたら、手術からわたしが立ち直ってからにしたい。それまでは誰にも会いたくない。仕事も辞めるつもりなの」
「僕にできることがあったら言って欲しい」
「おかしな精神状態のときだけど、それだからこうなったんじゃない。わたしはあなたのことが好きになった。死にたい死にたいって考えていたら、神様が素敵な出会いをくれた」
 康夫の胸に顔を埋めてきた。
「二ヶ月後のわたしの誕生日に、あなたから電話をちょうだい。それまでになんとか元気になっていたいと思う」
 携帯電話を取りだして康夫の番号を聞き、それをプッシュして着信を送った。
「このわたしの番号に電話して。ただし、そのときにはわたしは乳房のない三十歳の女になっているかもしれない」
 黒目の大きい両の瞳が、しっかりと康夫を見据えた。
 朝になって彼女の部屋を出た。突然転がり込んできた風変わりな恋の行く末を、深く案じ続けられるほどペシミストではなかった。そして同時に、救いがたいほど脳天気なオプテイミストであった。
 やがて康夫は、致命的な誤謬を犯すことになる。
 電話する約束をしていたその日に、うっかり携帯電話を紛失してしまったのだ。探しまわったが、どこで落としたのかさえ心当たりがなかった。
 番号を携帯の中にしか保存しておかなかった迂闊さを悔やんでも遅かった。電話を待つ彼女の気持ちを思いやり、焦りに焦った。
 マンションの部屋に行ってみたが、すでに引き払われて入居者はいない。管理の不動産会社や電力会社に行って聞き出そうと試みた。しかし、個人情報どうのと逃げられる。まったく埒があかなかった。押し問答していると、警備員が飛んできて肩をいからせた。
 彼女の三十歳の誕生日に、とうとう康夫は電話をかけることができなかった。同時に大切な何かが、決定的に損なわれた気がした。
 つくづく自分のダメ男ぶりを呪った。中途半端で煮え切らない。肝心なときにいいかげんさがひょっこりと顔を出す。いつもこうなのだと自らを叱責してみる。後の祭りであった。
 胸がじわりと痛む日が続いた。しかし一方で、この過失の背景には、ある種の脅えがあったような気もしてきた。
 乳房のない女を愛せるか?と聞いたときの彼女を思い出す。無意識のうちに逃げ出したのかもしれない。自らに向けた猜疑心は、しだいに大きく膨らんだ。
 これまでも消極的な逃避あるいは拒絶を、意図せずに繰り返してきた。保身の仮面の裏側で、ぺろりと舌を出す狡猾な自分がそこにいる。他力本願で自らの意志を持たない迷子の猿みたいな男が居座っていた。
 携帯電話は結局、二度と出てこなかった。柴田美智子の番号を記憶したまま、どこかへ消え去ってしまった。
 その後まもなく、リーマンショックとやらが海の向こう側で勃発する。そのとばっちりが押し寄せて、日本経済のつるべを落とした。康夫も職を失い、ねぐらを追われることになった。
 誰かが罰を当てた気がしてならなかった。神様が素敵な出会いをくれたという美智子の言葉が耳の中に蘇り、息の詰まりそうな自己嫌悪を呼び覚ますのだった。

       三

 待ちわびた太陽がのろくさと遠い地平に現れた。あいかわらず高鼾の春本を起こさないように、用具置き場の引き戸をそっと開けて外に出た。霜の降りた芝を踏みしめ、ベンチに座る。
 早朝の公園には、体操したり出勤前のジョギングを楽しむ人々が集まり、昼間よりもっとにぎやかだった。康夫の周囲にだけ、茫洋とした感じが滞っていた。
 タバコを吸っていると、向かいのベンチに黒い詰め襟姿の中学生が座っているのに気付いた。康夫の方を恥ずかしそうに窺いながら、なにか言いたそうにしている。
「おはよう、はやいね」
 昨日声をかけてきた春本の口調を、なんとなく真似ている。位置もちょうど逆さまだった。
「お、お、お、おはようございます」
 丸刈りの少年は、舌をちらちらと見せて引きつったように喋った。強度の吃音であることが知れた。
「ハ、ハ、ハ、ハルさんは?」
「まだ寝てるよ。なにか用?」
 喋るより先に少年は首を横に振った。
「こ、こ、こ、これわたしといてもらえますか?」
 紙包みを差し出した。康夫が受け取るとそそくさと立ち上がり、後ろも見ずに去って行く。
 春本が起き出してきたのは、すでに十時を過ぎていた。公園の清掃係が仕事を始めたのでしかたなくだった。欠伸を連発する寝惚け顔の春本に、少年からの紙包みを手渡した。
「おう、きたか、メシ」
 汚れた黒い手で紙包みをばりばりと破り、中から二段になったタッパウェアを取り出す。
「兄ちゃんも食うかい?」
 大ぶりの海苔むすびをくれた。飢えたオオカミのように腹が減っていた。二人は卵焼きやウィンナを次々に頬張り、あっという間に弁当箱を空にした。
「これってひょっとして、彼の昼ご飯?」
 すっかり食べ終わってから、康夫は少年のことを思いやった。
「うん、毎日かわりに俺が食ってやってる。食べてないと母親が心配するだろ」
 康夫のタバコを抜きながら言う。
「それってひどくないですか」
「サービスで人生相談をしてやってるから」
 なにかの冗談にちがいないと思いながら、吃音が彼の人生に及ぼす影響について考察した。
「あいつ、学校でいじめられてんのさ。けっこう陰湿にやられてるらしいや。何人かの悪ガキにパシリにされたり、女子の前でズボン脱がされたりよ」
「それでどんなアドバイスを?」
「まあ、てきとうにな」
 うまそうにタバコをふかした。腹がくちくなったらまた眠くなったと、ベンチの上で横になる。昨日に引き続き、夜中の寒さが信じられない穏やかな小春日和だった。
 午後三時を過ぎた頃、朝の少年が再びやってきた。柳井仁志という名前だった。
「ごっそさん」
 春本が米粒ひとつ残っていない弁当箱を返した。仁志は頭を下げて受け取り、隣に腰掛けた。そして、どもりながら今日学校であったことを、ぽつりぽつりと話し始めた。


 昼休みに仁志は、山岡といういじめの首謀格の言いつけ通り、購買部へパンと牛乳を買いに行った。いつものことだった。ところが運悪く山岡の好物であるジャムパンが売り切れていた。おまけに長蛇の列ができていて、金を払うのに時間がかかった。
 急いで戻ったが、ガキの使いもできないのかと、ねじりんぼうの刑に処された。背後からコブラツイストをかけられたり、腕ひしぎ逆十字、アキレス腱固めなど、関節技を駆使してねじり上げられた。金谷と飯田の二人が交互に参加した。
 彼らは顔を殴って傷にしないよう気をつけている。教師や親に気付かれないためだ。
 彼らがなぜ無抵抗の自分にこんなことをするのか理解できない。良心の呵責というものがない人間がいるのだろうかと思う。面白半分でやっているにしては、その執拗さは異常だった。
 午後のチャイムが鳴るまで、その責め苦は続いた。クラスを牛耳る山岡たちにお追従笑いを浮かべてはやし立てる者が数人いる。他の多くの級友たちは見て見ぬふりをしていた。というより、もっと積極的に無視した。つまり、無言で荷担した。
 仁志はそう感じた。それが山岡たちに苛まれる肉体的な痛みより、もっと苦しいことだった。
 静観している級友たちの心の中には、仁志に対する侮蔑があった。湿った風呂の壁を覆う黒カビのように、じわじわと広がってきたものだ。その負の感情は、誰が発したのかわからない舌打ちとして、ときおり耳に届いた。
 仁志は自分のことをピンボールのようなものだと思った。あちこちのレバーにはじき飛ばされ、ちんじゃらと音をたてながら盤面を右往左往している。いまだ終着の穴に吸い込まれることもなく、柔らかい表面に釘の殴打を受け続けている。
衆人環視の中でいじめられるときには、羞恥心の後にいつも悲しみがやってきた。クラスの中に渦巻く悪意は深い絶望を呼んでくる。いじめの長い歴史は、これから先も終わる気配すらなかった。

          
 おおむね仁志の話はこんな感じだった。つっかえながら一生懸命に話した。春本に話を聞いてもらうために、ここにやってきたのだ。その行為にどんな慰めを見いだしているのか、康夫にはわからなかった。
 春本は気のない相槌をときどき打ちながら、それでも最後まで耳を傾けてはいた。話が終わると、欠伸を噛み殺したような溜息をついてタバコを吸った。
「人生相談でしょ?」
 おにぎりの恩を返したいと、小声で促した。
「うん、そりゃあ大変だわ。わりーやつらがいるよな。でもよ、そんなやつらって世の中のどこにでもいるんじゃねえの。ゴキブリみてえなもんだ」
 気の進まない顔で口を開いた。
「それで?」
 仁志のかわりに康夫は身を乗り出した。
「どうしたもんかねえ。いっそ学校に行くのをやめちまうってのはどうよ」
 タバコの灰を落としながら言う。
「ちゅ、ちゅ、ちゅ、中学でやめたら大学にも行けません」
 深刻な顔で却下した。
「黙ってやられっぱなしでいないで、たまには死ぬ気で殴り返すってのは?」
「ひ、ひ、ひ、人を殴るなんていやです」
「まあな、喧嘩弱そうだもんな、おまえ。じゃあ、先公か親にでもちくるってのは?」
「で、で、で、できません」
「それができないってのは俺にもわかるよ。なんか卑怯な気がするもんなあ。自分の情けない姿を、親には見られたくないってのもあんのかねえ。こうやって俺にしゃべってんのは、自分の胸に収まりきらないもんを吐き出しに来てるんだろ」
 耳の穴をほじくりながら、春本はひとり頷いた。
「でも、なんでいつもおまえだけいじめられるのかねえ。たまには誰かに代わってもらえればいいのに」
「ど、ど、ど、どもりがいけないのでしょうか?」
 すがる眼をして聞いた。
「まあ人間、言葉を介して通じ合う動物だかんねえ。自由自在にものを言えねえってのはハンデよ。でも、おまえの場合は、どうもそれだけじゃないような気がするね」
 康夫もそんな気がした。
 おどおどと口ごもる少年の姿を眺めた。意を決して喋るたびに、口の中の赤い部分を苦しげに裏返す。身振り手振りもしだいに大きくなってくる。喉の奥から絞り出されるひとつひとつの言葉に、彼の切実さがぶざまに乗っかっている。笑えない滑稽さが、相対する人間の心の何かに触れるのだ。
 彼に対するいじめは、たぶんそこから生じている。たしかに吃音が、きっかけとして表面にある。しかし、本当の理由はもっと奥深い。とても大切なバランス感覚の欠如なのだ。
 もちろん彼の側に責任はない。本来は美点であるはずの無邪気さが、むしろ弱点となっている。
 邪悪な心はいつでもどこにでも存在する。集団の中に身を置く誰の胸中にも、必ず生まれてくる。いじめられっ子の素質も同様だ。ふたつはオセロの裏表のようなもので、切り離すことはできない。
 いつ誰が裏にされてもおかしくない。ときにはころころと入れ替わったりもする。誰しも裏を引かないように、他人との距離を注意深く測って、近付いたり遠ざかったりしている。その機微に疎い者が、集団の中で哀れなスケープゴートの役割を担わされる。
 テレビのいじめ撲滅キャンペーンのコマーシャルを思い出した。集合写真みたいに、学生服姿の男女が白い仮面をつけて整列している。誰かに対するいじめを、見て見ぬふりをしているという設定だ。
 その中の一人が毅然として仮面を下ろすと、次々他の学生たちも追随していく。一様に怒ったように口をへの字に結んでいる。仮面の下から現れた顔には、並々ならぬ決意が漲っている。
 繰り返し流れるこのCMに、康夫は強い違和感を覚えた。誰にも強制されずに一人だけで、オセロをひっくり返すなんてできっこない。申し合わせておいて、皆で同時に行うというならわかる。
 仮面を取った瞬間、自分だけが黒のコマを引き受けねばならない。それが出来るのは、いじめている支配者か、その集団を俯瞰する神様的存在の者だけだ。仮面をつけたまま何も行動を起こさないでいることが罪悪だという意匠が鼻についた。
 仁志の顔を見ながら、康夫はそんなことを考えた。
「し、し、し、死んだ方がいいかと思うこともあります。あ、あ、あ、あいつらの名前を告発した遺書を残して」
 遺書という言葉が耳の中でざらつく。死にたいという柴田美智子の声が唐突に聞こえてきた。冷たい手でつかまれたように、心臓は鼓動を早くした。
「そうだなあ、それがいちばん楽かもしんねえや」
 どこが人生相談か、と突っ込みたくなる。
「おれもよお、とっきどきだが、無性に生きてんのがめんどくさくなることがあるぜ」
 フケまみれの脂ぎった髪を掻く。
「でもな、人間いつかどうせ死ぬんだから、痛い目をしてまでわざわざ自分で死ぬこともないかと思うんだよな。そっちのほうがもっとめんどくせえ。だろう?」
 照れ臭そうに一人で笑った。
「人間いたるところ」
 思いついたように春本が言う。
「青山ありってやつですか?」
「うん、そのいたるところってのを、この眼で全部確かめてからでも遅くはないんじゃねえかってな」
 仁志は、その言葉を呪文のように何度も繰り返していた。
 公園の片隅では猫たちが、通行人の投げた餌を奪い合って騒いでいる。若いオスのシマがくわえて走り、メスの三毛と二匹だけで貪りはじめた。露骨に黒猫を寄せ付けようとしない。おこぼれに預かろうとすると、唸り声を上げ毛を逆立てて拒絶するのだった。
「ああ、情けないねえ。歳も体格も上なんだがな。いかんせん、飼い慣らされてぶくぶく太り、牙をなくしていやがる」
 数日前から猫の動向を観察している春本は嘆いた。
「このままじゃあ、あえなく飢え死にかな。そう長くはなさそうだ」
 太った黒猫の緩慢な動作を目で追う。自分も仁志も野性をとうに失ったペットのようなものだと感じた。逞しく生き抜くためには、何が足りないのだろうと自問してみる。
「く、く、く、黒猫がいじめられている」
 仁志がぽつりと呟く。
 ベンチに座る全員が、がっくりと肩を落とし深い溜息をついた。その気配を察知したのか、黒猫は媚びるような震え声で、にゃあああと鳴いた。同情するならメシをくれ、と訴えているようだった。
 冬の早い夕暮れが、きりりと冷えた夜気を連れて、頭上を覆い始める。昨夜の寒さを体の芯が思い出した。
 コンビニに行って使い捨てカイロを買い、ついでに段ボール箱でももらってこようと腰を上げる。本格的ホームレスへの道が、暗然と目の前に横たわっている。
 家に帰る仁志と一緒に歩き出す。春本は二人の背中に向かって、「タバコと明日の弁当な」と叫んだ。その声に被さるように近くの学校から、ドボルザークの「家路」が間延びしたチャイムの音となって鳴り響いた。



 拾った新聞の紙面には、年末緊急就職相談の文字が躍る。日本経済は甲板から乗客を振り落としながら、真っ逆さまに沈んでいく大型客船のような状態が続いていた。
 康夫はハローワークに出向く気にもなれなかった。仁志の持ってきた弁当を食って煙草を吸い、行き交う人々をぼんやりと眺めている。
 終日、ベンチで無為に過ごし、猫を観察した。黒猫はあいかわらず、他の二匹から少し離れた場所でうずくまっている。
 毎日学校が終わると仁志はやってきて、その日に受けたいじめの内容を報告した。春本はただ相槌を打つだけだったが、仁志はいっこうにやめようとしなかった。
 陽が落ちるのにしばらくの猶予を残したある日、公園を横切ろうと一見普通に見える母子が現れた。行き過ぎようとしたとき、手を引かれた五歳くらいの男の子が急にぐずりだした。地面に張り付き動かなくなった。母親は途方に暮れた顔で、康夫たちの隣のベンチにすわる。
「かあえるっ、かえるうう、かえろおおよお」
 男の子は裏返った声で何度も同じ言葉を繰り返し、うなだれた母親にまとわりついている。地団駄を踏み、しだいにパニックの様相を呈し始めた。自分の吐き出す声で、耳が聞こえなくなっているような感じだった。
「すみません、おさわがせして」
 母親は軽く会釈した。ショートカットにGパン姿で、化粧気の少ない丸顔は三十歳過ぎに見えた。
「元気な坊ちゃんだ。どうれいっちょう、おっちゃんがあそんでやっか?」
 春本が子供の方に腰を起こすと、外敵を見た野ウサギのように母親の背に身を隠した。
「歯医者の予約があるのに、どうしても行きたがらなくて」
 鼻の横にある雀斑に皺を寄せながら母親は困っていた。
「虫歯できちゃったんだからしかたないでしょう。タクヤ君が甘い物いっぱい食べ過ぎるから」
 やや昂奮が治まった子供はそれでも、かえろおお、を甲高い声で繰り返している。
「自閉症なんです。この子」
 子供の顔を詳しく眺めたが、なにかの障害があるようには見えなかった。鼻筋が通り、澄んだ切れ長の眼を持つ。整った顔をしていて、むしろ怜悧な印象さえ受ける。
「いったんパニックになっちゃうと、もう収まりがつかなくなってしまって」
 母親は疲れた顔で、子供を片手に抱えて言った。
「ほら、歯医者さん。こわくないんだよお。これでまたお勉強しようねえ」
 手提げの中から、なにやらカードのような物を取りだした。
「はい、まず歯医者さんに行ったら診察券を出します。次に待合室の椅子に座ります。名前を呼んでくれたら、衛生士のお姉さんと手をつないで中に入りまあす。歯医者さんの椅子に座ったら、お口を大きく、あああんて開けましょう」
 名刺大の単語カードみたいなものを見せながら、歯医者で行われるであろう治療の手順を説明していく。
「絵カードっていうんです。自閉症の子供たちは、これから先自分の身に何が起こるのか、何をされるのかわからないことを極端に怖れるの。だからひとつひとつをこんなカードにして、あらかじめ知らせて予習させておくのよ」
 この方法でずいぶん息子は成長したのだと微笑んだ。
 カードはおそらく彼女の手作りなのだろう。息子とそっくりな男の子の絵がコマ送りで続いている。しかし、絵はおおざっぱで色も塗られてはいなかった。大急ぎで描き殴ったように見える。とうてい説得力のある代物には思えない。
「やあだ、かあえろお、かえろおよお」
 子供はあいかわらず、公園中にきんきんと声を響かせている。一方的に空に向かって、言葉を放り投げるような喋り方だった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
 仁志が横から顔を出して、母親からカードを受け取った。
「もう少しカードの場面設定を細かくできればいいのだけれど。なかなか素人には難しいわね」
 強く興味を引かれたらしく、仁志は何度もカードをめくり返している。
 子供はぐずりながら、やっぱり少し普通ではない執着力でかえろうを繰り返す。とうとう母親の根負けを誘って、歯医者に行かずに帰ることになった。
「ま、ま、ま、また明日もここにきますか?」
 立ち上がった二人に、仁志は声をかけた。
「え?よくこの時間に散歩はしているけど」
 怪訝そうな顔をすぐに引っ込め笑顔をつくった。
「あなた達がいるのなら、またきてみようかな。お天気がよければいいけど」
「ええ、ばりばり晴天です。ぜひ、またきてください。ヒマ人が揃ってますから。いつでもお待ちしています」
 まるで我が家へ友人を誘うような口調で康夫が言った。
「ほんと、いつでもきな」
 春本は大袈裟な動作で両手を振った。
「どうもありがとう。楽しいお仲間たちね。私は関根祐子です、この子は一人息子の拓也といいます」
「おう、春本とその他大勢だ」
 意味もなく胸を張る。仁志が恥ずかしそうに、ぺこりとお辞儀をした。
 先のことがわからない恐怖に身を竦ませる、自閉症だという男児の心を想った。誰にだってあるその怖れのセンサーが、人より鋭敏すぎるのだろう。障害というより際立った個性なのかな、と康夫は考えた。
 少しでもその怖れをぬぐい去ろうと、懸命に努力する愛の供給者がいつも傍らに立つ。母親の描いたすべてのカードの上で、子供の顔は朗らかに笑っていた。
 故郷に残る母のことを思い出した。長いこと声もきいていない。母のぬくもりが不意に灯り、康夫は落ち着かない気分になるのだった。
翌日、関根親子は同じくらいの時間にやってきた。その日は拓也の機嫌もよく、いきなり帰ろうコールはなかった。
「こ、こ、こ、これ見てください」
 思い詰めた表情で親子を待っていた仁志が、スクール鞄の中から分厚い封筒をとりだした。
「え、え、え、絵カードつくってきたんです」
 葉書ほどの大きさのそれは、なつかしい紙芝居に近かった。カラフルに彩色もされている。
 漫画チックに描かれた拓也がばい菌マンと戦い、歯医者の助けを借りて自らの虫歯の治療に挑んでいく。面白おかしく見る者を退屈させない。動作の説明が細やかに、きちんと盛り込んである。その出来映えには目を見張るものがあって、康夫は思わず感嘆の声を漏らした。
「うわあ、これあなたが、一晩でつくってくれたの?」
 祐子とて同じ感想だった。
「すぐ使ってみるわ。ほら、拓也見て」
 カードをめくろうとして、ふいに祐子は手を止めた。
「わたしより、あなたが見せてやって」
 仁志の手にカードを返す。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕は」と言いかけた仁志の背中を、春本がバンと叩いた。
「やってやんなよ。おまえが作者だろ。最後まで責任を持て」
 仁志が絵カードを持って隣のベンチに移ると、拓也はなんのためらいもなく付いていった。
 ひどくどもりながらたどたどしく、絵カードを説明し始めた。何度も行きつ戻りつして、一枚めくるのにとても長い時間がかかった。それでも、拓也はじっと耳を澄まして聞き入り、飽きた素振りも見せず、帰ろうとも言い出さなかった。
「ありがとう。素晴らしいプレゼントをもらった」
 うれしそうに、そっと目尻を拭った。
「いいってことよ。おやすい御用だ」
 春本が得意そうに顎をしゃくった。何もしてないくせにと思いながら、なぜか康夫まで誇らしい気分だった。
 仁志の声が、点けっぱなしのラジオ放送のように聞こえてきた。それをBGMにして、祐子は自分たち親子のことを話し始めた。


 祐子がこの街に来たのは八年前、大学を卒業してすぐの頃だった。横浜生まれの横浜育ちで、四国の地を踏んだのは初めてのことだった。同じ海のにおいがするこの土地に、なんとなく親近感を覚えていた。
 学生時代の同級生だった恋人から、卒業と同時に求婚された。四国の実家に戻るという彼に、たった一人でついていく決心をするのには、大きな勇気が必要だった。
 祐子の三歳年上の兄は、その前年に公務員の女性と結婚し同居していた。実家での居場所がなんとなく窮屈に思えていた矢先であったし、恋人のことは疑いなく好きだった。
 関根孝治は心根の優しい男だった。優しさの中に包容力を感じた。祐子は父親を早くに病気で亡くし、女手ひとつで育てられた。そのせいか父性を強く求める傾向があった。孝治は誠実にそれに応えようとした。だから、最後まで迷いながらも、相手の希望を受け入れたのだった。
 孝治の実家は、県西部の山あいの村にあった。何町もの土地を持つ大きな農家で、彼はたった一人の跡取り息子だった。
 農作業用の土間を持つ大きな田舎屋に、義父母と四人で暮らした。舅の源治は夫と同じく鷹揚な性格の持ち主で、遠方から嫁いだ祐子になにかと気遣いしてくれた。姑の磯子の陰気さが気にかかったが、さしあたり特別なことは何も起こらなかった。
 孝治は最初、近くの農協に職員として勤めたが、専農となるためすぐに退職した。夫の行動に不信感を抱いたのは、この時がはじめてだった。祐子にひと言の相談もなかったからだ。後になってそれが、磯子の強い意向であることを知った。
 何かにつけて磯子は、孝治を手のかかる子供のように扱った。孝治も苦笑いを浮かべて、磯子のしたいようにさせていた。母子の関係に違和感を感じながらも、それを思い過ごしだろうと気にしないように努めた。
 農家の生活は、寸刻みの多忙を極めた。一家総出で夏は米作りに励み、稲の刈り取りが終わってからは、ほうれん草やブロッコリーを作って出荷した。太陽が顔を出すと同時に働き始め、日が暮れると飯を掻き込み風呂を浴びて眠った。
 家の台所と財布は、磯子の不可侵のテリトリーだった。祐子は慣れない農作業に疲れ切っていて、それに不満を感じる余裕もなかった。単純ではあるが健康的で逞しい農婦としての生活を、戸惑いながらも気に入ろうとしていた。
 結婚三年後に、拓也が生まれた。待望の第一子が男の子であったため、舅たちも大いに祝福してくれた。幸せな日々が続いた。
 拓也が二歳になったとき、少し様子がおかしいことに気付いた。言葉が少なく、いつも一人きりの世界に入っている。周囲からの呼びかけにも無反応で、こだわりが多い。気に入らないことがあると癇癪を起こし、ひっくり返って泣いて怒る。思いあまって病院に連れて行くと、あっさり自閉症の診断が下った。
 順風満帆だった農家での生活に、少しずつ翳りが差し始めた。狭い村で拓也の障害が話題になる。病気への無理解から来る流言飛語が飛び交う。それに最も敏感に反応したのは姑の磯子だった。
 その根っこにあったもの、それはなんと猫神伝説だった。この地方に土着する太古からの悪しき信仰だった。なにかことが起こったときにだけ、普段は平穏な村の人々の脳裏に浮かび上がる。
 磯子が異常な反応を示すのにはわけがあった。孝治にはふたつ年上の兄がいた。兄は五歳の時に原因不明の高熱を出した。その後、猫さながらの奇声を発したり、生の魚や蛙を食うといった異常な言動を弄しはじめた。
 村では猫神つきと噂された。村八分のようなことが行われ、一家は孤立した。やがて兄は、裏山の崖から転落して死んでいる姿を発見された。誰かが突き落としたと事件性が疑われ捜査されたが、真相が究明されることはなかった。すべての村人が固く口を閉ざしたからだ。磯子はそれ以来、子を失った悲しみに沈み、無口で暗い眼をして生きてきた。
 孝治は年端もいかなかったため、兄の死をほとんど覚えていない。その後、磯子の二人分の愛情のはけ口は、もっぱら孝治に向けられた。それはしばしば加熱しすぎ、村人たちとの諍いの原因にもなった。孝治に軽い擦り傷を負わせた級友の家に、血相を変えざんばら髪振り乱し抗議に行くといった具合だ。猫神が磯子に乗り移ったというまことしやかな噂が流れた。
 祐子はその話を、村の百歳を超える老婆から聞いた。老婆は樹齢千年の大クスの裏にあるあばら屋に、仙人のように一人で暮らしていた。村の用事を伝えに行った祐子に、薬草を煎じた不思議な味のお茶を振るまい、もぐもぐと歯のない口で話した。
 老女もまた猫神の信奉者であった。拓也がおかしいのは、死んだ子供から磯子に憑依した猫神のせいだと言った。猫神が新しい宿主を見つけて蠢き出したのだと。そんなことがあるものかと一笑に付したかった。しかし、夫の孝治が猫神のことを語る口調は重かった。
 拓也の自閉症を猫神つきと疑う、磯子との悶着がたびたび持ち上がるようになる。お払いをしなければならぬと、おかしな祈祷師のもとに無断で連れて行く。どこからもらってきたのか、得体の知れない丸薬を飲ませる。しだいに磯子の行動はエスカレートしていった。
 その間に入って緩衝役を果たしてくれたのは、夫の孝治ではなく舅の源治だった。猫神を怖れいきり立つ磯子を諫め、拓也を自分の背中に隠した。夫はなぜか萎縮し、猫神を肯定するような態度さえ取るのだった。
 そのうち、とうとう決定的な出来事が起こる。かるい心筋梗塞を起こして入院した源治が、病院側の医療ミスによってあっけなく他界してしまったのだ。主治医の些細な投薬ミスが原因だった。自分を大事にしてくれた舅の突然の死は、深い悲しみをもたらしたが、ただそれに浸っている暇はなかった。
 磯子の狂乱ぶりが熾烈を極めたからだ。猫神さまの怒りに触れた理由を、見知らぬ街から来たよそ者に求めた。毎日血走った眼で毒づいた。祐子のすべてを糾弾した。孝治はおろおろするばかりであった。夫が姑の完全な支配下にあることを悟った。
 目を離した隙に、磯子が裸にした拓也を縄で縛り上げ、大量のお灸を小さな背中にすえようしていた。泣き喚く幼児を踏みつける奇怪な形相を見た時、祐子は家を出ることを決意した。
 孝治は頭のおかしくなった母親を放ってはおけないと、頑なに同行を拒んだ。精神病院に連れて行くことにさえ強く反対した。小さな村内での体面というものが重視された。
 祐子は夫が自分たちを捨てたような、深い喪失感を覚えた。優しかった夫がじつは、猫神のしもべであったのだ。
 拓也を連れて横浜に戻ろうかと思ったが生活のあてもない。絶対に姑には内緒にすることを夫に約束させて県都に出奔する。小さな賃貸マンションで拓也と二人の生活を始めた。生活費のすべてを、密かに孝治が用立てた。彼を信頼するしか生きる道がなかった。
 祐子は拓也を育てることに専念した。障害があろうとなかろうと、かけがえのない一人息子を心底愛していた。長男を亡くして精神を病んだ磯子の気持ちが、その部分だけはわかる気がした。
 自閉症の本を買い漁り、病気そのものへの理解を深めると同時に、治療方法についても勉強した。絵カードを使った発達促進法を知り使ってみたところ、拓也は大きく進歩することになる。たとえばこだわりのひとつで、トイレに絶対に入ろうとしなかった。絵カードを見せて手順を示すと、やがて自分で入っていって用を足すようになった。
 今では拓也は五歳になり、少しずつ周囲とコミュニケーションする技術を覚えつつあった。健常児の中で生活できるめどが立ち始めていた。もう一つうれしいことに、姑に隠れて孝治がときどき会いに来るようになった。親子の団欒が戻りつつあった。
 猫神つきの恐怖が完全に消え去ったわけではない。しかし祐子は今の生活が、これからも穏やかに続いていけばよいと考えていた。


 祐子は長い話を終え、白い息を吐いた。
「姑が突然目の前に現れるんじゃないかと、いつもびくびくしているの」
 日の翳りはじめた公園の周囲を見回す。
「猫神って本当にいるのかしら?」
 太陽が去ると同時に、極寒の深い闇が得体の知れないものを連れてくる。祐子の怖れが伝わってきた。
「いろいろと厄介なものがいるのさ。その土地の人間が、昔から自分の心の中に飼っていやがる。代々、親から受け継ぐんだな。そういうことは実際にあるんだ」
 はじめて見る神妙な顔つきで、春本が答えた。
「逆らわないほうがいい。行き過ぎてしまうまで、ただ首を竦めて身を隠してろ.婆あだっていつまでもは生きてねえ。くたばるまで、じっと待つしかないと思うよ」
 磯子が死んだ後、猫神はどこに行くのかと康夫は聞きたかったが黙っていた。
 学校で仁志をいじめる少年たちの心の中に巣くうものの正体も、猫神みたいなものではないかと思った。逆らうことはできないという春本の言葉の意味が、すとんと胸に落ちてきた。
 目に見えない悪意は時空を越え、人から人への憑依を繰り返す。腐敗臭を放つメタンガスみたいに地表のあちこちから噴出して、人々の精神を狂わせる。大勢の人間が生きてある限り、永遠に拡大していく。世界を覆っているのは、元々はちっぽけな邪心の集積だ。人間という生き物の悪しき魂を糺すことはできない。それが人間存在の本質なのだ。
 このたちの悪い害虫だけが地球を汚し、他のすべてを巻き添えにして破滅への道をひた走る。仲間を傷つけ合うためだけの不毛な戦争を、未来永劫続けていく。自己を恥じ入る知恵も持たない。大地にのさばっているのは、我が身が焼け焦げても気付かない底抜けの馬鹿者である。
 康夫は自らの卑小さを無力という名の棚に上げて、漠然とそんなことを考えていた。隣のベンチでは、あいかわらず仁志が絵カードを読む声が聞こえている。
「おおおい」
 突然、春本が吼えるように叫んだ。
「おまえ、どもってねえぞ!」
 驚いて振り向くと、たしかに仁志はどもらずに話しているのだった。
「ほんとだ。ぼく、どもってない」
 うれしそうな声をあげる。
「拓也君は障害児なんかじゃないね。ましてや猫神つきだなんて、ふざけんなっての」
 気持ちがあたたかくなってきた。
「中学生の困った癖を治しちゃうんだもん。たいしたもんだ」
 拓也は絵カードに集中していて、歯医者の注射がどうのと質問している。
「ほんとによかった。歯医者さんの勉強がうんとできた」
 祐子は目を輝かせて二人のもとに歩み寄った。
「あしたはきっと、虫歯治しに行こうね」
 母親の言葉に反応して、ひょいと絵カードから顔を上げる。
「ぜえったいに、やだ!」
 きっぱりと言い切った。意志の強そうな、まったくの健常児の顔だった。
 がはははは、と春本が地面が割れるような笑い声をあげた。それは全員に容易に伝染し、行き交う人々の視線を誘うほどの大爆笑となった。



毎日、仁志は拓也のためにさまざまな絵カードを作ってきた。日常生活の中の困っている状況を、まず詳しく聞き出す。それに関するコマ送りのマンガを描いてくる。
 拓也は仁志の前に座るのが好きだった。どちらが先生で、どちらが生徒なのかわからなかった。二時間以上、レクチャーが続く日もあった。二人は仲のよい兄弟にも見えた。
 仁志の吃音は快癒とまではいかないにしても、少しずつ改善している。前もって用意したせりふを繰り返しうまく喋ることが、吃音の矯正に役立っていた。
「けっこういいじゃねえか、これ」
 極彩色のカードを眺めながら、春本が言った。
「おまえ、才能あるかもな」
 なにかの権威みたいに伸びた顎髭を撫でる。
「マンガ家をめざしたいと思うんです」
 どもらずに仁志が言った。
「おう、やれやれ。遠慮せずにどんどんやれ」
「どんな漫画を描きたいの?」
 康夫が聞くと即座に学園ものと答えた。
 拓也の相手が忙しいため、春本への報告をしなくなったが、学校でのいじめが止んだとは思えなかった。彼が描きたいという学園ものでは、いじめが主題になるのかもしれない。どんなふうにその難しいテーマを、実体験に基づいて消化するのか見てみたいと思った。
 もうすぐ年が変わろうとしていた。クリスマスの気配が例年になく、控えめに街を彩りはじめた。
 康夫には何の感慨もなかった。とうとうハローワークの求職相談を無視した。手持ちの金がもつのは、あと一ヶ月ほどだろう。とてもサンタ気分を楽しむ気にはならなかった。
 次の日、仁志は姿を見せなかった。拓也たちは寂しそうに帰っていった。嫌な予感がしたが、流行のインフルエンザにでもなったかと考えた。
 翌日も仁志は現れなかった。その次の日になって、やっと姿を見せた。その痛々しい有様から何が起こったのかを、一目で知ることが出来た。私服姿で、学校にも行っていないようだった。
「熊と喧嘩でもしたのか?」
 春本が声をかけた。
「や、山岡たちにやられました」
 吃音は相当レベルで改善している。
「ほう、顔や見えるところを痛めつけるのは、避けるのじゃなかったのか?」
「ぼ、ぼくが反抗的な態度をとったので、あいつら切れちゃったんです」
 凍えるような声で、そのときの状況を話し始めた。幸いなことにその日、拓也たちは公園を訪れなかった。


 仁志は毎晩寝る時間を惜しんで、絵カードを作る作業に熱中していた。描き上げたカードをスクール鞄に隠し持っていた。それをうっかり山岡たちにみつかったのだ。
 放課後になり、一刻も早く公園に向かって駆け出そうとしていた矢先だった。教室にはまだ二三人の女子生徒が残っていた。いつもの行事が始まったのを見て取ると、興味なさそうな顔で鞄を抱え、すぐに出て行ってしまった。
 山岡はカードを床にばらまき、豚の鳴き声を上げながら口で拾うように命令した。仁志は無言で従った。カードが汚れないか、それだけが心配だった。拓也がコンビニで買い物が出来るように、その順序をマンガにしつらえたものだった。
 カードを守ろうとする仁志の態度に、山岡は偏執狂的な引っかかりを見せた。仁志の中に芽生えた善良なるものを、なんとしても踏みにじらねばおられない。悪鬼のごとき振る舞いで、美しく仕上がったカードを粉砕した。原色の紙吹雪が床に散った。
 怒りを感じるよりも、深い虚しさで仁志は胸を詰まらせた。何に対する虚無感なのか、はっきりとしなかった。
 なぜ、自分は理不尽な仕打ちに対して、こんなにも無抵抗なんだろう?殴り返す気になれないのは、どうしてなのだ?肉体の痛みを怖れるからか?痛みに耐えることさえ出来ない意気地なしなのか?
 そのくせ自分は山岡たちに打ち負かされた気はしていない。心の奥底では彼らに屈服してないし、支配されてもいない。むしろ彼らに哀れみさえ感じる。
 しかし、それはただの自己欺瞞なのか?魂は服従していないと自分に対する言い訳をしているだけではないのか?自分は誇りを持たない、ただの虫けらのような存在なのか?山岡を苛立たせる本当の理由は何なのだ?
 ぐるぐるとさまざまな感情が渦を巻いた。
「まったく苛々すんだよな、こいつ見てると」
 山岡は仁志の頭の上に唾を吐いた。
「頭ん中が、なんだかかっかしてきちゃうのよ。そういうときはスポーツに限るよね。ここにサッカーボールあるし」
 キックオフと言いながら山岡が仁志の尻を蹴り上げた。ちりぢりに破かれたカードの上にうつ伏せる。
 取り巻きの金谷と飯田も追随して、足の爪先を肛門に突っ込むような蹴り方をした。腸の内部を破られるような痛みだった。
 背中を踏まれる。肺を圧迫されて、息が詰まりそうだった。虚しさが胸の底から湧き出してくる、血の色をした感情が目から溢れて止まらなくなった。
「おい、泣いてるぜ、こいつ」
 金谷が黄色い歯で嗤った。仁志の髪の毛をつかんで顔を晒す。
「うわ、ぐしょぐしょでやんの。尻を蹴られたくらいで泣くんじゃねえよ、だらしない」
 掃除用具入れの中からつまんできた雑巾を、飯田が目の前にぼとりと落とした。黒くなって嫌な臭いがした。
「ほら、ハンカチをやるから、涙を拭けよ」
 ためらっていると、金谷が後頭部を足の裏で踏みつける。雑巾の上に仁志の顔を押しつけた。
「こんなもの学校に持ってきていいと思っているのか?」
 なにかを敏感に察知した山岡は執拗だった。
「だから何だってんだよ?答えろ。タロットカードかなにかかよ。俺たちに呪いでもかけようってんじゃね?」
 鼻先に座り、カードの説明を求めてきた。けっして話してはならない、と耳の奥で誰かが叫ぶ。
「なんだよ、その眼は?いいか、おまえは俺たちと一緒にいる間、人間じゃないんだ。どもりという名の犬だ、犬」
 ワンワンと鳴いてみせる。
「しっかりと頭に刻み込め。御主人様の機嫌をいつもうかがい、尻尾を振ることを忘れるな。忠犬どもりと言われるようにがんばるんだぞ。痛い目にあわされたくないのならな」
 充血した白目を裏返して迫ってくる。腐った魚のような口臭がした。
「ぼくはどもりじゃない」
 ほんとうの言葉がこぼれ出た。
「どもりじゃないだと?」
 山岡の怒りの導火線に触れた。ぷつっと音がして、連鎖的に激しい暴力を惹起する。拳が顔に飛んできた。かっと顔面が熱くなった。
 山岡を真っ正面から見つめる。転がされても、吹っ飛ばされても彼の眼の中を見据え続けた。けっして視線を逸らすことをしなかった。
 殴られているのか、蹴られているのか、棍棒のようなもので打たれているのかわからなくなった。おそらくそのすべてなのだろう。
 やがて潰れた眼は視界を失う。折れた歯がぱらぱらと床に落ちる音を聞いた。熱を帯びた四肢が痛みを感じることもなくなった。
 ずるずると死に向かって滑り落ちていく。朦朧と霞む意識のどこかで、自分の姿を冷静に眺めていた。不思議と恐怖を感じていない。死そのものを、とっくの昔に受け入れていたのだと気付いた。
 いじめられ、虫けらのように扱われるそのすべてを受け止めてきた。ものごごろついてからずっとそうだった。
 すべてのものが自分を苛み続けてきた。どもりという檻の中に閉じこもって、こっそり外を眺めているだけではすまされない。無理矢理引きずり出され、こづき回された。底冷えのする嘲罵を投げかけられる。いわれのない暴力を受け、少しでも抵抗すると、もっと陰湿な無視が待っていた。とうてい逃れられなかった。
 だから、それを普通であると思い込もうとした。自分を苛むすべての悪意にひたすら耐えるのではなく、むしろ受容しようとした。頭上に降り注ぐ驟雨のようなものとして、許そうとしてきたのだ。
 狂ったように山岡は、仁志の全身を殴打し続ける。激しい打擲が、常軌を逸して長い時間続いた。金谷と飯田をして、殺人の共犯者となる不安を抱かせるほどだった。とうとう山岡を羽交い締めして引きはがした。
「絶対にばれないように後始末して帰るんだぞ」
 捨てぜりふと乾いた嘲笑を残して、三人は教室から去っていった。
 繭のように体をくるむ静けさが訪れた。それに安堵しながら、山で凍死する遭難者のように意識を失っていった。
 再び覚醒したのは、夕食の時刻をとうに過ぎた頃だった。暗闇と化した教室の床の上は、ぬるぬるする血で覆われていた。端のほうはすでに塊りはじめている。
 部屋の灯りをつけないまま闇の底を這いずった。血を吸った雑巾を絞り、手の届く範囲を拭き取る。のろのろと起きあがって鞄を肩にかけた。
 おそるおそる顔を触ってみた。鼻の隆起を触れないほど腫れ上がっていた。骨が折れているのかもしれない。拍動性の痛みがじんじんと広がっていく。唇から涎と血が、ぽたりぽたりと床に落ちた。口の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 再び気を遠くしかけたとき、突然視界が開けた。白いフラッシュが焚かれて、白日の世界にワープした。
 教室の入り口に、教師の内田晴美が真っ青な顔で立ち尽くしている。産休を取ったクラス担任の女教師の代理として、二ヶ月前に赴任してきたばかりの新人だった。
 ショートカットにちょっと小太りで、着慣れないスーツがきつそうだった。うまくない化粧で目の周りが黒ずんで見えるため、ポン子というあだ名が付いていた。
「どうしたの?だいじょうぶ?」
 大丈夫であるわけがなかった。
「うわ、歯がないよ。なにがあったの?」
 泣き出しそうな顔で言う。
 抱きかかえられるように教室を出て、駐車場の晴美の車に歩いた。校舎にはもう誰もいない。仁志の目が見えないだけなのか、周囲は完全な闇だった。
 晴美は助手席のキテイちゃんを後席に放り投げ、仁志を座らせる。スズキの軽自動車だった。
 シートを汚さないか心配だった。晴美から渡されたハンカチは、すでに血を吸いきれなくなっている。どれほどの血液が体から流れ出たのだろう。
 運転席に戻った彼女はどこかへ携帯電話をかけ、車を発進させた。向かった先は、内田歯科・口腔外科という個人病院だった。
 診療所に到着したとき、併設した車庫からよく太った初老の男がのっそりと出てきた。手にはスパナみたいなものを提げている。車の修理をしていたらしかった。半分下りたシャッターの隙間から、白い車の丸いお尻が少しだけ見えた。
「やあ、いらっしゃい。すぐに手を洗うから、待っててね」
 オイルで真っ黒の両手を、タオルで拭きながら男は言った。
 灯の消えた待合室に上がった。勝手知ったる手際よさで、晴美は部屋のスイッチを入れる。歯医者の診療台に仁志を乗せた。
 白衣を引っかけて出てきた白髪の歯科医は仁志の顔を見るなり、「おうこれは」と細い眼を広げた。さっそく顎と顔面のレントゲンを撮られ、診察を受けた。
「いたいだろ」
 仁志の顔を触診しながら言う。歯科医の指先が顔の皮膚をなぞる感触はほとんどなかった。自分の顔ではないみたいに麻痺している。
「幸い鼻と顎の骨に異常はないみたいだな。ただし前歯は全滅。抜け落ちたのが何本かと、根が残ったのも折れて神経が出ちゃってる」
 歯科医は顔面の止血を施したあと、唇の裂傷を目にもとまらぬ速さで縫合した。手際のよい処置だった。引き続き、折れて残った前歯の根っこから神経を抜く処置に移った。
 それが、なんとも強烈に痛かった。ぎゃあああと、晴美に聞かれるのを憚る余裕もない悲鳴をあげた。山岡たちのいじめの方がまだましだった。
「口腔外科医だからね、私」
 言い訳にもならないことを呟きながら、手を止めることはなかった。ゴム手袋の丸いソーセージみたいな両指が、さっきはオイルまみれだったのを思い出す。さらに痛みが増して、こらえきれずに呻いた。
「何が原因でこうなったのか、喋れるなら聞いておこうか?カルテに詳細を記載する義務があるのでね」
 すべての治療が終わり、麻酔の効きすぎた唇で、うまくうがいできないでいる仁志に内田歯科医が聞いた。横で晴美が耳を立てる。
「ころびまひた」
 口の中を舌でなぞりながら言った。発音しにくいのは、歯がなくなったせいで、しゅるしゅる空気が漏れるからだった。
「ふうむ、また派手に転んだもんだな」
 なにかを考え込み、突き出た白衣のおなかを撫でた。
「とりあえずこれで帰っていいよ。化膿止めと痛み止めは出しておくから、忘れずに飲んでおくようにね。痛みや出血がひどいようなら、明日の朝いつでも来ていい。大丈夫なようなら、一週間後にもう一度、残った前歯の根っこの治療に来てちょうだい」
 晴美に目配せした後、太った口腔外科医はふんわりと笑って、おだいじにと言った。
 晴美が家まで送ってくれた。両親に会うというのを強硬に押し戻し、手前の曲がり角で下りた。かろうじて礼を言うと、晴美はなにか言いたげにしながらも、それ以上干渉しようとはしなかった。
 母親に見られないように二階に上がり、ベッドに倒れ込んで布団を被った。口の中にはまだ血の味が残っていた。
 ハゲタカに襲われる夢を見た。血が固まって詰まった鼻の中に、山岡の口臭がした。彼らは今頃、暴力を振るったことさえ忘れているだろう。
 どもりという名の犬、仁志をそう呼んだ。人が人をペットとして支配するなんてことが、どうして可能だと思うのだろう。どんなに痛めつけられようと、仁志の中の大切なものが折られることはない。強靱なワイヤが心の芯を貫いている。
 だから、仁志は山岡たちに従う。いじめられ辱められようと、彼らを許せる。凍てつく戸外の風雪と同じように、自然の一部として受け入れる。
 そうできるはずだ。せねばならない。じわじわと強くなる痛みに耐えながら、もう一度自分に言い聞かせる。それはぎりぎりの、本当にぎりぎりの最後の選択だった。
 ただひとつ残念なことに、今夜は絵カードを作れそうになかった。明日は大丈夫だろうかと、それだけが心配だった。仁志は夢も見ない泥のような眠りへと、真っ逆さまに落ちていった。


 仁志から学校でのいじめについて聞くのは久しぶりだった。
「いいものをめぐんでやろう」
 話を終えた仁志に背を向けて、春本はホンダスーパーカブの大きな荷箱から何かを取りだした。ビニールの梱包を解いて、ガスバーナーみたいな道具をセットする。スーパーカブの給油口から、ガソリンを長いスポイトで吸い出し、小さな付属タンクに入れた。キャンプ用の携帯コンロだった。
 小さな鍋に水を入れて、点火したコンロにのせた。お湯が沸いてきたところで、小さな袋から茶褐色の粉末を鍋に落とす。
 とたんにいいにおいが周囲に立ちこめた。近くにいた三匹の猫たちが、即座に反応してにゃあにゃあと鳴いた。
「飲んでみなよ。精がつくぜ」
 カップに小分けしたスープらしきものを手渡してくれた。おそるおそる口を付ける。なんともいえない滋味が口中に広がった。
「うまい!」
 仁志と同時に叫んだ。
「だろう?ケガを治すにはこれがいちばんさ」
 得意そうに鼻の穴を広げる。
「これはなんのスープなんですか?」
「アフリカンバッファローの睾丸だ。粉末にしてある」
 思わず吹きそうになった。
「なんでそんなもの持ち歩いてるんです?」
「昔、タンザニアの寒村に何年かいたことがあるんだ。そのとき、野生のヒョウに引っかかれちまってよお、死にかけてたらケガを治すのに効くからって、村の長老がくれたのよ。これを飲めってね。そしたら、内臓が見えるほどの深い傷がみるみる塞がって、一週間もしないうちに回復さ。おまけによけいなとこまでビンビンになっちゃってさあ。鎮めるのにやたらと苦労したぜ」
 腹の傷を見るかと言って、ズボンを下ろそうとするのをやっとのことで押しとどめた。奇跡的に傷を快癒させるというこの薬を、柴田美智子にも届けてやりたいとふと思った。
「まあ、修業時代っていうかね。俺にもそういう時期があったのよ。サラリーマンをやめて放浪しはじめたばかりの頃だったかなあ。どうにも煮詰まっちまってさ。アフリカに行けばなんかあるだろうって、深く考えずに貨物船に飛び乗ったのさ」
 春本が自分のことを話すのははじめてだった。
「ま、いいやね、俺のことは」
 もっと聞きたかったが、あっさり中止する。
「それで、おまえ学校にはまだ行くのか?」
「ええ、傷が治ったらまた行きます」
「ふうん、そりゃ立派だ。アフリカ行きの船に乗ろうとしないところがえらいや」
 仁志はもごもごと痛そうに笑った。
 春本はバーナーを片付けようとして立ち上がったとき、そのままの姿勢で前のめりにぱたりと倒れた。なんの冗談かと思って見ていたが、ぴくりとも動かない。仁志と顔を見合わせた。
 やっと異常に気付いた。抱え起こすと蒼白な顔をして、息をしていない。脈も触れなかった。
 自動車工場の社員研修で受けた救急救命術を、必死で思い出そうとした。それがこんな所で役に立とうとは、夢にも思わなかった。
 胸をはだけさせて地面に寝かせる。胸骨の上を、合わせた掌で真下にぐいと押す。固い胸郭が潰れるくらい力を込めて、何度も押し下げる。ときどき、口から渾身の呼気を一気に吹き込んだ。徐々に体温が下降していくようだった。冷や汗が脇腹を伝う。
「誰かを呼んでくるんだ。救急車も頼む」
 仁志が駆けだした。
 うろ覚えの蘇生術を、あきらめずに繰り返した。叫びたい気分だった。
 仁志が交番の巡査を連れて帰ってきた。康夫は息を切らしていた。
 巡査が蘇生術を交代しようと跪いたとき、春本はむっくりと半身を起こした。巡査は驚いてぎゃっという声をあげ、尻餅をついた。生き返ったばかりの死人を見る眼で春本を見つめている。
「ああ、また俺やっちまったかな?じつは、ここに持病があってな」
 はだけられた心臓のあたりを撫でる。
「睡眠時無呼吸症候群っていうの。そのせいで突然心臓が止まっちゃうんだよね」
 春本の盛大な鼾がときどきぴたりと止んで呼吸が途切れるのを、毎夜聞かされていた。巡査はバツが悪そうに背を向け、携帯でどこかに電話をかけ始めた。
「今度は誰が助けてくれたんかな?運がいいな、俺も」
 荒い息を吐いている康夫を見て、サンキューと片手を上げた。
「どのくらい死んでた?」
「三分くらいです」
「すがすがしいアフリカの草原を、しなやかな野生動物になって疾駆する夢を見たよ。あれが天国ってやつかなあ」
 晴れ晴れした顔つきで天を仰いだ。
「でも、しばらく走り回ってたら、ジャングルの奥から声が聞こえたんだ。おまえはまだここに来ちゃならないって。まだやることがあんだろうって。そうですね、忘れてましたと反省して頭を下げたとたん、はっと目が覚めたんだ」
 憑き物が落ちたようにさっぱりとしている。遠くから救急車のサイレンが近付いてきた。
「ん?おまわりに救急車だと?こおりゃ、いけねえや」
 そそくさと服の裾をしまい込んだ。
「じゃあな」
 と言い残して青いホンダスーパーカブのエンジンをかけ、さっと飛び乗り走り出した。スタタタと軽妙な排気音を残して行ってしまう。
「あ、逃げた」
 携帯を耳にしたまま巡査が追いすがろうとして、すぐにあきらめた。
「何者なんだ?」
 しかたなく康夫たちのところへ戻ってきた。顔を腫らした仁志の顔を見て、よけいな興味を募らせはじめている。
「知りません」
 声をそろえて二人は答えた。それはたとえ嘘発見器に掛けられようと、自白剤を飲まされようと、まったくの真実にちがいなかった。

        六

 鉢割れ柄の黒猫は、いつものように他の二匹から距離を置いて安穏としていた。春本と煙草をふかしながら、飽きもせず猫たちを眺めている。
 黒猫は少し痩せたみたいだった。そのぶん眼の光が鋭くなり、動きが軽くなったように見えた。
 二匹の若い猫たちが突然、唸り声を上げはじめた。哀切とさえ思える掠れ声を振り絞っている。全力で威嚇しているのだった。
 地面の草むらの中で、なにかがごそりと動いた。
 真っ黒い大きな蛇だった。うろこのぎらつく横腹を見せてとぐろを巻いている。何かに抱きついていた。
 猫たちの騒ぎに嫌気を見せて、蛇が緊縛を解くと細くしおれた犠牲者が出てきた。茶色い細い耳が見えた。公園の北側で飼育されているウサギの子供だった。迷い出てきたところを襲われたらしい。呑み込むのに大きすぎたのではない。食うためではなく面白がってウサギの子供をしばしば殺すのだと、公園の清掃係が言っていた。攻撃本能の発散のためだけに縊り殺して放置するのだ。ウサギの死体をゴミとして処分するたびに腹が立つと、清掃係の太った中年男は憤った。
 二メートルもあろうかというアオダイショウだった。動かなくなった獲物の死体を放り出し、次の標的を探して這いずっていく。酸鼻な光景だった。
 その頭は三角に尖り、割れた口の先からは赤い舌がちろちろとのぞく。遠目に見てもおぞましい姿をしていた。どこか地の底から現れ出た魔物のように見えた。猫たちの恫喝をものともせず、悠然と身を蠢かせている。
 若いオスのシマが敢然と立ち向かった。蛇は鎌首をもたげて咬みつきかかり、簡単にその挑戦を一蹴した。すごすごと頭を垂れて引き下がるシマと入れ替わりに、黒い巨体が動いた。
 黒猫は落ち着いた動作で鳴きもせず、蛇の背後に回りこんだ。白いソックスを履いた前脚で、まずは様子見のジャブを食わせる。蛇はうろたえてつづらになりながら、後ろに首を回して飛びかかろうとするが、距離と速度を見切った黒猫には届かない。
 玩具をじゃらすように、執拗な爪のパンチを繰り出し続ける。蛇は慌てて茂みの中に逃げ込もうと向きを変えた。黒猫はそれも予測のうちとばかりに身を翻す。蛇の首の付け根に深々と獰猛な顎を沈め、狙いすました一撃を決めた。サーベルタイガーのように鋭い牙だった。蛇の体から赤い血がしぶいた。
 勝利を宣言するように高々とくわえ上げて、もがく蛇を振り回す。若い二匹に見せつけながら、首がちぎれかけても牙を抜こうとはしない。蛇の尻尾が微動だにしなくなるまで、致命的な攻撃をやめなかった。
 とても長い間続けた。黒猫が一度は失った野性を取り戻すのに必要な時間なのだと思った。
「見たか?いまの」
 無言で見守っていた春本が口を開いた。
「ええ、チャンスが来るのをじっと待っていたんですね」
「うん、俺もそれをずっと待っていた」
「わかっていたんですか?あいつがこのままじゃ終わらないって」
 はじめて会ったときから、春本は猫を眺めていた。
「目はまだ死んでなかったからな。どうやって、ナめ切ったやつらに一泡吹かせるのか見たかった」
 康夫はほのぼのとした気持ちで猫たちを眺めた。
 あきらかに三匹の配置に変化が現れていた。黒い巨体の両脇に二匹が、ハの字にかしずいているように見えた。誇らしげな顔の黒猫が、康夫のほうに向かって甘えた声で鳴いた。同じ鳴き方でも、もう情けない物乞いには聞こえなかった。
「さあて、いいもの見せてもらったし、ここらで俺もいっちょうおっぱじめっかな」
 春本はスーパーカブの荷箱から、いろいろな物を取りだし始めた。大小の筆やパレット、塗料の入った多数の小瓶、それらはすべて絵の道具だった。親子連れが日曜日に弁当を広げるコンクリートのテーブルの上に、ひとつひとつ丁寧に並べていく。
 ポスターほどの大きさの木枠を組み、分厚い布を張った。ペットボトルを切った十ほどの容器に、ペンキだという原色の塗料を注ぐ。
「絵を描くんですか?」
 即席仕立てのキャンバスの上部二十センチほどを、春本は無造作に黒のペンキで塗りつぶした。
「テインガテインガアートっていうんだ。アフリカンポップアートって呼ぶとかっこいいかな。タンザニアのダルエスサラームという街に流れ着いたときに、たまたまその創始者と知り合ってな、エドワルド・サンデイ・テインガテインガっていう男で、ある日突然なんの素養もないのにすごい絵を描き始めたんだよ。天啓のようにだ。その絵に俺はすっかり魅了されちまった。本当に魂を揺さぶられる思いだった。だから、その場で頼み込んで弟子入りしたってわけだ」
 ただのペンキだという塗料が、不思議なほどおおらかにのびる。春本の筆には魔法の力が宿っていた。
「なんの絵心もなかったし言葉も出来なかったが、俺は必死でそれを学ぼうとした。彼もまた本気で教えてくれた。何かにのめり込む、はじめての経験だった。その絵をほんとうに好きになったからできたことだ」
 黒の次は青だった。鮮やかな青いペンキを一部黒に重ね、何度も塗り重ねて帯にしていく。
「師匠が早くに病気で死んじまったのはショックだったけどな。何人かの弟子がその技法を受け継いで、今に伝えているよ。小さな村で大勢の画家が創作をしている。日本に帰ってきて以来二十数年、俺もこれを続けているってわけよ。どうだ、すげえだろ」
 次に黄色、その次は赤、最後に緑を塗った。ためらいなく筆は動いた。三十分もかからなかった。
「よし、これでいい」
 虹のようにきれいなグラデーションが出来上がっていた。
「下書きができたので、ひとまず休憩」
 春本はキャンバスをテーブルの上に置いて乾燥させた。塗りたてのペンキのにおいがした。
 そこへ制服姿の仁志が現れた。
「ハルさん、画家だったの?」
 見るなり驚きの声をあげる。顔にはまだ傷が残っていたが、バッファローの睾丸の効き目は十分なようだった。
「ん、まあな」
 タバコをふかしながら、なぜかおおいに照れている。康夫は聞いたばかりのテインガテインガアートについて説明してやった。
「青い色は空、赤は命、緑は草原かな。単純なもんさ。理屈はいらねえんだ」
 帯状に色を重ねただけのキャンバスを、仁志は興味深そうに眺めている。
「学校に行けるようになったんだね」
 歯の欠けた口を恥ずかしそうに押さえた。前歯の治療に通っているのかと聞いたら、痛くて怖いんだもーんと首を横に振った。作る本人には絵カードの効果はないらしい。
「僕のケガを診てくれた口腔外科の先生が、山岡たちを警察に告発したんだ。学校にパトカーが来て大変だった」
 仁志はここ数日で自分の身に起きたことを話し始めた。


 仁志はある日の放課後、内田晴美に呼ばれた。
「これはもうすでに、あなたがどうしたいかという個人的な要望を越えて処理されるべき事件だと思う。でも、その前に一度あなたときちんと話しておく必要があると感じたから来てもらったの」
 誰もいない相談室のソファで向かい合い、晴美は毅然とした口調で言った。
「クラスの様子を観察したらすぐにわかった。何人かの生徒に内緒で話を聞いたの。山岡君たちに暴行を受けたことは明らかね」
 内田晴美は迅速に行動していた。
「職場と家に何度かお邪魔して、お母さんともお話ししたわ」
 仁志の家は、早くに両親が離婚した母子家庭だった。生活保護を受けながら、母親はスーパーでパートタイマーをしていた。
「お母さんにあなたが日常的にいじめを受けていて、今回の暴力行為もその延長線上にあることを説明した」
 母親の協力を求めたことを打ち明けた。
「あなたに内緒でいろいろと動いたことを許してね。よけいなことだと怒らないでちょうだい」
 聡明そうな瞳を向けてくる。仁志は不思議な気持ちになった。
「いじめにあっている人の多くは、自分で助けを求める声をあげることができずに、一人苦しんでいる。それをわかっていて加害者は卑劣な行為をやめようとしない」
 化粧が苦手らしく、目の周りをパンダの出来損ないみたいな黒い輪っかに塗っている。クラスではポン子が完全に定着していた。
「どうして彼らはあなたばかりを標的にするのかしら?」
「それは、僕がどもるから」
「それだけが理由ではないことを、あなたはもうすでに知っている。自分の中に存在する非難されるべきものが、彼らの邪な心を呼び寄せているのだと感じている。だから、学校を休むことをしない、誰にも言わない、じゃないかしら?」
「僕の心の中がわかるのですか?」
 晴美が仁志に何をしたいのか、あるいは何をさせたいのかわからなかった。
「痛みを想像することはできる」
 肩に軽く触れてきた。
「かつて、わたしもいじめられていたから」
 ポン子がさらりと言う。なぜいじめられていたのか、それ以上のことは話さない。
「僕に何をしろっていうの?」
「何もしないでいい。あなたの仕事じゃない。いじめを受けるのは本質的にあなたの中に問題があるわけじゃないのだから。あなたは自分を卑下したり責めたりしないで」
 少しだけ膝を寄せて続けた。
「そして、知っていて欲しい。見て見ぬふりをする者ばかりではないということ、それを本気で止めようとする第三者もいるのだということを覚えておいて」
 肩に置いた手に力が込められる。
「なぜそんなことをするの?」
「あなたのことを、大切だと思うから」
 はっきりと言う。新人教師のやる気が伝わってきた。
「生徒だから?教師として?」
「一人の人間として」
 言葉には強さがあった。
「どうやるの?」
 不安を増幅させながら聞いた。
「叔父さんに頼むことにするわ。職員室を通すと、時間と無駄な労力がかかりすぎるから。医師には、あ歯医者か、事件性がありそうな患者の治療をしたときには、警察に通報する義務があるの。ということにしておく。とりあえず、わたしは表に出ないことにする。わたしの叔父さんだってのは黙っておいてね」
 警察という言葉が頭の中で木霊した。
「あなたも警察に呼ばれて事情を聞かれることになる。ひとりで転びましたではすまないからそのつもりでいて。たぶんお母さんも呼ばれるでしょうけど、そっちのほうはわたしが十分に対応を教えておいた。いいわね。もう一度言うけど、もうあなたがどうしたいというレベルの問題じゃない。誰かがはっきりと意思表示をして、やめさせなければならないの」
 その態度には大人の本気が感じられた。
「僕には自分がどうありたいのかわからない。山岡たちにひどい目にあわされているこの状況を変えたいと思う一方で、それを許し受け入れようとしている。自分にふりかかる自然災害みたいなものだと思い込もうとしている。嵐が止むまで、じっと過ぎ去るのを待つしかないんだと」
 はじめて誰かに自分の気持ちを伝えようとした。
「山岡たちを憎む気持ちもあるけれど、彼らにいじめをやらせているものは、彼ら自身も気付いていない何かのような気がする。だから、それから逃れたり逆らったりしてはいけないんじゃないかって」
 絡まり合う言葉が口をついて出た。説明できそうになかった。
「うまく言えませんけど」
「うまく言う必要なんかない」
 両手を握りしめてきた。皮膚の下を流れる血液の温度が、直に伝わってくる。
 仁志の両眼から不意に熱いものがこぼれた。それは、今までに流したどの涙とも意味が異なっていた。
 よく見るとポン子も泣いていた。目の周りの黒く丸い輪っかをますます大きくにじませて、アライ熊の母親のような顔になっているのだった。


 仁志のどもる癖はほとんど治癒していた。
「パトカーに乗せられていく山岡たちの姿を見たんだ」
 起伏のない声で言う。複雑な心理を康夫は思いやった。これからどんな事態が展開されていこうとも、仁志は自分の考えをきちんと述べることができるような気がした。それも、少しもどもらずにだ。
「おまえはそれでよかったのか?」
 春本が鼻くそをほじりながら聞いた。
「わかりません」
「それでいいんだよ、なるようになるぜってこと」
 なにかの合図のように、両手をぽんぽんと打ち鳴らした。
「さて、やっつけちまうとするか」
 下書きの乾いたキャンバスを手に取りながら言った。
 原色のペンキをパレットの上で混ぜ合わせ、いくつもの複雑な色を産み出しながら、春本は一気に筆を走らせていく。下絵を描くこともなければ、像の輪郭すら辿らない。
 厚みを増していく画面で少しずつ形になりつつあるものがなにか、息を詰めて眺めている。瞬きすら惜しんで、筆先の動きを凝視していた。
 やがて、躍動感に満ちた姿が、キャンバスいっぱいに浮かび上がった。デフォルメされていても、鼻まで黒い鉢割れ柄で四つの白いソックスを履くそいつは、たしかにあの黒猫だった。
「すごい!」
 仁志が感嘆の声をあげた。
「ほんとに」
 同感だった。闘志が全面に漲っている。憔悴しかけた気持ちを、もう一度奮い立たせる勇気に満ち溢れていた。
「うわあ、ねこ、ねこ、ねこ」
 空に向かって放り投げるような甲高い声がした。拓也を挟んで関根祐子と、たぶん父親の孝治と思われる男が立っていた。
 拓也は絵を見てひどく昂奮していた。両親の周りを、ねこねこと叫びながら、ぐるぐると走り回った。純真無垢な心をいたく感動させる力を、この絵はあきらかに有しているのだった。
 父親の孝治は、最初少しだけぎょっとした顔をしていた。猫神伝説のことを思い出したせいかもしれない。しかし、やがて陽気で優しそうな表情を取り戻し、久しぶりに会う息子と同調して遊びはじめた。祐子がそれを微笑ましく見守っている。
「でけた。黒猫のテインガテインガアートの完成でーす」
 春本が最後の筆を空に突き上げて叫んだ。
 それに呼応するかのように、若い二匹を従えた黒猫が、巨体を揺すりながらのそりと現れた。いつものように媚びた鳴き声をたててみせる。その背中からは、勝利した者だけに纏うことが許される、余裕のオーラが立ちのぼっているかに見えた。

       七

 すべての荷物を青いホンダスーパーカブの後ろに積み込むと、春本は康夫の隣に座り、最後の一服を求めてきた。 
「この絵は、おまえにやる」
「えっ、まさか」
「いいってことよ。タバコをもらったしな。そういやあ、命も救ってもらったんだっけ?」
 タバコほどの値打ちもないけどな、と笑った。
「俺はもう行くぜ。そろそろ退屈してきた」
 別れの時がきたことを悟った。
「ところで、これからおまえはどうするんだ?」
「考えていません。とりあえず、僕もどこかを旅してみようかと」
「ふうん、まあそれもいいかもしれねえけど」
 煙を白い矢のように吐き出した。
「アフリカに行って好き勝手やってる間に、俺の親たちは次々に死んじまっててな。帰ってきてからそのことを知ったんだ。親の死に目にさえ会えなかったってのが、今まで生きてきた中での唯一最大の後悔かな。おまえにも親はいるんだろう?」
 ちらりと康夫を見た。
「たとえホームレスになっても、親には助けを求めないって気持ちはなんとなくわかるよ。しゃきっとした姿じゃなきゃ、家には帰りたくないってんだろ。いじめられっ子が親に言わないのと似てらあな」
 タバコをもみ消しながらにやりと笑う。
「でもな、親はそんな小難しいこと考えちゃいねえって。電話一本だけでも入れてみなよ。人生のサイコロをもう一度振り出す前に、いっぺん家に帰るってのもありだぜ。まあ、大きなお世話だがな」
 さて、と春本は立ち上がった。顔の下半分突き出るヘルメットを被り、スーパーカブのエンジンをかけた。
「じゃあな、アデイオス」
 しゅたっと片手を軽く上げて合図し、特徴的な排気音を残して走り去っていく。その背中をいつまでも見送っていた。
 あっけない別れだった。手元には、黒猫の絵だけが残った。
 春本の残した言葉を咀嚼している。絵を抱えてベンチに座っていると、なんだか急に故郷の母の声が聞きたくなってきた。切ない望郷の念が胸の中いっぱいに湧いた。余計な意地やプライドを押しのけ、急速に膨れあがる。
 いてもたってもいられなくなった。公衆電話を探して小走りにあたりを駆け回る。携帯電話は紛失届を出したきりだった。新しいものを買い求める気にはならなかった。
 公園の裏の狭い路地を、さんざん行ったり来たりした。ドアの立て付けの悪い電話ボックスを、やっとひとつ見つけた。もどかしく受話器を上げて百円玉を放り込む。いまだに忘れていない実家の電話番号をプッシュした。
 七度目のコールで、あきらかに元気のない女性の声がした。なつかしい母の京子の声にちがいなかった。康夫はすぐに言葉を継ぐことができなかった。
「もしもし、どなた様でしょうか?」
 急に吃音症になったみたいに、喋りはじめることができない。
「ひょっとして康夫?康夫なの?そうなんでしょう?」
 声が裏返った。
「かあさん」
 ひと言発するのがやっとだった。
「今どこでどうしているの?心配していたのよ。テレビで見て、あなたも勤め先を無くしたんじゃないかって。そうなのね、だいじょうぶなの?」
 矢継ぎ早にホームレス寸前の息子を気遣う。
「一度、そっちに帰ろうと思うんだけどいい?」
 おそるおそる聞いた。今にもあの厳格な父の政夫が、横から受話器をもぎ取って、好き勝手するようなやつはもう二度と帰ってくるな、と叫びそうな気がした。
「何言ってるの。いいも悪いも、ここはあなたの家でしょう。すぐに、今すぐに帰ってきなさい」
 母の声が鼓膜を濡らしはじめた。
「うん、そうするよ。お父さんもそれでいいと言うかな?」
「お父さんは、お父さんは」
 言葉を詰まらせた。泣いているのかもしれない。
「とにかく帰ってきて。じつは、お父さんが大変なことになってるの。あなたにも助けてほしい」
「え?病気かなにかなの?」
「ええ、それもうんと重症のね」
「癌?」
 冷えたナイフの切っ先みたいな言葉が、思わず口から飛び出した。とっさに美智子の乳房に巣くう癌細胞の増殖を思い浮かべた。
「ある意味もっとひどいわ。だから、とにかく早く帰ってきて」
「うん、わかった」
 乱れた心の置き場所を探しながら答えた。
 大手の建設会社で経理部長を務める父とは、高校生になったあたりからうまくいかなくなった。康夫は中学の級友と一緒に公立校へ上がるつもりだったが、父は強く私立の進学校の受験を勧めた。
 それまでは習い事や塾通いに、どちらかというと鷹揚だった。急に康夫の進路に干渉しはじめた理由がわからなかった。
 無遅刻無欠勤の仕事人間だった父は、あまり家にいた記憶がなかった。帰宅はいつも深夜で、日曜祭日もほとんど休日出勤した。
 他の家の子供のように、家族でデパートや遊園地に出かけたりすることは滅多になかった。父は何かにつけ几帳面な性格で、整理整頓や挨拶にはこだわったが、家では無口で通していた。
 父が康夫にかまってくれた数少ない記憶のうち、最も印象に残っているのは昆虫採集だった。夏になるとときどき遠くの山に、康夫を乗せて車を走らせた。そこはナラやクヌギの木が群生している自然林で、父はその所有者と会社関係の知り合いだった。
 二人は麦わら帽子をかぶり、カブトやクワガタを捕った。木の幹や枝を丹念に観察して、樹液を吸うのに夢中の昆虫たちを次々に見つけた。涼やかな山の空気の中で、昼には母が用意してくれたおにぎりを食べ、冷えた麦茶を飲んだ。強い夏の陽差しに疲れて、康夫は木陰で居眠りをした。
 その間、父は倦むこともなく虫取り網を振った。持ち前の生真面目さで時間いっぱい、康夫のために一匹でも多くの虫を捕まえようと孤軍奮闘した。シャツを脱ぎ捨て、ランニングシャツに汗の地図を作っている。まるで照りつける太陽と格闘するかのようだった。
 日頃一緒にいない負い目みたいなものが、父の胸中にはあるようだった。たまに二人で出かけると、それを取り返そうとムキになった。父の不器用な愛情表現を見る気がした。
 虫かごに入りきらないほどのカブトやクワガタを級友に見せると、クラスで王様になることができた。惜しげもなく康夫は、それらを級友たちに分け与えた。友達にやってしまったというと、夏のうちに、父がもう一度山へ連れて行ってくれたからだ。
 私立高校を受験したが失敗し、公立になんの緊張感もなく通っていた。そんな康夫の態度に、父はなんとなく苛立ち焦っているようだった。
 高校に入ったばかりで、いまだ大学受験の危機感もなかった。周囲が皆そうだったのだから無理もない。
 しかし、父はそれをひとり気に病み心配していた。父の思い描く一人息子の進路は、一流大学を出て一流の仕事に就くというものだった。康夫を勤め人ではなく、優れた資格を持つ医者とか弁護士にしたがっていた。学歴や職歴にまつわるどのような経験をきっかけに、そう思うに至ったかは聞いてみたことがない。
 多感な時期に急に始まった行動への干渉に、康夫は当然のことながら強く反発した。風紀のゆるい高校だったことも災いした。格好だけ不良だが中身は普通の級友たちに混じって、少しばかり髪を染めたりロックバンドの真似事をしたりした。
 心底やさぐれてみるつもりは、毛頭なかった。なにかと反抗したがる気持ちのけば立ちを、うまく撫でつけることができなかった。大人の世界の入り口に立ち、いまだ馴染めないでいただけだ。
 しかし、父は生来の潔癖さゆえか、それに過剰に反応した。誤解に近い親子間の対立が家庭内をきしませた。テレビの中の芝居を見ている気分だった。なぜこんなにも不毛な言い争いをしているのかわからなかった。
 まともな話ができないもどかしさが募った。短絡した偏見を押しつけてくる父が考える以上に、自分は大人であると思った。認めてくれていないという不満が、ますますささくれた。
 やがて、父と子はひとことも口をきかなくなった。康夫は一人で勝手に、県外にある公立の工業大学への進学を決めた。
 それがきっかけになって、再び売り言葉に買い言葉の喧嘩が再燃した。家を飛び出すまでの間、お互いにうんざりするほどの応酬が続いたのだった。
 大学に入ってからも父との関係はこじれたままだった。引け目を感じながらも、黙って仕送りは受け取った。それ以上は関係を壊さないという親子の暗黙の了解だった。正月休みに帰郷もせず、音信不通のまま数年を過ごした。
 卒業とともに派遣会社に入り、指示のとおりに海を渡ることにした。知り合いの誰一人いないこの街にやってきたときも、ひとことの相談もしなかった。電話で父の声を聞くことさえ嫌だったというより、半分怖れていた。
 その父が今は重病で大変だと言われると、康夫はおろおろと落ち着きを失った。海を越え、すぐさま故郷に向かって走り出したかった。すでに陽が落ちかかっている。
 受話器を置き、肩を落として電話ボックスを出た。ふと目の前に、バイク屋があるのに気付いた。民家の軒下に二台ほど売り物のバイクを並べただけの小さな店だった。「山田輪業」という古びた看板を申し訳程度に提げている。
 康夫はポケットの中の全財産を確かめてから、店に入っていった。不機嫌そうな店主が、原付スクーターのパンク修理をしている。他に客の姿はなかった。
「これだけしかお金がないし、おまけに急ぎで悪いんですけど、この白いやつを今すぐ僕に売ってもらえないでしょうか?」
 ヤマハのオフロードバイク、セロー225を指差した。
 なぜ、そんなことをいきなり思いついたのかわからない。たぶん春本のスーパーカブの影響があったのだろう。故郷に向かうのに、どうしてもこのバイクに乗って帰りたかった。
「ああん?なんだってやぶからぼうに」
 手を休めないまま、上目遣いに睨む。
「父が病気なんです。だから、急いで故郷に帰りたいんです」
「バスか列車に飛び乗ればいいじゃねえか。その方がよっぽど楽で早いだろうが?」
 四十歳くらいの眼をぎょろつかせた男だった。汚れた菜っ葉服姿で、帽子を前後逆に被り、長髪をはみ出させている。
「バイクなら夜でも走れます。今夜にでもすぐに出たいんですよ。そうすれば明日の朝にはつけますから」
 懸命に説得した。
「どこまで行くんだよ?」
「山口県です」
「ほお、そりゃすげえや」
 腰を上げて店の外に出てきた。背の高い男だった。
「でも、その額じゃなあ。うちは完全な赤字だわ。ちょっと無理かな。わりいけど」
 山田が仕事に戻ろうとしかけたとき、二階から誰かが下りてきた。
「晩ごはんできてるよ」
 パジャマ姿の白髪の老女が、階段の端っこに立っていた。その顔には見覚えがあった。
「ありゃ、あんた。電電公社の職員さん」
 認知症の老女が康夫の顔を見て言った。
 かつて美智子と二人で探し当てた老女の家がここだった。すっかり忘れていた。閉まっていたシャッターの中は、バイク屋だったのだ。
「知り合いかい?」
 山田が不思議そうに老女に聞いた。
「うちの家の前の交換台が故障したので、私が公社に修理を頼みに行ったの。そしたらこの職員さんが来てくれて、ほんと親切にしてくださったのさ」
 老女はにこにこと笑う。
「先日はお世話になりました」
 ぺこりと頭を下げた。
 夏の初めの出来事を、彼女がいまだに覚えていてくれたのが無性に嬉しかった。美智子がここにいたなら、もっと感激しただろう。事情を説明するのを、山田は目を伏せたままじっと聞いていた。
「かあちゃん、今日は俺が職員さんに頼んで修理に来てもらったんだ。あの交換台、またこわれちまった。あれはうち専用だからな。おぼえときなよ」
 老女が徘徊中迷子となったときに、我が家を探す目印となる電話ボックスを見た。
「よし、いいぜ。バイクは持っていきな。連絡先と金さえ置いていってくれたら、このまま乗っていっていい。整備はばっちりできてるからな。ガソリンは入れろよ」
 キーを出しながら言った。必要と思われる交通費を差し引いた残りすべてを、財布から抜いて差し出す。山田はにやっと笑いながら、きちんと数えて尻ポケットに突っ込んだ。
「こいつはサービスで付けてやるよ」
 店の隅に転がっていた中古のヘルメットとグローブをくれた。もう一つ頼み込んで、古いチューブを切った荷紐をもらう。これで帰郷の準備は整ったかと思うと、きりりと身が引き締まる思いだった。
「気をつけてね」
 にこにこしっぱなしの老女が、手を振って見送ってくれた。
 仁志と拓也に別れを告げる時間はなかった。段ボール箱を千切ってその上に、「さようなら、元気でね、ハルとヤスより」と書いた。その手紙をベンチの上に置いて、小石を乗せる。明日の朝、仁志が気付いてくれるはずだ。
 ヤマハセロー225の小さなリアキャリアに、ボストンバッグを積む。その上に段ボール紙で厳重に挟み込んだ黒猫の絵を乗せた。すべての荷物をゴム紐で括りつけ、ガタがないかよく確認した。
 デイパックを背負い、ヘルメットの顎紐をきつく締める。グローブを付けた手でセルモーターを回す。OHC単気筒のエンジンは、トクトクと軽やかな鼓動をたてて簡単に目覚めた。大きく足を振ってバイクにまたがり、康夫は勢いよく発進させる。
 公園を飛び出していくときに、ちらりと黒猫の姿が見えた。最後に見る彼の勇姿は堂々として、さらに自信を増していた。

       八

 会社帰りの車で混み合う国道を走る。大晦日までのカウントダウンがはじまり、帰省ラッシュと重なって長い渋滞ができていた。白いオフロードバイクは、その列をあみだに縫って軽快に走る。
 バイクに乗るのは数年ぶりだった。康夫は自動車整備士の資格の他にも、いろいろな免許を持っている。二輪免許もそのうちのひとつだ。大学時代、自動車関連の資格や免許を手当たり次第に取得した。
 優れた資格を取って技術を磨き勤め人以外の職につけ、という父の言葉は、反発しながらも康夫の心に深く刻まれていた。医者や弁護士はとうてい無理だったので、自然に自動車にまつわる職業を選ぼうとした。
 車の模型を組み立てる遊びが、子供の頃から大好きだった。それを糊口をしのぐための仕事にできたら、少なくとも苦痛を感じずに続けていけそうだった。父の理想にはほど遠いかもしれないが、恥じることもないと思った。
 大きなまちがいを犯したのは、職に就く方法を派遣会社という赤の他人に委ねたことだ。紙切れ一枚投げつければ、親方の都合のみで首を切れる仕組みをつくったやつは狡猾だ。深く考えもせず簡単に下駄を預けた自分も軽率だった。
 父の言葉の意味が、いまになって大きくのしかかってきた。後悔を頭に巡らしながら、セロー225を一心に走らせるのだった。
 最寄りの高速インターチェンジを通過した。あとはアクセルを大きく開けて、ただひたすら瀬戸内海を目指す。昨日までの世界から遠くかけ離れた場所へと一気に飛んでいく。万能の羽根を手に入れたとほくそ笑んだ。
 人間の叡智を誇示する巨大な吊り橋が目の前に現れた。見下ろすこともかなわない遙か下の海から、極寒の強風が吹き上げてくる。風速十メートルの電光表示を恨めしく見やる。油断すると隣の車線まで吹き飛ばされる突風に首を竦めた。
豆粒のようなバイクにしがみついて海を渡る。鋼鉄の象の背中を必死で這い上る蟻の姿を想像しておかしくなった。
 岡山に入ったあたりから、笑う元気もなくなってきた。氷点下近いみぞれの中を長時間走り続けている。体を巡る血液の温度が下がり、心臓の動きも緩慢になり始めた。バイクに乗った姿のまま氷像になりそうだ。涙が凍って瞼を閉じることができない。風花渦巻くチューブの中を、ひたすら身を縮めて突き進んでいく。
 ミニバンに乗った家族連れが、奇異な生き物を見るような目を向けてきた。その視線には哀れみと侮蔑が綯い交ぜになっている。見たくもないものを無理に見せられた怒りを残して、風の向こうへ走り去っていった。
 サービスエリアを見つけるたびに飛び込んだ。震えながら熱いコーヒーやうどんを体に入れる。再び走り出すと、半時間もしないうちに凍死の危機に見舞われた。
 四肢の感覚がすっかりなくなり、バイクのレバーを操作することもおぼつかなくなってきた。スピードの落ちた康夫のバイクのすぐ傍を、深夜便の大型トラックがかすめていく。殺意すら感じるその愚行に、棒きれとなった片腕を突き上げて抗議した。闇の彼方へ走り去る獣の背中には届きそうにない。あとには剥き出しの悪意が、喉をいがらっぽくする排気ガスと一緒に残るだけだ。
 高速を下りたのは、出発から半日近くを経過した頃だった。朝の気配はいまだ遠く、気温は限りなく零度に近かった。かじかんだ手で通行料金を払うのに、長い時間がかかった。後ろのドライバーはうんざりした顔を向け、料金収受の係員は呆れ声をあげた。
 かつての通学路をたどり、真っ直ぐに家へと向かう。なつかしい我が家の門を見たとき、すべての行為が限界を迎えた。もうこれ以上走れなかった。玄関の中に灯るオレンジ色の光は緊張の糸を弛ませ、ブレーキをかけることを忘れさせた。
 気付いたら火花をたてて転倒していた。普段は華奢に感じるオフロードバイクの下敷きになって動けない。固いアスファルトに打ちつけた腰の痛みに耐えている。声をあげることすらできなかった。
 玄関の引き戸が開き、小柄な女性が現れた。母の京子だった。
 すぐに康夫だとわかったらしく、悲鳴に近い金切り声をあげながら駆け寄ってきた。火事場の馬鹿力を発揮して、バイクを引き起こし放り投げた。
「まあ、なんてこと」
 ヘルメットを脱いだ息子の顔を見て驚嘆し、またまた馬鹿力を出して部屋に抱え入れた。
 すぐさま風呂が用意された。気付け薬のウィスキーを含まされ、赤ん坊のように裸にされて湯船に放り込まれた。
 巣に戻った雛鳥の安堵とともに、ゆっくりと体の痛みが溶けていく。もう半月以上も入浴していなかった。
 用意された自分のパジャマを着て、熱いおじやを食べた。昔からいつも、康夫が病気の時にはこれを作ってくれる。
 腹が満たされると、座っていることさえ困難な睡魔がやってきた。柔らかい羽毛布団にくるまったとたん、深遠な眠りにぱっくりと呑み込まれた。
 目覚めたのが夕方であると思ったら翌日だった。三十時間以上眠った計算だ。起き出して台所に行くと、京子がすっかり夕食の支度を終えていた。
「お父さんは?まさか病院?」
 二人分の用意しかない食卓を見ながら聞いた。
「部屋よ。一日中出てこないの。食事もさっき運んである」
「どうしたっていうの?」
 大変だという言葉を思い出した。
「三ヶ月前にお父さん、会社リストラされちゃったの」
 リストラという言葉が、似通った境遇の我が身にぶつかった。
 経理部長として、毎日仕事に出かけていた父の姿を思い出した。無口で取っつきの悪い上司で、部下から慕われていそうになかったが、真面目一本槍のベテラン社員のはずだった。
「このご時世で建設業界も大変なのよ。いちばんにリストラの対象に上がったのが、経理部門ってわけ。早期退職か、お給料を大幅にカットされての子会社出向かの選択を迫られた。少しばかり退職金の上乗せを貰える退社のほうを選んだのよ」
 まだ六十歳には少し間があるはずだ。団塊世代を担い日本経済の発展に寄与してきた。最終コーナーを回ったところで順風満帆の人生から転落した気分はどんなものだろう。
「最初は再就職してもうひと花咲かせるんだって、毎日職安にも通っていたのだけれど。仕事なんかどこにもなくって。ますますふさぎ込んじゃったのよ」
 生真面目がかえって災いしたのだと思った。
「なんか趣味でも持って楽しんでくれればいいのにね。さしあたり、明日の生活に困るわけでもなし」
 今日のパンに困っている甲斐性なしの息子はうつむいた。
「無趣味な仕事人間だったからなあ、お父さん」
 整然としていないとどんなことにも納得しなかった父の日常を思い出した。
「でも、癌とかの病気じゃなくてまだよかった」
 本心がほろりと口からこぼれた。
「まあね。でも今のままだと、自殺するんじゃないかと本当に怖い。おまえからも何か言ってあげてほしいのよ。お願い」
 一人息子でしょう、という言葉が後に続くはずだ。癌と自殺という言葉がヒヤリと首筋を撫でる。柴田美智子の顔が閃いて消えた。
 リストラで落ち込む父親に、派遣切りで首を切られたばかりの文無し息子が何を言えるというのだ?康夫は、なんの役にも立たない自らの無力に嘆息するのだった。
 突然、二階の書斎のドアが開いて、階段を踏む音がした。トイレに下りた父の政夫の姿が、廊下の奥にちらっと見えた。なんだか一回り以上も縮んだ気がした。
 トイレから出てくるのを待って、京子が席を立った。ひと言ふた言交わしたあと、キッチンのテーブルに戻ってくる。背後から政夫の顔がついてきた。
 康夫の顔を見てなにか言いたげにしたが、出かけた言葉を喉に詰まらせたまま立ち尽くしている。
「久しぶりなんだから、みんなで一緒にお茶でもしましょうよ」
 コーヒーカップを並べはじめる。政夫は小さく頷いて、正面の椅子に腰掛けた。
「お父さん、お久しぶりです」
 何年ぶりかで見る父のやつれた姿に、取り返しようのない間違いをしたと感じた。
すれ違い反目しあったまま、遠く離れて過ごした時間の長さを思った。生き抜くことさえ困難と思えるこの現代で、身を寄せ合いぬくもりを分かち合えるのは家族だけだ。自ら放棄したものの大きさを今頃知った。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
 香ばしいコーヒーの香りが部屋を満たした。サイフォンで本格的に煎れたブルーマウンテンだった。コーヒー好きの政夫のために、昔から京子は、コーヒーにかける手間を惜しまなかった。
 誰に促されたわけでもなく、康夫は大学に入学してからの経過を話しはじめた。学生時代の自動車部の話からはじめた。機械いじりが好きでその道に進むための準備をしたこと、整備士の資格を取ったこと。卒業してから大手の自動車メーカーに派遣社員として入ったが、つい最近解雇されたこと。公園でホームレスになりかけていたことなどを、包み隠さずに話した。
 政夫は相槌を打つこともなく、身動きもせずにそれを聞いていた。
「せっかくうまくいきかけていたのに、自分の甘さでやっぱりだめになった。危うく飢え死にするところだった。父さんの忠告のとおりだったよ」
 自嘲的な苦笑いを浮かべるしかなかった。
「俺も似たようなもんどころか、もっとひどい」
 政夫がはじめて口を開いた。
「このざまだ。会社は、いや世の中は本当は俺じゃなくったって誰でもよかったってわけさ。適当に使い回して、すり減ってきたら、ぽいってな」
 怒りがよく理解できた。そして、それが本当は怒りではなくて、悲しみであることも知っていた。
「いつかこうなる予感はあったんだ。だから、俺はおまえにちがった道を無理矢理押しつけようとした。自分のダメな生き方を、他人の人生でやり直そうとしたようなもんだ。それに反発するおまえの当然の気持ちをわかってやろうともしなかった」
 無精髭を撫でた。
「ほんとうにどうしようもないよ」
 うなだれて声を落とす。
 康夫は胸が詰まった。どうしたのお父さん、としおれた父の姿を抱きしめたい誘惑に駆られた。でも、できなかった。
 重苦しい沈黙がキッチンを覆った。せっかくのコーヒーもすっかり冷め切って、カップの底の液体は煮詰まった廃油のように澱んでいた。
「あのバイクどうしたの?あんなのに乗って帰るとは思わなかった」
 京子が暗さを少しでも和ませようと話題を逸らした。康夫の頭になにかが閃いた。
「そうだ、おみやげがあるんだった。ちょっと待ってて」
 バイクに積んだままの荷物を取りに下りた。ゴム紐を解いて、大切なものを取りだす。
「どう、これ。ちょっとおもしろいでしょう?」
 春本のくれた黒猫の絵を、テーブルの上に立てた。
「テインガテインガアートっていうんだ。アフリカのポップアートなんだって」
 絵を見たとたん、なつかしく切ない不思議な気持ちが胸一杯にこみ上げてきた。康夫は公園での出来事を一心に語りはじめた。
 この絵を描いた放浪画家の破天荒な生き方、いじめにあっていた仁志が絵カードを作って吃音を治した話、自閉症の拓也たち親子の愛情、そしてモデルになった黒猫の奮闘について、詳しく話した。なぜか夢中になって、公園での生活をつぶさに描写し続けた。話し終わると、黙って聞いていた政夫の目に変化が現れていた。
「ふうん、おまえもいっぱしの大人になったもんだなあ。こんなふうに親を慰めることができるなんて」
 もどかしげに顔を歪めながら言った。長いこと笑ってないせいで、うまく笑顔を作ることができないのだった。京子が隣で、すすり泣きをはじめた。
「それにしてもへんてこな絵だなあ。猫が盆踊りでもしているのか?足なんか枠からはみ出しちゃってるじゃないか」
 政夫の顔がやっと不自然な笑い顔になった。
「いいんじゃないの、ポップアートなんだから」
 康夫も笑い出した。同時に両眼の端から、しょっぱいものが溢れ出した。それは根雪を消す春の雪解け水のように、すべてのわだかまりを溶かして、足元をさらさらと流れた。
「でも、この猫は本当に元気、それが画面いっぱいに伝わってくるじゃない」
 京子が言い、全員が身を乗り出して頷いた。そこには確かに、躍動する黒猫の姿があって、どんな困難にも手折られることのない不屈の魂を宿しているのだった。
 そのとき玄関先で、ガリガリボンという爆発音がした。驚いて戸外に飛び出す。フロントから白い煙を出して、雑誌でしか見たことのないピカピカの車がエンコしていた。
 きれいにレストアを施された、初期型ジャガーEタイプロードスターだった。製造からすでに四十年以上経過したそれは、旧車マニアには垂涎の動く骨董品だった。
 車内から出てきた身なりのいい中年男は、ぺこぺこと頭を下げて玄関前を騒がしたことを詫びた。どこかに携帯電話をかけようとするが通じない。
「いやあ、まいっちゃったなあ。年末でどこも休みだ」
 太った腹を揺らし、この寒さの中でも禿げ上がった額に玉の汗を浮かべている。
「ヒーターが効きすぎてね、燃えちゃった」
 ロードスターはオープンカーのくせに、幌を上げたままだった。寒いのも暑いのも苦手そうな男は、まいったまいったを繰り返す。レースのついた小さな白いハンカチで首筋を拭った。
「ちょっと見てみましょうか?」
 康夫は意外な顔をする男にボンネットを開けさせた。
 各部のベルトの弛みをチェックしてみる。やっぱり空調機の部品がいかれているのだった。たぶん男がヒーターを効かせすぎたせいだ。ファンが焼き付き、コンプレッサーもご臨終となったらしい。
 旧車の泣き所で、よくある話だった。車載工具のスパナを借りて、ファンからベルトを外す。カタツムリにそっくりなコンプレッサーのネジを弛め、抜き取った。真っ黒に焼け焦げたその部品を眺めている。
 美智子は今もアジサイの森でカタツムリを探しているだろうか。手術を終えた彼女の暮らしを案じてみる。見かけによらないカタツムリの強靱さに倣って、心身共にすっかり回復していればよいのにと祈った。
 すぐに車は走れる状態に戻った。自動車工場に勤めていた整備士には簡単だった。古い車は現代のハイテクカーよりも、ずっと作りが単純なのだ。両親も感心して、息子の働きぶりを眺めている。
「これで走れますよ、とりあえず。ヒーターは効きませんけど」
「おお、信じられん。君はプロの車屋さんかい?」
「不景気のおかげで、元派遣社員の現在無職です」
 てらいもなく答えた。
「あっそう、そりゃ会社も馬鹿なことしたもんだ。こんな優秀な社員をね」
 だよねえ、と言って男は政夫と京子に同意を求める。二人はこっくりと頷いた。
 戸外の寒さが薄着に浸みてきた。家へ戻ろうとすると、男はどうしても修理代を払うと言い張ってきかない。
「まあ、中に入ってお茶でもどうですか?」
 押し問答になりかけたところを引き取って政夫が誘った。
「え、いいの?焦って喉渇いちゃった。それじゃ遠慮なく」
 無邪気に喜んで靴を脱いだ。金縁眼鏡の奥の眼が子供のように輝いている。
 田辺です、と男は名乗った。小児歯科を専門とする歯科医だという。長い間大学勤めをしていたが、教授が代わって医局に居づらくなり、五年前に郊外に土地を買って小さな診療所を開業した。経営的にはまだまだ苦しいが、唯一の趣味である念願のクラッシックカーを、自分へのご褒美のつもりで買ったばかりなのだと笑った。
「へえ、やっぱりプロの整備士さんだったんだね。助かったなあ、ほんとラッキー」
 両手を合わせて拝む。恭しくコーヒーをすする。
「うわあ、このコーヒーおいしい」と田辺はカップを覗き込んだ。
「小児歯科って、子供専門の歯医者さん?」
 興味を引かれて聞いてみた。
「うん、そう。毎日子供と遊ぶのが仕事。ついでに虫歯の治療もちゃちゃっとね」
 この男なら本当に遊んでいるのかもしれないと思った。
「自閉症の子供も治療に来ますか?」
「うん、くるよ。なんで?」
「絵カードって使います?」
「使っているよ。あれは本当に重宝するね。紙芝居みたいなもんだからわかりやすくて、すっごくおもしろいの」
 拓也は無事に虫歯の治療を済ませただろうか。田辺のような歯科医に診て貰えばいいのにと思い、その話をすると、お安い御用だという。全国的に障害児の歯科治療をするネットワークがあって、そのメンバーを紹介すると胸を叩いた。
「あ、そうだ。たしかその県にはわたしの大学の先輩歯科医が開業しているよ。内田っていう口腔外科医だけどね」
 どこかで聞いたことのある名前だった。仁志の折れた歯はどうなっただろう。
「彼も旧車好きで、グランプリホワイトの61年式ポルシェ356Bを持ってたなあ。いっつもどっか壊れてるんだけどね」
 からからと田辺は笑った。
「康夫、車いじりが好きなんなら、おまえもひとつ整備工場でも開業してみればどうだ?」
 政夫が急に思いついたように言った。
「車屋はじめるったって、場所も資金も必要だし、そんな簡単なわけないでしょ」
「金ならあるよ、会社を辞める時にそこそこの退職金をぶんどったから」
「でも、それはお父さんたちの老後の大事な資金なんでしょう。失敗したら本当に大変なことになっちゃうよ」
「もしそうなったら、どんな仕事でも家族全員でやればいいじゃないか。働ける者があとの者を養うってことにすればいい」
「いいね、いいね。賛成。わたしも勤め人の頃より、開業した今のほうがずっと楽しい。苦労も多いけどね、でも後悔はしないよ」
 田辺は歯科医らしくない間の空いた前歯を見せ、誇らしげに顎を持ち上げた。はみ出た鼻毛が恥ずかしい。
 あの公園で出会ったすべての者たちが、かけがえのない友人であると思った。彼らが、目の前のこの男を連れてきてくれた気がした。
「なんならわたしが経理の担当をしてやろうか。営業も兼ねてやってもいい。どうせ暇だから。儲かりだしたら給料をもらうがな」
 政夫はくっくっと軽く笑う。冗談を言っているとも思えなかった。引きこもっていた頃の面影は、もうない。
「クラッシックカー関係の仕事なら紹介できるかもしれない。旧車クラブの連中で困っているやつはいくらでもいるから。腕のいいメカニックをみんな探してるんだよね。なんせ壊れるのが自虐的趣味の車遊びだもん。もうドMばっかり」
 マゾの真似をして身をくねらせる。
「ぜひ、お願いします」
 康夫より先に政夫が頭を下げた。
「明日から物件探しをしなくちゃな。今なら安く借りられるかもしれない。会社の不動産部にいる後輩にさっそくあたってみるよ」
「ガレージ・セリザワでどうかしら」
 キッチンで話を聞いていた京子が提案した。
「できたら横に小さな喫茶店をつくって欲しいな。車を眺めながら休憩できるようにね」
 田辺はもうすっかりその気だ。
「じゃあ、それはわたしがやろうかな」
 サイフォンを洗いながら京子が言う。
「やったあ、そしたらこのうまいコーヒーをいつでも飲める」
 子供のように目を輝かせながら、指をぱちんと鳴らした。
「ちょっと待ってよ。ほんとにいいの?」
 康夫だけが取り残されて少し焦った。しかしすぐに、本当にチャンスが与えられるのならやってみたいという気持ちが、むくむくと湧いてきた。
「いいとも、年が明けたら全員で準備を始めよう」
 政夫が掌をぽんとひとつ打って擦り合わせた。
 うまくいくだろうかという不安を、絶対にやってやるという意気込みが蹴散らした。これまでの投げやりな優柔不断さが自らを苦境に追い込み、ときには他人をひどく傷つけてきた。もうまっぴらごめんだと腹をくくった。
 すべてのことを仕切り直し、清新な覚悟でもう一度バッターボックスに立ちたかった。その打席で必ずクリーンヒットを打つのだと気持ちを奮い立たせる。と同時に、どうしてもやらなければならないことに想いを馳せた。
 なにがなんでも、もう一度柴田美智子を見つけ出す。この気持ちを真摯に伝えなければならない。
 彼女の認知症の老女を気遣う優しさや、柔らかに湿る真っ白い肌や、海風のにおいのする吐息を思い浮かべた。たった一夜を共にしただけだ。お互いのことを、まだ何も知らない。しかし、自分は彼女を愛していると確信した。
 自閉症の息子に母親が捧げる利他の愛情を思い出す。セックスだけを求め合う男女の渇愛を越えて、美智子を抱擁できる。どんな欠陥が彼女の体の一部にあろうとも妨げにはならない。康夫は今までにない高揚を覚え、一人胸を熱くするのだった。
「あれ、これって?」
 壁に立てかけた黒猫の絵を見つけて、田辺がふいに立ち上がった。床から取り上げ、離したり近づけたり真剣な顔で見入っている。
「ショウヘイ・ハルモト」
 ミミズのようにのたくるネームを読んだ。
「知ってます?アフリカのポップアートですって」
「神出鬼没の放浪画家として有名なんじゃないかな。謎に包まれた天才画家だって。都市伝説っていうの?幸運を呼ぶとネット上ですごい噂になってる」
 興奮して唾を飛ばす。
「絵は実際に流通していて、数が少ないから大変なプレミアが付いてるらしい。これ本物だったら、相当な値段で売れるかもしれない。なんならちょっとあたってみましょうか?」
 あからさまに自分が欲しそうな顔をして聞いた。胸にしっかりと絵を抱いている。
「いいえ、この絵は売りません!」
 三人が、ほぼ同時に口をそろえた。
 キャンパスの黒猫は枠からはみ出し、両手を広げて奔放に踊る。霜の降りた公園の芝生の上で、あるいは緑に照り輝くアフリカの草原で、舞台がどこであろうとかまわない。冷静に時を待つ胆力と、的確に物事を見切る知恵と経験を持ち、けして焦ったり腐ったりしない。常に新たな可能性を紡ぎ、命ある限り踊り続ける。
 当然それは容易な道ではない。ときには誇りをずたずたに傷つけられ、うんざりするほどの忍耐を強いられる。自らの未来に勝利する栄光は、あまりにも遠い。しかし、彼の魂は簡単にあきらめることを許容しない。希望のない人生に価値はないことを知っているから。
 どんなときも、その踊りは誰にも真似できぬほど力強い。独創的な動きで狂おしく身を捩り、渾身のステップを踏み続ける。その姿は見る者すべてを魅了する。
 康夫は絵の中の黒猫を眺めた。するとどこか遠くから、切なくなるほど長くかすれる甘えた鳴き声が聞こえてきた。    

                           〈了〉