カウンター
サブマリナーの慚愧

菊野  啓

山を穿つ真新しいトンネルを抜ける。すぐに施設の案内を見つけた。看板を脇道に逸れ、ゆるい坂を上った。よく整備された二車線のアスファルト道路だ。山の斜面を平らに切り取った広い敷地に、巨大なキノコのごとき建物が鎮座している。
 エントランスに車を停め、山野美香は受付で用件を伝えた。女性職員が内線で奥へ知らせてくれた。
「河野さん、もうすぐ準備整いますので、しばらくお待ちください」
 職員に礼を言い、介護用車両の後部から車椅子を下ろした。背もたれを動かして水平にもできる特別製だ。今回のクライアントは要介護度3で、一日のほとんどを寝て過ごしている。移動や宿泊の際にどれだけ座位の保持ができるか心配だった。念のため、これを用意することにした。
 大理石張りのロビーで待つ。ソファはしっとりとした上等の革張りでふかふかだ。山中に忽然と建つ老健施設の調度は、驚くほど贅沢だった。リゾートホテルでくつろいでいるみたいだ。空調も快適に作動し、蒸し暑い戸外の熱気から大勢の老人たちを守っていた。
 やがて白衣姿の看護師に車椅子を押され、浅黒い顔の老人が出てきた。痩せて背が高く、長い手足には骨が浮き出ている。量の多い白髪をきれいにオールバックに撫でつけていた。口をへの字に結んで、上目遣いにこちらを見据えてくる。にこりともしない。
「はじめまして、まごごろ旅工房の立花です。今回は初めての御依頼ありがとうございます。わたしたち二人で精一杯、旅の付き添いを務めさせていただきます」
 班長の立花薫が元気な声で満面の笑顔を振りまいた。太った体を丸めて頭を下げる。薫の陰に美香の体はすっぽりと隠れてしまう。横から顔だけひょこりと出して頭を下げた。
「わしが依頼したんじゃないよ。孫が勝手にな。結婚式にどうしても来てくれっていうもんだから」
 無愛想に言う。照れているのか本当に不機嫌なのかわからない。しわがれているが、よく響く声だった。
 河野忠志は艶のある白髪を手で梳いた。深く刻まれた皺だらけの顔の真ん中で、黒い両眼が輝いている。潤いを失っていない瞳は、そこだけ歳をとるのを拒んでいるかのようだった。
「承っております。お孫さんとはすでにメールで、綿密な打ち合わせをすませました。明日、式場でお会いできるのを心から楽しみにしておられるとのことです」
 薫が慣れた手付きで、忠志をリクライニング車椅子に移す。痩せこけた老人ひとり、軽々と持ち上げた。
「なんで今頃呼ばれるのかわけがわからんが。冥土のみやげに付き合うことにするさ。よろしくたのむよ」
 車椅子を押されてバンに乗り込む忠志は、かるく片手を振った。枯れ木みたいな左手の指が、あらぬ方向に折れ曲がっている。
「ところであんたたち、なんとかいう吉本の漫才コンビに似てるな。デブとガリのなんていったっけ」
 名前を思い出そうとするが出てこない。
「いくよくるよじゃないですか?」
 似てないよとムッとしたが、しかたなく美香は答えた。
「そう、それ。あんたたちも漫才ができるのかね?」
 できるわけないだろと思ったが、美香は苦笑いだけを返した。よせばいいのに薫はひょっとこ顔を真似して、突き出た腹をぽこんと叩いてみせた。くるよに思いっきり似ている。忠志は一目で総入れ歯だとわかる歯を剥いて、ひゃっひゃと笑った。
「わし漫才好きでなあ。こんな姥捨て山では、テレビで漫才見るのだけが楽しみなんよ」
 このじじいとこれから二泊三日の旅をする。広島から横浜まで往復の旅だ。こめかみのあたりがひくひくした。仕事なんだからと思い直し、美香はバンの後部に車椅子をさっさと固定した。
 忠志はタオルやら眼鏡だのを、ああしろこうしろと絡んでくる。無理をいう白髪の子供だった。人のいい薫はいちいち丁寧に聞いてやる。大きな体を縮めて汗だくになっていた。
 美香がNPO法人「まごころ旅工房」に就職して、早くも三ヶ月が経過していた。おもに体の不自由な高齢者や障害者の旅のサポートが業務だった。本人や家族のみでは困難な移動を、介護のプロが密着して手助けする。必要に応じて医者や看護師が付き添うこともできる。最近ネット上の口コミで、利用者の数は急増しつつあった。リピーターも後を絶たない。できるなら外出したいと思う老人が意外に多かったのだ。家族や社会に遠慮して、家で退屈を飼い殺しにしてきた。
 多いときでは週に二、三回依頼が入る。泊まりの旅が連続することもある。いくぶん慣れてはきたが、老人の世話に戸惑うことも多い。自分がこの仕事に向いているのか、美香には自信がなかった。
おまけに入社早々、配属された班では立花薫が上司だった。班といっても二人だけのユニットだ。薫は美香より三歳年上の当然独身である。頼りないうえに、眠りトウシローとあだ名が付いていた。朝は寝坊、車は居眠り運転、暇さえあればうたた寝、とにかく眠りたがる。よくこれで務まるものだと感心した。
 コンビの初仕事を思い出す。満開の桜を見たいという要介護老人からのオファーだった。近場の名所まで車で連れ出す計画だ。早朝、予定の時間になっても車の薫が迎えに来ない。焦って携帯にかけたがつながらない。何度もコールしたら、やっと出た。あきらかに寝惚けた声で「やだよお」と返事をする。半べそをかいている。
 呆れた。こっちも泣きたくなった。なだめすかし、どうにかおだてて出てこさせる。薫は一日中眠そうでまったくやる気を見せない。ひやひやしながら日帰りの旅を遂行した。老人は咲き誇る桜を堪能して満足してくれたが。美香は先行きの不安でいっぱいになった。
 昨年は百年に一度の金融危機とやらで、就職戦線は超氷河期だった。ここに潜り込めただけでもラッキーだと思うしかない。短期大学のゼミで、二級ヘルパーの資格を取っていたのが幸いした。薄給の募集にもかかわらず、応募者は二十倍を超えていた。はなから半分投げた面接で、近藤治という名の理事長が美香に質問した。
「老人の最大の関心事はなんだと思いますか?」
 耳が大きくて鷲鼻、深い二重瞼、狭い額には横皺を刻んでいる。ミスタービーンに似ていると思った。とぼけた雰囲気の男だった。
「死に場所を探すことです」
 しまったと思ったが遅い。もっとまともな答えがあるはずだった。家族の愛だとか、過去の栄光や思い出、やり残した夢への執着とか。いくつもあとで考えついた。近藤治は不意打ちを食ったビーンのように、ぐりぐりとドングリ眼を動かした。笑いもせず、ただ「とりあえず正解、では次の人」と言っただけだ。
 数日後に内定の通知がきたときには小躍りした。すっかりあきらめていた。即座に就職を決める。選択の余地はなかった。
 おいそれと辞めるわけにはいかない。次の職なんてみつかるわけがない。親元を離れてのひとり暮らしが不可能になる。これ以上両親から仕送りを求めるのは無理だ。もともと県外の大学に進学することには反対された。とりわけ母親が強硬に止めた。ある事件のあと、いまだに母娘は混迷の中を彷徨っている。
 自立することを目指して、逃げるように故郷をあとにした。自分りの決意を噛みしめての選択だった。美香はうしろで鼻歌を歌う気ままな老人を、大切なお客様だと思い込むことにした。
 黒縁眼鏡の看護師から忠志の服用薬を受け取り、細かい説明をメモした。手提げポーチがぱんぱんに膨れる量のクスリだ。毎食後必ず飲ませねばならない。これがけっこう厄介なのだ。
 予定の時間を少しオーバーして、依頼人を乗せたバンはのろのろと走り出した。班長が運転手も兼ねる。忠志はエアコンの効きが悪いとぶつぶつ言っている。うちわでぱたぱたと扇いでやった。
 まず向かった先は忠志の家だった。郊外の団地にある。五十坪ほどの敷地に、すすけた木造モルタルの二階建てが佇んでいる。門扉を開けて敷地に入ったとたん、ムッとする異臭が出迎えた。
「やっぱり家は人が住まないとダメになるなあ」
 玄関を開け、家の中に入る。奥から押し寄せてくるかび臭さに、忠志は顔をしかめた。施設に入居するまで、ここに一人暮らしていた。二年ほど前から空き家だという。
「誰かに貸せばいいんじゃが、荷物を移す場所も人手もなくてね」
 忠志が生活していた頃のまま、家は静かに呼吸をやめていた。降り積もる埃だけが、部屋の空気を支配している。車椅子のまま押し上げた。二本の轍と美香たち二人の足跡が、床にくっきりと残る。
「礼服を箪笥から取り出してくれるかな」
 立派な箪笥の中に、きちんと揃えられた礼服を見つけた。婚礼用のネクタイとベルト、ハンカチに靴下を紫色の風呂敷に包んだ。樟脳のにおいが鼻腔をくすぐる。
「さすが桐の箪笥はいい。虫なんて寄せ付けないね」
 六畳間を占拠する年代物の家具を自慢した。十年前に亡くなった連れ合いが、嫁入り道具で持参した逸品だという。分限者の娘だったと鼻の穴を膨らませた。
「女房はまだそこにいる。線香をあげてやってくれ」
 神棚ほどの小さな仏壇が床の間に隠れている。桐の箪笥とはまるで釣り合わない粗末な代物だった。
「まだ納骨してないんじゃ」
 白い布で包まれた木の箱が乗っている。仏壇に線香をあげ、手を合わせる。骨壺の中の干からびた遺骨が、たなびく線香の煙をそっと吸い込んだ気がした。
「わしだけがまだ生き残っている」
 鴨居にかかった額縁の写真を指差す。
「あれに搭乗してたんじゃよ」
 古ぼけた写真には、洋上に浮かぶ潜水艦が写っていた。黒い艦体の大きさははかり知れない。頭の尖った獰猛なサメに見える。
「上官にはよく殴られたもんだ。そいつらも戦友たちもほとんどはすでに土の下じゃ」
 忠志は潜水艦のクルーの中では若年兵だった。さんざんなめにあったと笑う。鍛錬の名の下に行われた暴力を喋り散らした。
「それはそれは」と薫がタイミングのずれた合いの手を入れた。
「戦闘で手を負傷して入院してたら戦争が終わってしまった。おかげで命拾いした」
 骨が変なふうに曲がった左手を見せる。
「こっちの傷は敵ではなく味方にやられたもんじゃがな。最後まで新兵のままだったから、恨みを十分に晴らせないままじゃ」
 額からこめかみを指先でなぞる。あきらかに皺とはちがう陥没が皮膚を伝う。上官から精神注入棒で殴られたという傷跡は浅くなかった。忠志の胸の奥底では、いまだになにかがほの暗く燃え続けている。蒸し暑い部屋の中なのに、美香は鳥肌だつ寒気を覚えた。息苦しさが、過呼吸の連鎖を呼ぶ。やばい。勤務中だぞ。止めなくちゃと焦った。激しい暴力にさらされた記憶が、美香の体を硬直させる。忘れ去りたい過去がどこまでも追いかけてくる。脇の下に嫌な汗が沁みだし、手のひらがじっとりと湿った。
 美香には恋人だった男から、容赦ない殴打を受けた経験があった。出会い系サイトで知り合い、数ヶ月付き合っただけの男だった。別れ話を切り出したとたん態度を豹変させたのだ。
 なにが起こったのかわからなかった。顔面に振る相手の拳が、自分の血で濡れて滑るのを感じていた。顔の肉をこねあげたミンチにされた。ぬるぬるする生臭い血を被る。前歯を失い鼻骨と頬骨を骨折していた。長い入院生活を送った。見た目が元通りにはなるのに何ヶ月もかかった。退院後しばらくは外出もする気にならなかった。
 忌まわしい事件の爪痕は、肉体が回復した後も心的外傷として残った。ふとしたきっかけで、一時的なパニック障害に陥いる。いまも忠志がちらつかせた暴力の気配に過敏に反応したのだった。
「軍隊では心身共に鍛えられたよ。おかげで戦後の混乱を生き抜くことができた」
 サッシの窓から小さな庭を眺めて遠い目をしている。手入れのされない庭木は伸び放題だ。柿の木はたち枯れていた。
 忠志が突然、叫んだ。
「ここはおまえの家じゃないぞ」
 折れた鉛筆みたいな指で、庭の隅を指差す。
 鉢割れ柄の大きな黒猫がのそりと現れた。左右対称のきれいな柄で、白いソックスを履いている。ふた抱えもありそうだ。ふてぶてしい面構えをしていた。黒猫はちらりとこちらを見たが怖れもしない。雑草の生い茂る灯籠の下に座り、平気で排便をはじめた。異臭の原因がわかった。庭は猫のトイレと化していた。
「わしが住んでいる頃から、我がもの顔にやってきてた。あれを追い払おうと転んで骨折したのが悪かった。以来自分では歩けなくなったんじゃ」
 悔しそうに歯がみする。入れ歯がカチカチいうだけだった。
「あんなにでかくなりやがって。千載一遇じゃ」
 固い物を探せと指図する。一撃を食らわせるのだと息巻いた。すっかり目の色を変えている。
 錆の浮いた乾電池を見つけて手渡した。窓を開けたと同時に勢い込んで投げつける。あさっての方向に飛んでいった。
 でっぷりと太った黒猫は見向きもしない。これみよがしに排便を続けた。神妙な顔つきできばっている。大量に産み落とした湯気のたつ黄金に、後ろ足で砂をかけた。
「ちきしょー」
 忠志は萎えた足で地団駄を踏んだ。
 くああ、と黒猫は上顎の裏を見せてあくびした。耳まで裂けた嘲笑だった。やがて平然と目の前を横切り、垣根から姿を消した。
「保健所に電話しろ。とっとと駆除せんかとな」
 怒り醒めやらぬまま薫に命令する。忠志は真っ直ぐだ。自分の中に矛盾はない。どんな生き方をしてきたのか、聞かないでもわかる。他人に対して自らの存在を押しつけ続けてきたのだ。寛容、遠慮、躊躇など、彼の辞書にそういう言葉はあっても微妙に意味が異なる。美香はそんな人間のにおいを嗅ぎ分けられるようになっていた。当然、無意識のうちに避けている。
「そろそろ飛行機の時間がありますので」
 終業のベルみたいに薫が言った。美香は波打つ心をなんとか鎮めた。礼服を包んだ風呂敷をボストンバッグに仕舞い込む。
「ひとつよろしく頼むよ」
 意外に殊勝な顔で忠志はぺこりと頭を下げた。


 搭乗手続きを済ませ、旅客機に乗り込んだ。航空会社とは事前に手はずを確認してあった。おかげで他の乗客に迷惑をかけることもなかった。忠志の両隣に座る。公共の交通機関の利用をできるだけ短時間ですませるために、列車より空路を選んだ。それでも一時間以上耐えねばならない。
「ビールを飲みたい」
 ひさしぶりの飛行機に子供のようにはしゃいでいる。
「ありません。国内線ですから」
 美香はきっぱりと言った。このクライアントに対する接し方を考えたほうがいい。薫みたいに低姿勢なやり方では、そのうち困ったことがおきそうだ。
 離陸してしばらくすると、忠志の姿勢が揺らぎはじめた。上体が前に倒れて自力では維持できない。しかたなく美香たちが両脇から、肩と額を支えることにした。座高のある忠志の頭を、ヘッドレストに押しつけておかねばならない。まるでバレーのトスみたいに両手が伸び切る姿勢になった。狭い機内で骨の折れる仕事だった。
「眠っちゃってるよ、この人」
 忠志はすうすうと寝息をたてていた。薫と顔を見合わせる。うるさい爺も寝るとかわいいものだ。しばらくすると、薫も夢の中に吸い込まれていった。額を押さえる姿勢を放棄して、くううと寝ている。美香は一人で奮闘せねばならなかった。
 やっとの思いで空港に降り立った。レンタルを手配済みだった介護用のバンと特製の車椅子を駐車場で受け取る。薫が運転して、慣れない道を横浜に向かった。ホテルに到着したときには、すっかり日が暮れていた。明日の結婚式会場までは、車で三十分ほどだ。飛行機さえ乗り切ればあとはどうにかなるだろう。
 忠志を部屋に入れたら、どっと疲れが押し寄せてきた。自分たちのツインルームで一息入れた。
 休む間もなく、すぐさま内線が鳴る。忠志からだ。
「晩飯はウナギがいい。ついでにビールと清酒もじゃ。施設では禁止じゃからな。こんなときにこそよ」
 さっそく予定外の要求を投げつけてきた。
 ホテルには車椅子のまま食事をとれる場所と特別なメニューまで準備させていた。さらに無理を言うのは気が引けたが、やむおえずフロントにウナギを問い合わせる。ややぞんざいな口調で勝手に出前でも取ってくれと断られた。
「そんなもの食べさせて大丈夫かなあ?」
 美香は看護師に携帯電話をかけて確かめた。食べ過ぎなければ平気だという。酒もほどほどなら問題ない。状況を察した黒縁眼鏡の看護師が、受話器の向こうで笑いをこらえている。
 特上のうな重が一人前テーブルに置かれた。薫の介助で山椒を振った蒲焼きを頬張る。親鳥から餌を貰う雛に似ていた。
 忠志の食欲は旺盛だった。赤い粘膜の翻る口腔へ、スプーンの先からずるずると食い物を送り込む。総入れ歯を駆使して咀嚼する。食道から胃へと絶え間なく食塊が燕下されていく。のたうつ消化管の潤滑油として酒を飲む。忠志の強靱な生命が、そこにある。老いさらばえようと、体を生かす本能はいささかも衰えていない。あさましさを超越している。美香は自分が空腹であることも忘れて、忠志の食事を眺めていた。
 食後、常用の薬を大量に飲ませようとしたが、まだ酒が終わらない。忠志のかわりに、薫が白い錠剤をコップの水で飲み下した。慢性胃炎でも起こしているのか、薫はしょっちゅう薬を服用している。大食らいを少しはどうにかすればいいのにと思う。先輩に面と向かっては言えない。
 忠志は満足そうに湯飲みで日本酒をあおっていた。そこへフロントマンが来客を知らせてきた。再び想定外の出来事にたじろいだ。
「ああそうだ、知り合いを呼んでいたんじゃ」
 口を拭い、整髪料のかおるオールバックを撫でつけた。やたらテカっている。部屋で十分に櫛を入れてきたのだろう。女性の来客だと知れた。しぼんだ老人の風情を、すっかりどこかへ仕舞い込んでいる。さっそくウナギの効果なのかもしれない。
 ロビーに下りる。小柄な老婦人がソファから立ち上がって頭を下げた。清楚ないでたちで微笑んでいる。忠志は気安げに片手を上げた。彼女は消え入りそうな声で無沙汰を詫び、車椅子に寄り添った。エラの張った顎と突き出た前歯が正確な年齢をわからなくしている。絶妙なバランスの顔立ちだった。たぶんかつては美人で通ったのだろう。髪の毛はやや薄くなっている。きれいなグレーだった。
 だみ声の「放埒」と、ためらい声の「遠慮会釈」が会話をはじめた。久方ぶりの再会が終わるのを待つしかなかった。美香たちは狭いロビーのできるだけ離れたソファに腰掛けた。
 二人に背を向けると、薫はすぐさま居眠りをはじめた。美香も一日の疲れにぼんやりしていた。耳をそばだてるまでもなく、こまぎれの話が聞こえてくる。しだいに忠志の声は熱を帯びていく。
「娘の」という言葉が繰り返された。しわがれ声が空気をびびらせる。しまいに怒鳴り声となって高い天井に跳ね返った。幸いロビーには誰もいない。フロントは気付かないふりをしている。忠志の怒声がますます音量を増していく。話の内容はうかがい知れない。
「酔ってるんじゃないの?」
 美香は不安を感じはじめた。眠りトウシローがもにゃもにゃと返事をする。
 手を枯れ木の鞭にして、忠志は相手の頬を張ろうとしている。届くわけがない。老婦人は瀬戸物の置物みたいに固まっていた。
「なにを怒ってるんだろう」
 酒を飲ませたことを後悔した。班長をつついて起こした。
「興奮しちゃって大丈夫かしら?」
 激昂している。老女を一方的に叱咤していた。
「そんなことだからいいようにされるんじゃ」
 忠志の罵声が矢となって飛んできて、美香の鼓膜に刺さった。老女はぺこぺこと頭を下げた。一心に謝罪している。
「かってにすりゃええ」
 吐き捨てた。米つきバッタさながらの老女に、頭から冷えた味噌汁をぶっかけるがごときだった。憤怒の風船を膨らませ、勝手に裂けて一気に爆ぜ散った。沸騰した怒りの微粒子は、空気に混ざって冷やされる。白けきった霜となり、取り繕いようもなく床に降り積もった。待ち望んだ邂逅の無惨な幕引きとするしかない。
 やがて老女はしおしおと去っていった。何度も振り向き、お辞儀を繰り返す。その表情は読み取れなかった。
 車椅子を部屋に戻そうとすると、もっと酒を飲みたいと言い出した。暗い光をたたえる両の眼が、逆らう気力を失わせる。
 すっかり片付けの終わった食堂に戻った。露骨に嫌そうな顔をする厨房の中年女を、忠志はぐいと睨み付ける。女は下を向き、黙ってカップ酒をカウンターに置いた。
「昔、命を救ってやった戦友の女房じゃよ」
 冷や酒をすすりながら、忠志は昔話をはじめた。美香たちは向かいの椅子に腰掛けて、長い話を聞かせていただく。クライアントの満足第一、これがNPO法人「まごころ旅工房」の基本理念だ。
「わしらは二人とも潜水艦乗りじゃったが、航行中に敵の魚雷に狙われて沈められそうになった。まったくの不意打ちじゃった。数人が命を落としたよ。そのときに両足を負傷した長岡洋三という初年兵を助けてやったんじゃ」
 ちびちびと酒を舐め、ときおり周囲を睥睨する。酒が入ってさらに男の猛々しさが表面に顕れていた。
「ほどなくわしも手をやられて、療養中に終戦となった。戦争が終わって日本に帰ってきたら、わしの家族は誰ひとり生きておらなんだ。まったくの天涯孤独の身じゃった。それで両足が不自由になった長岡を助けて、東京に移り住んだ」
 ぬるい酒をちょびりとやる。
「長岡の両親も亡くなっていたが、一人息子のやつには土地が残されておった。わしが苦労して、闇屋のテントを追い払いヤクザと話をつけてやった。その上にバラックを建てて、ふたりで事業を興すことにしたんじゃ。焼け野原を這いずりまわり、金になりそうな仕事を探したよ」
 さっきの老女は恵子という名で、その戦友の妻だという。
「自転車のチューブ貼りからはじめて、機械関係の修理をなんでも引き受けた。わしは機関士としてメカには強かったからな。足の動かない長岡が、その他の仕事を全部やった。やがて中古車を扱うようになって会社は急に大きくなった。いくらでも車が必要な時代がやってきた。時流を読んだんじゃな。どんどん売りさばいて儲けたよ。車の商売でひと山当てたんじゃ」
 自慢げに顎を上向かせる。刻まれた皺に往年の活力がもどる。
「事業が絶頂にあったとき、長岡とのつまらない諍いで会社を追われることになった。ほとんどわしが築いたようなもんじゃったが、経理にたけた長岡は巧妙じゃった。会社はやつのものになったよ。仕方なしにわしは郷里の広島に帰ることにした。そこで新しい会社をつくって、一からやり直したんじゃ。当然成功をおさめたがな」
 唇をもごもごやりながら、赤ら顔をさらに輝かせる。
「長岡は十年前に病気で亡くなったそうじゃ。ろくな死に方じゃなかったらしいや」
 ざまあみろといわんばかりに哄笑する。遠い昔の確執が透けて見えた。
「思えばわしの女房も同じ頃に癌で逝ってしまいよった。長岡が連れて行ったのかもしれんな。わしを憎んでいたからな」
 忌々しそうに舌打ちする。
「知らせてもこなかったから葬式にも出ていない。風の便りで最近知ったんじゃ。この機会にと思って、恵子には先週連絡した」
 何を期待して呼んだのかしれない。
「長岡が死んでから、やつの会社、いやわしが作った会社は恵子が細腕ひとつで経営していたらしい。どうにも経営が立ちゆかなくなって、数年前に閉めたそうだ」
 わしに頼めばいいのにと無念がった。もったいないと欲の皮を突っ張らせる。いまでも自分の会社みたいな口ぶりだ。それを潰されて怒ったのだ。
「やっぱり女じゃダメだ。クソ袋ほどの役にもたたん」
 女という生き物をどう解釈しているのか。美香は自己防衛本能の待ち受けスイッチをオンにした。
「恵子も先週、子宮癌を告知されたんだと。女房とまったくおんなじ病気だ。もうじき入院するってな。罰が当たったんじゃろう」
 病気までが老女のせいだと責めている。あるいは予期せぬ告白に狼狽したとでもいうのか。どちらにしても神経を疑う。思いやりという言葉に無縁すぎる。
「手術をするけど、もう二度とよくなる気はしない。だから今生のお別れに参りましたとぬかしおった」
 老人二人が覗き込む棺の中には、いったい何が横たわるのか。美香には推し量る術もない。かつての戦友の妻を恵子と呼び捨てる。不自然さはないほど親密だったのだろう。
「けっきょく、わしひとりが生き残る」
 恨みがましく聞こえた。周囲の者すべてに腹を立てている。
「娘さんやお孫さんがいらっしゃるじゃないですか。明日お会いできるでしょう」
 聞き役に徹していた薫が横から口をはさんだ。
「娘とは、とうに縁を切ったつもりじゃった。孫とも女房が死んだときに一度会ったきりじゃ。葬式に娘が連れてきたときはニキビ面の高校生くらいだったか、ろくに口をきいたこともないよ。それが急に結婚式に出てくれとは、理由がわからんね」
 怪訝そうに首を横に振る。
「そのお孫さんのたっての望みで、当社に依頼があったんですよ。くれぐれも無事に連れてきて欲しいって」
 忠志の心に家族の情はこびりついてもいないのだろうか。
「わからんわい」
 迷惑そうに突き放す。ひび割れた泥の仮面を溶かすのは容易でない。しかし居丈高な言葉を放つ口の端に、隠しきれない期待が浮かんでいる。渋々来たとは言わせない。翌日の結婚式に、美香は強い興味を抱いた。
 忠志の昔日の姿を想像してみる。鋼のような肉体と、獰猛な意志を持つ。血気盛んな逞しい男の背中が浮かんだ。女にとって不可欠の包容力だって発揮したに違いない。惚れる女がいたっておかしくない。年老いたとはいえ精悍な横顔は、頼れる大黒柱を彷彿させる。
 美香は父性に惹かれる自らの性質を握りしめる。それによってとんでもないことになったのだ。その後遺症から抜け出せていない。ストーカーから狂える猛獣と化したあの男と、目の前の老人のイメージを重ねる。怖気が体の奥底でざわめき、パニック障害が顔を出しそうな予感におののいた。
 どのようなリハビリを受けたらよいのか、途方に暮れる。一人の女性として飛び立つためには、なにを変えればいいのだろう。傷ついた羽根を癒すきっかけを、美香はただひたすら待ち望んでいた。


 翌朝、五時起きした美香たちは苦労して忠志に礼服を着せた。痩せているとはいえ、動かない体に洋服を被せるのは骨の折れる作業だ。技術と慣れが必要だった。
 介護用のバンに車椅子ごと乗せ、海沿いの結婚式会場へ向かう。港に停泊する大きな客船やタンカーが見えた。忠志の望みで窓を大きく開け放つ。生ぬるい潮風に海のにおいが紛れている。
 有名な海浜公園が目の前だ。そこには巨大な潜水艦が飾られていた。もちろん本物ではない。まるごと黄色い派手なペンキで塗られている。子供が無数の丸窓から顔を出すリアルな遊具だった。潜水艦乗りだったという忠志の眼にはどう映っているのだろう。戦後の平和と繁栄の闇雲な主張とでもいうか。戦争経験のない美香にはわからなかった。
 瀟洒な白い外壁の建物が見えてきた。デザイナーの手によるお洒落な外観だった。予定どおりに到着した。
 梅雨時には珍しい爽やかな青空が広がっている。参列する老若男女が、三々五々集まってきた。小さなチャペルで、外国人の神父を迎えての結婚式が始まった。車椅子を最後部に配置する。美香たちは壁際の丸椅子に座った。新郎新婦を眺めることができるように、できるだけ背もたれを起こしてやる。酒の入った昨夜とはうってかわり、忠志は神妙な顔で寡黙を貫いていた。
 若い二人が宣誓を交わして、指輪の交換をする。眩しさに眼を細める自分に、美香は少しだけ同情した。
 新郎の杉田宏典の容貌は少し変わっていた。透き通るように白い肌とブロンドに近い髪の毛、青みがかった眼は日本人離れしている。そのくせエラの張った顎角に、薄い口唇とちょっと突き出た前歯は東洋人の特徴だ。まるで色だけハイカラな和風の家みたいだった。
 宏典の両親とおぼしき男女が、列の後部に並んで座っていた。母親らしい女性と、髪と肌の色をのぞいて輪郭はそっくりだ。どこかで見たような顔だと思った。父親にちがいない男性とはまるで似ていない。
 ほのぼのとセレモニーが進行していった。賛美歌が終わると、隣のホールで披露宴となる。会場を移り際、忠志の娘、新郎の母親の女性がかるく会釈して通り過ぎた。久々の父娘の再会にしては、やや他人行儀すぎた。忠志は能面のような無表情を装っている。
 旅の添乗員には、家族間の軋轢や苦悩を目にする機会がたびたびある。控えめな黒子に徹するのが原則だ。よけいな詮索やお節介は厳に慎まねばならない。
 フレンチのフルコースが振る舞われた。丹念に創作された料理が次々に運ばれてくる。老人にはいかがなものかとためらいながら、美香が介助した。薫は駐車場のバンで待機する。サウナと化した車内で、気持ち良くイビキをかいているはずだ。
 忠志は昨夜と同じく、獰猛な食欲を発揮した。濃厚すぎるフォアグラを一口に頬張る。吸い飲みからお茶を飲むのと同じ口つきで、ビールやワインをすすり込んだ。口を動かし、食べることに専念していた。見知らぬ人間のスピーチなど聞く耳を持たない。摂食、咀嚼、燕下を繰り返す。部屋の最後部で目立つことはなかった。
 結婚式のハイライトが訪れるまで、忠志はシェフの腕前を堪能し続けた。皿が尽きたら、疲れたと背もたれを倒させた。横になって眼を閉じる。食うためだけに遠路はるばるやって来た。
 フロアのあかりが落ち、いっきにざわめきが収束してクライマックスとなった。美しいドレス姿の新婦を脇に、杉田宏典がマイクを取った。両親にお礼を申し述べるという趣向だ。美香は晴れがましい場面を、なぜか自分が照れながら見守った。
「僕は心から両親に感謝しています」
 やや緊張した前振りで、宏典のスピーチは始まった。柔肌露わな花嫁は半歩下がってうつむいている。
「母は苦労して僕を育ててくれました。父と出会うまでの数年は本当に大変だったと聞いています」
 泣いてはいないが、少し声がかすれている。
「いろんな事情があったのです。そんな母を助けて父は家族になってくれました。自動車整備工場で朝から晩まで汗とオイルにまみれて、血の繋がりのない僕を育ててくれたのです。おかげで僕は今日を迎えることができました。いつも一緒に寄り添い支え合うのが家族だと、父から教わったのです」
 バーコード状態に頭の禿げた父親は、感極まった顔でフリーズしている。彼と宏典が似ていない理由は、再婚相手の連れ子だったからだと納得した。
 杉田宏典は同じ境遇の者だったのだ。美香も母親の連れ子だった。自分が結婚するとき、あんなふうに義理の父親に感謝できるだろうか。美香は心の中で激しく首を振った。
 家族間の美しく甘ったるいエピソードがいくつか紹介される。やっとスピーチが終焉を迎えたとき、スポットライトが動いた。
「今日はうれしいサプライズもありました。遠路はるばる祖父の河野忠志さんがお祝いにきてくださったのです」
 忠志の姿が浮き彫りにされる。車椅子の背もたれをめいっぱい倒し、ほぼ上を向いて眠っているはずだった。
「大戦では潜水艦乗りとして祖国を守り、激動の戦後を生き抜いてこられました。混乱の中で母を育ててくださった。今日は本当にどうもありがとうございました」
 なにが起こったのか、美香はとっさに理解できなかった。光りの中の忠志は、大きなゆりかごの中で眠る醜怪な赤ん坊みたいだった。 老人が突如ぱっちりと目を開けた。
「おめでとう!」
 しわがれた肉声が会場に響き渡った。
「ありがとう!」
 天井に向かって、忠志が腹の底から吼えたのだ。マイクを介する必要などない号砲みたいな声だった。
 ぱらぱらと沸きはじめた拍手は、やがて万雷となってウェーブする。参列者の心が温かいもので満たされた。美香も長らく電話もしていない故郷の母親を想った。ハッピーエンドの演劇を見たような余韻を残して結婚式は終わった。
 ホテルへの帰り道、忠志が得意そうに口を開いた。してやったりという顔をしている。
「孫の父親はアメリカ人なんじゃよ」
 柴田宏典の肌と髪の毛の色は、父親譲りのものだった。
「娘の敏江が二十歳になったばかりの頃じゃった。岩国に駐留していた海兵隊の男と一緒になりたいと言い出しおった。本当に驚いた。すでに腹の中に子がいるというじゃないか。よりによって、わしたちが命をかけて戦った敵がお相手とはね」
 忠志はいまいましそうに喋る。ハンドルを握る薫が、ときどき振り返って相槌を打った。
「あんなに腹が立ったことはなかった。わしもまだ若かったしな」
 吐く息には酒の臭いが混じっている。血管の中を巡るアルコールが、ある種の回路を起動する気配がした。
「ある晩、家を抜け出して男のもとへ走ろうとする娘を殴ったんじゃ。たまたまなにかの会合でしこたま飲んできた晩だったな。酔っていてわけがわからなくなった。止めに入った女房とふたつに重ねて、ボロぞうきんのようにしてしまった。酔うと気が荒くなるたちでな」
 悪びれもしない。
「そんなときはいつも、潜水艦に乗ってた頃に上官に殴られたことを思い出すんじゃ。無慈悲な悪鬼の形相をな。それが乗り移って、腕が勝手に動きだす。自分の力じゃ止められなくなる。相手を痛めつけずにはいられなくなるんじゃよ」
 他人事のように言う。遠い思い出話には聞こえなかった。
「たいへんですねえ」
 薫が相当にずれる。助手席の美香は、耳だけ向けて聞いていないふりをした。忠志の手前勝手な言い分に辟易とする。
「娘は海兵隊の若造が本国に帰るのに、親を捨ててさっさと付いていきおった。向こうで結婚してすぐに子が生まれた。それがさっきの混血児じゃよ。でも生活はうまくいかなかったらしい。間もなく離婚しおった。赤子を連れて日本に帰ってきたが、家には戻らなかったな。わしが怖かったんじゃろう。誰かのつてがあったのか、この横浜に住み着きおった。子供を育てながら再婚するまで苦労したようだ」
 腐臭のする溜息を放つ。敵国に嫁に行き、敵の兵士の子を産んだ娘を許していない。相当に執念深い。忠志の戦争は終わっていなかった。
「ずっと音信不通じゃった。女房が死んだとき、一度だけ葬式に孫を連れてきたがそれっきりじゃ。娘はまだわしを恨んでいる」
 美香は杉田敏江のさめた態度を思い出した。息子の結婚式に訪れた実の父親に、彼女が話しかけることは一度もなかった。
「孫がなぜわざわざわしを呼んだのかわからんが、いい冥土の土産になったよ。昨夜は戦友の女房にも会えたしな」
 その戦友の女房にも、酒を飲んで乱暴な言葉を投げつけていた。外面はよくても、自分の支配下にある者にはめっぽう厳しい。そういう男なのだ。出奔したまま二度と帰らない敏江の気持ちがわかる気がした。家族や恋人に向けられる凶暴さとは、人の心のいったいどこから生まれるのだろう。美香に暴力を振るった元交際相手の男も、あの時酒を飲んでいた。残虐性を惹起する血中のホルモンが、酒によって倍加するのだろうか。
 美香は斉藤渉の神経質そうな眼差しを思い出す。県庁の臨時職員をしている男だった。十歳も年上で、最初は細かい心配りのできる優しい大人に思えた。出会い系サイトで知り合い、暇つぶしに会ってみた。落ち着いた態度で美香の話を聞いてくれる。長身で、彫りの深い顔をしていた。量の多い頭髪にはすでに白いものが混じりはじめている。
 何度か会って食事をした。連れて行かれるレストランも、ファミレスではなかった。それまでに付き合った同世代の男子にはない刺激と安堵を覚えた。背伸びしているうちに、いつのまにか好きになっていた。迂闊にも、そう勘違いした。出会い系サイトで拾った素性不明の男だったのに、いつになく油断した。県庁に勤めている事実に安心してしまった。
 渉のみせかけの父性に憧れたのだ、と今になって思う。美香の実の父親は、小学三年の時に交通事故で亡くなった。ひき逃げだったために、十分な補償も受けられなかった。母親はのし紙の卸問屋の事務をしながら、美香を育ててくれた。母子家庭で貧しかったが、美香にはなんの不足もなかった。
 中学一年生になったとき、母親は同窓会で再会したかつての同級生と再婚した。新しい父親となった男は、山野公平といった。ネジを作る会社に勤める陰気な男だった。中学生の時、母に憧れていたのだという。四十歳を過ぎてまだ独身でいた。理由は知らない。
 名字が山野になり、三人家族となった。ひとつ屋根の下で暮らしはじめた。まもなく義父である山野公平に違和感を感じ始めた。ときおり美香を盗み見ている。娘を見る眼ではなかった。入浴しているとわかっているのに洗面所に立つ。下着に触れた痕跡がある。まさか中学時代の母と錯覚しているのじゃないか。とても母親には告げられなかった。
 義父から庇護を与えられるどころか、危機感を抱くようになった。部屋のドアにはいつも鍵をかけた。母親の鈍感さに腹が立ったが、はっきりと証拠を示せるわけではなかった。
 元来父親から得るべき安堵に触れたことがない。そんな得体の知れないものに飢えていたのだ。美香は斉藤渉に、歳上の男の尊大ではない威厳を期待していた。しかし、交際し始めてすぐに渉の本質を喝破した。鷹揚に見えたのは、見事な芝居だった。生真面目すぎる気の弱い男だった。小さなことにいつまでも拘泥した。あまりに細かく、お為ごかしの世話を焼く。うっとうしがると怒った。優しさに見えた関心が、じつは自己愛だと透けて見えた。酒を飲むとさらに馬脚をあらわした。
 渉とは二度ほど肉体関係を持った。初めての男性ではなかったし、セックスの相性がいい気もしなかった。美香はこれ以上関係を続けていく気持ちを急速に失っていった。大学受験で忙しくなることを口実に、とうぶん会えないことを伝えた。
 渉の態度が急変した。ストーカーまがいの行為に出る。身の危険を感じた。警察に相談したが、なにもしてもらえなかった。怯えているうちに、激しい暴行を受けるはめになったのだ。
 国立大学を狙えるほどの成績だったが、受験どころではなくなった。事件になってやっと警察は重い腰を上げる。地方新聞の片隅に取り上げられもした。騒々しい日々が続いた。周囲から浴びせられる好奇の目は、ますます美香を落ち込ませた。
 しかし数ヶ月の後には、事件はあっさりと風化していた。誰も興味を失っている。母親さえもが、早く忘れろと言う。義父の山野公平の視線は、あい変わらず粘っこかった。
 どこにも自分の居場所はない。そう思い詰め、ますます滅入った。卒業が迫り、美香は家を出る決心をした。県外の短期大学を選び、逃れるように故郷をあとにした。残りの人生を棒に振りたくはない。潜在意識に刻まれた爪痕を、なんとか克服せねばと焦った。
 隠れ蓑にくるまって密かに息をするような学生生活を送った。二年後に卒業して、その街で就職した。独り立ちの門出だったが祝う気分には遠かった。いまだに恋人はおろか男友達ひとりいない。老人たちの旅をサポートする仕事は多忙を極めている。異性と出会う機会などあるわけない、と自分に言い訳してみても虚しい。
 時の経過が暴力の生々しさを洗い、今は表面上の平安を取り戻している。しかし、二週間ほど前から美香の携帯に不審なメールが届くようになっていた。
〈・・・〉〈・・・〉〈・・・〉
 無言電話のつもりなのか。三通ともちがう送信者だった。間違いメールのはずがない。どうやって番号を調べたのかわからないが、心当たりはひとつしかなかった。渉は美香への暴行傷害事件が元で職を追われている。その後ぷっつりと姿を消していた。しかし何年もの時間がたった今、、携帯の画面は闇から見つめる支配者の警告を再び伝えてきた。
「わしは娘を大切に育てたつもりじゃ。それが一人で大きくなったような顔をしている」
 唐突に声が大きくなる。忠志は押しつけがましく言った。
「娘から大事にされないのは悲しいもんじゃ」
言いたいことだけ喋り、車椅子の上で寝息をたてはじめた。この老人の空気が美香を震え上がらせる。何年たとうと執念深く生き続ける悪意を感じた。斉藤渉と同じ、特定の他人が自分の思い通りにならなければ逆上して傷つける。そうせずにはおさまらない。虐げられる側の人間は、彼らによって巧妙に選択される。飲み込める獲物であるかどうか見極めてから襲う蛇の狡猾さだ。狙われた獲物は、ただ隠れたり逃げたりするしかない。世の中にはそんな関係は数え切れないほどある。事件として日々のテレビニュースに現れるものは、ごく一部に過ぎない。
 美香はこの世を覆う人間同士の不毛な軋轢にうんざりする。まだ人生を投げ出す気にはなれない自分がそこにいる。だから未来を切り開くための試練の中にある。逡巡するばかりで、まだなにも解決できていなかった。


 杉田敏江がホテルに忠志を訪ねてきたのは、その夜午後八時をまわった頃だった。
 結婚式のあと、忠志は少し疲れたのか部屋で一時間ほど眠った。眠りから覚めたら、レストランでまたビールを飲んだ。用意された専用の夕食を、食欲がないとほとんど口にしなかった。フレンチのフルコースはさすがにこたえたらしい。
 ちびちび酒を飲ませているところへ、フロントから敏江の来訪が伝えられる。忠志が目を輝かせたのを、美香は見逃さなかった。
 昨夜と同じロビーに下りた。二人の男女がまたもや話し込む。離れたソファで、薫と暇を潰した。
 昨夜と同一の女性が若づくりしてきたみたいだった。背格好だけでなく顔つきまで似ている。妙な既視感にとらわれた。誰に似ているのかやっと思い出した。
 そっくりな状況は、やっぱり同じ展開となる。三十分もしないうちに忠志の声が大きく裏返りはじめた。
「だから何度も言うが、わしがまちがったことをするはずがない」
 怒髪天を突き始めた。澱んだロビーの空気を震わせる。
「今さら鼻の下伸ばして来おって。財産はびた一文、おまえなんぞにはやらん」
 耳を聾する罵声が跳ね返り、次第に収拾がつかなくなった。敏江は車椅子の傍らで右往左往している。周囲をきょろきょろ見回し、困り果てていた。助け船を出すために、薫がのそのそと立ち上がった。荒い息を吹き上げ、忠志は怒っている。
「もういい。上にやってくれ」
 車椅子を押すよう薫に命じた。美香に目配せして薫はエレベーターホールに向かう。静けさを取り戻したリノリウムの床には、杉田敏江のやり場のない戸惑いと諦めが落ちていた。
「いつもああなのよ、あのひとはね」
 お父さんとは呼ばない。
「話したいことがいっぱいあったのに、みんな吹っ飛んでしまったわ。こうなる予感がしてたけど」
 恥ずかしそうに左薬指の結婚指輪を弄る。無骨に大きい銀のリングは、彼女の夫である杉田久の不器用さを連想させた。結婚式ではひと言も喋らず赤い顔をして終始緊張していた。金持ちでなくとも、実直そうな人物だった。自動車整備工場を小さいながら地道に経営している。
 今日結婚した息子は国立大学を出て、横浜ゴム工業という一流企業に勤めていた。燃費と静粛性に優れるタイヤを開発しているそうだ。偶然の賜物か、この家系の誰もが自動車産業に関わっている。陸に上がった潜水艦が車に化けたのかもしれない。
「はああ、たまらない」
 敏江は肺が潰れるほど深い嘆息をした。ソファに尻餅をつき、しぼんだ顔を両手で覆う。結婚式の疲れが、どっと噴出したようだ。
「今日は素敵な結婚式でしたね。見せていただいて感激しました」
 美香は素直な感想を述べた。
「ああ、厄介な仕事を引き受けてくださってありがとう。本当は私たちがやらなきゃいけないのに」
 肩を落として礼を言う。
「それが当社の業務ですから」
 手のかかる老人の依頼が殺到しているのです、と言いかけた。
「いろんな職業が生まれてくるものね。いいことだわよ、きっと」
 好意的な笑顔をくれる。エラの張った顎の形、すこし唇から出た前歯が昨夜見た老女と生き写しだった。髪の毛だけグレーより少し黒が多い。
「忠志さんはなにを怒ってたんですか?」
 美香は敏江の前に座った。なんとなく好感を抱いている。
「私を産んでくれた女性のことを、あのひとと最後にきちんと話しておきたかった。私にはもうすっかりわかっている。だけど本人の口から聞きたかったのよ。水を向けてみたけど、あいかわらずなにも語ろうとしない。逃げてしまって、しまいには怒り出す。卑怯を通り越して愚かだわね」
 ちょっと待って、と敏江は席を立つ。自動販売機で緑茶のペットボトルを二本買ってきた。
「いただきます」
目の前に置かれたお茶に手を伸ばす。ひどく喉が渇いていた。
「その女性を昨夜見たかも知れません」
 確信を持って切り出した。
「あらそう。東京から訪ねてきたのね。あの人が連絡してたんでしょう。でもどうしてわかったの?」
 不思議そうに美香を見る。
「似てます。誰が見てもまちがえようがないほど」
 三代にわたって遺伝したのだ。長岡恵子は杉田宏典の祖母である。
「顔が?」
「ええ、声や背丈もまったく。でも、話し方は全然違ってました」
 昨夜の老女は、けっして忠志に逆らったりはしなかった。
「従順だったのね。私とはちがって」
 おかしそうに敏江はペットボトルをあおった。
「十年前に病気で亡くなったお母さんも下僕みたいだった。昔の女性がみなそうだったわけじゃないんだろうけど」
 忠志の妻、敏江の育ての母の話をはじめる。
「些細なことで、しょっちゅう殴られてたなあ。無抵抗で。子供の私の目の前でもおかまいなしに。さんざんだった。当時はよくある光景だったのね。ただの夫婦喧嘩だと誰も取り合わない。寝込むようなケガをさせられても、恥だと思って誰にも言えずにじっと我慢してる。そんなお母さんの姿を見て育ったのよ。だから、自分にも暴力が振るわれたときには我慢できなかった。ためらいなく家を出たわよ。お母さんみたいになるのはいやだった」
 敏江の気持ちがよくわかった。二十歳の彼女が家を出たきっかけは、すでに忠志から聞いていた。
「昨夜あなたが見た女性は、長岡恵子さんという方でしょう?」
 すべてを見通す聡明な顔で敏江は聞いた。
「そうです。戦友の奥さんだとおっしゃってました。戦地で足を負傷した長岡さんを助けたのだそうです。戦争が終わってからも、事業を一緒に興されたのだとか」
 ソファで向かい合って話し込んだ。美香は敏江との会話が止められなくなった。忠志のことは薫に任せておけばいいだろう。
「うん、私もだいたいのことは知ってる。息子の戸籍の手続きのときに気づいたんだ。戸籍を見たら私は養女だった。一度も両親とそのことについてはきちんと話す機会はなかった。二十歳のときに家を飛び出しちゃったからね。その後長岡さんたちとの経緯については、長い時間かけて調べたのよ。恵子さんとは一度もお会いしたことはないけど。お元気そうだったかしら?」
 少し迷ったが聞いたことをそのまま告げる。
「子宮癌でもうじき入院するのだそうです。忠志さんに最後のお別れを言いに来たんですって」
 ぴくりと反応した。
「子宮の?」
 自分を育んだ袋のぬくもりをまさぐる顔つきになった。
「癌の種類まで私の母と同じなんて。どこまで嫌な符合なの。あのひとと関わった女はすべて同じ不幸な結末をもらう」
 敏江の表情がにわかにかき曇る。電圧の下がった裸電球みたいだ。
「どなたもご高齢だもんね。あたしだってもう五十歳だもの」
 うつむいて掌を見た。ごつくはないが、か細い指ではなかった。長い年月に及ぶ労働を支えてきた。使い込まれた職人の道具のような手だった。
「でも私は会わないことにするわ。そのほうがいいと思う。あのひとの口からは事実を聞きたかったけど無理みたいだし。それもどうでもよくなった。いまさら名乗り合い打ち明け話をするほど誰もが元気じゃないし」
 本の最終章をさっさとめくり終えたいようだ。息子の結婚式をすませた晩だから、なおさらそんな気持ちになるのかもしれない。
「私のお母さんは、育ての親の河野磯子さんただ一人。なにも恩返しをできなかった。それだけが心残りね。家には帰れなかったから」
 美香は自分の母親のことを思い浮かべた。父を亡くしてから懸命に働いていた時期もある。今は善良に太り、陰気だが真面目な義父に寄りかかって暮らしている。粘りつく義父の視線を思い出す。あれさえなければと思うがしかたない。母は子供より、依存できる男のほうを選んだのだ。あの家で暮らすことは二度とできない。いずれ自分も敏江と同じ後悔をするのかもしれない。
「お母さんも恵子さんも、それから長岡洋三さんもみんなあの人に支配されていたんだよ。いわゆるマインドコントロールってやつ。強さを誇示するために暴力を振るった。精神的にみんな追い込まれていったんだと思う」
 なんとなく過程を想像することができた。
「戦友で事業のパートナーの奥さんを寝取ったんだからひどい話よね。妊娠したのを知ったとき、さてどうしようとなったらしいの。長岡さんは下半身の機能を失っていて、知らん顔で騙すことは不可能だった。それにあの人は自分の子供が欲しくてしようがなくなったのよ。自分の妻が子供のできない体質だったから」
 喋り方がしだいに熱を帯びてきた。
「お母さんと恵子さんはもともと女学校の知り合いだったの。お母さんの実家が当時資産家だったところに、あの人が目をつけた。無理矢理恵子さんに紹介させて、略奪同然に娶ったのよ。反対も相当だったらしい。どこの馬の骨かわからない男に一人娘を取られて、落ち込んだ父親ははその後事業にも失敗した。両親ともに相次いで早くに亡くなったそうね。帰るところもお金もなくなったお母さんは、あの人の奴隷になるしかなかった。見込み違いの貧乏人の娘を貰ってしまったって。酒に酔ってあの人は当たり散らしてた。よくそんなむごい言葉を思いつくもんだよ。そう思わない?」
 大きな桐の箪笥を忠志の家で見た。誰の目にも高価なものだった。虫一匹通さない精巧な細工に託した親の気持ちがわかる。
「誰もがあの人の言いなりだった。他人を意のままに操る才能があったとしか思えない」
 王様ゲームの王であり続けるイカサマの能力を持っていたのだ。
「長岡さんにすべてを打ち明け、一方的に宣告したらしい。俺が責任を取る、子供は自分が妻と二人で立派に育てるんだと。すごい展開だよね。でも恵子さんは黙ってあのひとの子供を産んだのよ。信じられる?長岡さんがどんな反応をしたのか誰にも聞いたことはない。さすがに一緒にはいられないから、共同経営を解消することになった。そのときにも会社のお金をずいぶん持ち出したらしい。それを元手にまた自動車販売の会社をはじめて、どんどん大きくしていったの。自分だけの力で成功したと本人は思っているけど」
 ひどい話よね、と敏江は呆れてみせる。
「そのひどい話で生まれた子供がこの私ってわけ。ねえ、こんな話おもしろい?ほとんど初対面のあなたにずらずら喋っちゃってるんだけど。まあ、いいわ。私の胸の中だけにしまっておくのもしんどい。たまには誰かにぶちまけたい。あなた、明日の朝にはすっかり忘れちゃっててね」
 ぐびりとペットボトルのお茶をあおった。酒をだいぶ飲んだように眼がすわっている。
「わかりました」
 美香もペットボトルをぐいとやった。古い友人同士が飲みながら愚痴を言い合う会みたいになってきた。
「お母さんは会社と家で、身を粉にして働いた。私を本当に愛してくれたの。自分の子として育ててくれたんだ。あのひとはあいかわらず他に女を作ったり家庭では暴君だった。私に対しては無関心だったな。生まれたのが男じゃなくて相当がっかりしたみたい。仕事に没頭してたせいもあったかな。お金儲けには貪欲で、その能力もあったのね。事業はしだいに大きくなって羽振りのいい時期が続いたの。私も行きたくもない女学校かなんかに入れられたもの」
 階上の老人はもう眠っただろうか。娘の本音を聞かせたかった。
「なに不自由なく暮らさせてもらったのを感謝しなきゃと思うわよ。でもね、私がどうしても許せないのは、最後までお母さんを大切にしなかったこと。十年も前に癌で亡くなった。私に連絡がきたときは、もう余命一週間も残ってなかった。不義理をしていた私が悪いのだけど。お母さんが私に会いたいっていうので、しぶしぶ電話してきたんだ。最後の姿を看取ったとき、夫から大事にされない女性は本当に惨めだと思った。家族といったって夫婦は赤の他人。だから人が人を平気で抑圧する格好の主従関係となる」
 敏江はきつく唇を噛む。
「今夜ここに来たのは、べつに財産なんかが目当てじゃない。数年前からのこの不況で、あのひとの会社だって倒産しちゃってんだから。たいした資産なんか残ってるはずがない。あの古ぼけた家にしても、とっくに抵当に入っちゃってるし。年老いて神通力の消えたあのひとに残ってるものなんか何一つないんだよ。かろうじて有料老人ホームに逃げ込むお金だけは握りしめてたみたいだけど」
 小馬鹿にするより悲しそうだった。
「それでもつい今夜はここに来ちゃった。放っとこうと思ったけど、知らないうちに足が向いたの。そうだねえ、私が期待してたものはなにかな」
小首を傾げて考え込む仕草をする。
「血を分けた実の父娘だもの。情の戻りっていうか、失った時間を取り戻すきっかけを心のどこかで望んでいたのかな」
 敏江の目からぽろぽろと涙が流れだした。
「あれ、やだ。あたし泣いちゃってるよ。なんでだろう。情けないからかな」
 鼻をぐすぐすいわせる。
「私が幼い頃に自動車販売の会社をはじめたあのひとは輝いてた。やり手の社長で、従業員からは怖れられてたなあ。私には優しくて、売り物のスポーツカーにたまに乗せてくれるのが楽しみだった。プリンススカイラインやフェアレデイーに乗っけて貰ったんだ」
 涙が止まらない。
「今の主人と付き合うきっかけになったのも車だった。整備士の主人が自分の趣味で持ってた車が、フェアレデイーのオープンカーだったの。ボロボロだったけど。昔を思い出して、男より車に一目惚れしちゃったんだ」
 いい父親だった一面もあったのかもしれない。マインドコントロールされたと敏江のいう女たちは、忠志にどんな気持ちを抱いていたのだろう。愛というピースを当てはめるには、あまりにもいびつなパズルだったにちがいない。
「父として尊敬して慕っていた時期もある。それがいつのまにか退けあう磁石のようになってしまった。悲しいことだけど、もうどうしようもない」
 白いハンカチで目頭を拭い、鼻をかんだ。
「血のつながりだけでは家族になれない。心だけでもいつも一緒にいて、思いやったり庇ったりするのが家族だと思う」
 彼女の息子も同じことを言っていた。
「それをきちんと言葉と態度で表す必要があるんだよ」
 目に見えるように、おのが心中をはっきり示せと言っている。
「だけどむやみに消したり忘れたりすることもできないの。ずっと気がかりであったのは事実ね。息子が私に内緒で、わざわざ遠方からあのひとを呼び寄せたのもそれが理由だと思うわ。すれ違ったままでいいのかって心配してくれたのね、きっと。私のためを思ってのことでしょう」
 杉田宏典の満ち足りて幸福そうな笑顔が浮かんだ。大切に思う母親に、さらにもっと幸せになって欲しいのだ。たまたまネットで見た当社の広告で、そのためのお節介を思いつく。結婚式を口実に、寝たきりの祖父を引っ張り出した。彼は彼なりの流儀で、母親への愛情を示したのだ。
「本当にいい息子さんです。美しい花嫁さんも控えめな雰囲気でお似合いでした」
 杉田宏典はこれから穏やかな家庭を築いていくはずだ。忠志とその家族のようにはならない。
「ありがとう。苦労したけど、あの子が真っ直ぐに育ってくれたことだけが自慢ね。おかげで吹っ切れた。あのひとが施設で亡くなったら、遺骨は永代供養の寺にでも入れてやるわよ。お母さんとはいっしょにさせない」
 さばさばした決意を口にする。
 優しい息子は、祖父と母親の間になにが起こることを期待したのだろう。残念ながら、けして交わることのない平行線だった。諦めという名の錆止めを、今さら塗り重ねただけだ。それでよかったのだという気がする一方で、くすぶる敏江の想いを感じ取った。
「あのひとに会ってみてがっかりした。やっぱりダメだった。年取って弱っているのはわかってる。でもいまさら妙に媚びたような言葉をかけられてもね。ありもしない財産をちらつかせて、いいかげんにしろって感じ。調子がよすぎるんだよ」
 顔を上げて真っ直ぐに美香を見た。
「暴力で他人を支配し続けてきた人間に、そう簡単に平穏を与えてはいけないよ。そう思わない?」
 美香は迷うことなく頷いた。
「私はあなたのことを許す気はない、そう言ってやったの。そしたら急に爆発した。導火線に火がついたら、燃え尽きるまで二度と消せない。足腰立つときなら、きっとひどく殴られてたわ。まったく今でもぞっとする。暴力の恐怖なんてわからないか、あなたには。誰かに殴られたことなんてあるわけないよね」
 ところが自分にはわかるのだ。美香は不思議な偶然に思わず身を乗り出した。ストーカーと化した元恋人から、手ひどい暴力を受けた経験を一息に喋った。他人に話すのははじめてだった。敏江はじっと耳を傾けてくれた。
「大変だったわね。その喋り方だと、まだなにも終わってないみたいね。傷は癒えてない。そうでしょう?」
 冷静な分析が返ってくる。
「いったんやられる側になった人間は、その立場から抜け出せないで苦しむの。弱いからじゃない。もともとそういう性質なのね。誰かに依存しなければ生きていけない。あっち側とこっち側に最初からはっきりと分かれてるんだよ」
 敏江の言葉の意味がメンソールのタバコを吸うように、胸にしみ込んできた。
「どうすればいいんですか?」
 目の前の女性はすでに十分克服できているように見えた。
「まずしっかりと自分の足で立つこと。餌をとる能力のない野生の動物は死ぬしかないでしょう。ひとりでは生活できないと思い込むのを止めること。やってみればけっこう簡単なんだから」
 からからと笑い声を弾ませる。年輪の刻まれた手で歯を隠した。
「私なんか離婚して目の前が真っ暗になったことがある。どんぞこだったなあ」
 ゆるやかに微笑んだ。
「アメリカに渡ったことがあるってうかがいました」
 敏江の経験をもっと聞きたかった。
「岩国基地に来てたジョン・コシンスキーっていう海兵隊員とできちゃったのよ。レデイーファーストの国の優しい男でね。なにもかもがちがったのが新鮮だった。まちがって妊娠しちゃった。それがきっかけで、父親にひどく殴られた。ボコボコにされて、家出同然に飛び出したわ。本国に帰るジョンについて行ったの。同時に結婚した。新天地での生活にしばらくは舞い上がってたなあ。若かったんだよねえ」
 目の横に皺を寄せて、遠い昔を懐かしむ。
「結局うまくいかなかった。優しいはずの夫が、軍を退役して勤めていた会社を不景気でレイオフされたら変わってしまったの。酒を飲んで一日中ごろごろしているようになった。それを少しでも咎めると、怒り出して私を殴るようになったのよ。また同じ暴力の繰り返しに、黒い波がどこまで追いかけてくるんだと落ち込んだ。でも、生まれたばかりの息子がいたから、立ち上がることができた。母は強いのだよ」
 血色のよい頬を膨らませてみせた。
「弱くて気の小さい男だったのよ。それがわかっても、ジョンのことはまだ好きだった。だけど、勇気を出して別れることにした。子供を守らなければならなかったから。このまま付き合ってたら一緒に沈没しちゃう。ジョンが荒れるのも、私が彼に頼り切っているからだって気がしたし」
 強がる男たちは誰もが弱くて気が小さいのだ。
「ボストンバッグひとつで日本に逃げ帰ってきた。船便で着いたこの街で暮らすことにしたの。ハーフの子が多い港町だってことが理由。息子のあの外見じゃ虐められて当然の時代だったし」
 幼い子供の手を引いた若い女が一人、夜の埠頭に立つ。遠ざかる霧笛はますます不安をかき立てる。
「どんな仕事でもしようと思った。息子を託児所に預けて、いくつものパートを掛け持ちしてね。朝は清掃会社で掃除婦、昼はラーメン屋で皿洗い、深夜はむずかる息子の世話、寝る暇もなかったな。きつかったけど充実してたわ。今の主人と知り合うまでは再婚なんて頭になかった。このままひとりでやっていくぞと思ってた。主人に助けてもらえるようになってからだって気を抜いたことはない」
 今も夫の会社の事務仕事を一手に引き受けている。
「あなたもえらいわ。社会に出て、仕事をきちんとやっているじゃない。傷を負ったはずなのに、自活しようとがんばっている」
褒められて美香はうれしくなった。
 敏江の物語は続く。美香は年の離れた目の前の女性が、誰ともちがう輝き方をしている気がした。苦境にあって子供を育て上げた自負に包まれている。誰にも寄りかからず、自らの道を踏みしめてきたのだ。自分もそんな歩みを取り戻せるだろうか。期待と羨望を抱きながら、美香は時がたつのも忘れて彼女の話に聞き入った。


 敏江が帰ったあと部屋に戻ると、薫はすでに大きな口を開けて眠りこけていた。起こさないようにそっと服を脱ぎ、水音を気にしながらシャワーを浴びる。ツインのベッドの片方にもぐり込んだが、眼が冴えて眠ることができない。うつらうつらとしては覚醒する。そのたびに浅い夢をみた。斉藤渉から受けたあの忌まわしい暴力の記憶が蘇った。痛みが熱さにかわる血の感触が皮膚を覆う。死の恐怖にひれ伏した時、美香は拳を振るう男が嗤うのを見た。
 誰も助けてくれなかった。傷ついた娘のためになにをすべきか、美香の母親はまるで思いつかない。義父の山野公平は何も言わなかった。関わり合いたくなさそうだった。自分の色眼鏡を棚に上げ、むしろ美香のふしだらさを態度で糾弾した。取材にきた新聞記者を不機嫌そうに追い返し、包帯を巻いた娘を睨んだ。傷が癒えると、再びうっとうしい視線に戻った。
 孤立無援の浮島に立ち、ずぶずぶと泥沼に沈んでいく。やむおえず冷たい水面に飛び込まねばならなかった。体が冷え切って水死しないうちに、どちらに向かえばいいのか手探りした。一条の光も差さない暗闇を、無我夢中で泳ぎだした。陸を目指して、いまだに漂流している。時は無情に過ぎ去っていくだけだ。
「自立すること」
 敏江は何度も諭してくれた。手を握って励ましてくれた。その決意だけで、身を竦ませる死の恐怖にうち勝つ自信はなかった。
 夜明け直前に、異変が起きた。突然、みしみしと部屋の壁が軋んだ。バーベルでも落としたみたいな、ごすっという音と振動が続く。驚いて体を起こすと、視界がふらついた。立てない。布団から出られず、美香は背筋を硬直させた。横揺れが続く。やがて何事もなかったかのような静寂が舞い戻った。まだ部屋の中は真っ暗だった。
「地震だわ」
 灯りをつけて隣に目をやる。大きく開いた薫の口から、ナメクジみたいな涎が垂れて光っている。どんが鳴っても目を覚ます気配はない。眠りトウシローに朝の地震は怖くない。
 布団にもぐり直そうとしたとき、枕元の電話が鳴った。栗が爆ぜるようなけたたましい騒音だった。
「死んでしまう。早く来てくれ」
 忠志が絶叫していた。鼓膜が破れそうになる。跳ね起きて、美香は隣室に向かった。薫を起こすひまはなかった。
「船体が押しつぶされて深海に沈んじまう。助けてくれ」
 折れ曲がった指が虚空を掻いている。ベッドに横たわる姿は精気の抜けた革袋だ。
「敵巡洋艦の魚雷で排水バルブが損傷した。どこまでも潜行し続けているぞ」
 地震を敵の攻撃と勘違いしている。夢うつつなのか急に呆けたのかわからなかった。
「だいじょうぶですよ。もうおさまりましたから」
 忠志の手をさすってやる。徐々に落ち着きを取り戻した。
「潜水艦の狭い営巣に入れられていたんじゃ。なまっちろい新兵を殴ったら上に密告されて懲罰を食らった。強い敵より弱い味方の方が怖いんですよと弁明したのに、わからん上官じゃった。そのときどっかんときたんじゃ。警報が鳴って、艦が沈降しはじめた。胴体のあの嫌な軋み音が忘れられんよ。二十歳やそこらでろくに女も知らず、海の底に沈んで死んじまうのかと心底怖かった。そんな死に方は嫌じゃと運命を呪ったよ。これを免れたら、絶対にこんな戦争からは逃げ出してやろうと思った」
 いやいやをするように首を振る。
「さびしいのう。今もいっしょじゃ。ひとりで深い海の底にじわじわと沈んでいく。たったひとりで死なにゃならん。誰もわしのことを気にかける者はおらん。世の中の厄介者じゃ。潜水艦の中で死ぬのとかわりゃせんわい。あの時たまたま死ななかったのに、わしはなにも学ばなかった。この手も無惨に壊れたままじゃ」
 戦争で負傷したという手を眺める。
「この手はわしが自分で潰したんじゃ。負傷兵となるためにな。戦争はもうじきボロ負けで終わるのがわかっとった。嘘ばっかりの大本営発表に嫌気がさしとった。誰が騙されて無駄死にするかと思ったよ。だから戦闘で怪我したふりをして前線から逃れた。脱走兵じゃよ。わしは自分の命が惜しかった。心底生きたいと思ったんじゃ。戦友たちは皆覚悟の上で散っていった。誰が望んで死を選ぶものか。そうすることが自分に課された使命だと信じるしかなかったんじゃ。わしはそいつら全員に嘘をついた」
 自分の命を生きるより、国のために死ねとされた時代だったのだ。
「わしらの乗っていた潜水艦は最後は前線に出向いて玉砕したよ。艦が航行不能になったとき、戦友たちは海に飛び込んだ。そこに浮かんできた未使用の魚雷にまたがって突撃していった。人間魚雷じゃな。あくまでも目的を遂げようとしたんじゃ」
 幾多の人間魚雷は敵の巡洋艦を実際沈没させたという。
「わしら負傷兵は戦地では敗残兵として厄介者扱いされた。自分だけ生き残ったという後ろめたさに囚われる者も多かった。戦争が終わって内地に引き上げてきた後も、長岡はそのことでずっと苦しんでおった。しかし、あいつは苦しむことで誇りまでは失わなかった。卑怯なやり方で逃げ出したわしには、なおさらそう思えた。それがやがて妬みを通り越して憎しみに変わった。長岡には両親の残した財産や、復員を待ち焦がれていた女房もあった。自分に比べてなんでも持っていやがる贅沢なやつだと妬んだ。愚かな心じゃよ。親友の顔をしておいて、心の中ではよこしまな思いを募らせていた。やつの細君と内緒で懇ろになった。会社の金を掠めたり、陰で卑劣なこともした。それでも、やつは死ぬときに、自分の命を救ったわしに感謝の言葉を述べたそうじゃ」
 どちらの人生に価値があるのか、美香にはわからない。
「戦争のせいにはしたくないが、わしは残りの人生を図太くやりたかった。わしはわしなりに玉砕した戦友たちの分まで我が儘を通してやると誓った。したいこともできずに無念を抱えて死んでいった者の代わりにな。どうせ脱走兵じゃ。なげやりな気持ちもあった。百八つの煩悩をこの世でやり尽くしてみせる。いずれ地獄で、現世での武勇伝を披露してやると開き直った。だから好き勝手にやってきた。誰も信用しなかった。自分の思い通りにならなければ、たとえ身内といえども容赦しなかった。その結果がこれじゃよ。恨みだけを残して、まわりには誰もいなくなった」
 けして呆けてはいなかった。なおさらそれが哀れだった。
「ほんとうに馬鹿じゃった。死んでいった戦友たちが望んでいたのも、家族との情愛に満ちた生活であったろうに。強欲な金の亡者が追い求める下らない快楽なんぞであるはずがない。そんなことにも気づかなかった。その報いが来た」
 力無くうなだれる。
「血のつながりだけでは親子にはなれんのう。もうどうにもとりかえしようがない」
 敏江とまったく同じことを嘆いた。
「子供を育てるというのはむずかしい。娘のかわいい頃を思い出すよ。大切なことをきちんと伝え続けなきゃならんかったのに、何もしなかった。自分の遊びに夢中で、かまってやることさえ億劫じゃった。馬鹿じゃ。まったくの愚か者じゃ」
 忠志は声をあげて泣き始めた。とめどなく頬を涙で濡らして、おんおんと迷子になった子供のように泣き続ける。
 かける言葉も見つけられず、美香は忠志の腕をさすった。張りを失い皺だらけの皮膚だった。半世紀以上を思うがままに生き抜いてきた潜水艦乗りの、海より深い慚愧の念が伝わってきた。
 強がって女を殴るような男はどいつもこいつも、ちっちゃくて気の小さい男たちなのだ。忠志とて例外ではなかった。いかなる理由があろうとも、弱い者への暴力が許されることはない。いつか自分にはね返る。狭い営巣の中で圧殺されるような孤独な死を強要される。そのときになって泣き喚いても、もう遅い。
 せめて忠志の話を受け止めてやりたかった。かける言葉はみつからない。いつまでも泣きじゃくっている。老人のしょっぱい涙が枯れることはなかった。
 やがて白々と朝を迎える。ベッドに寄り添い、いつのまにか眠っていた。目の前に忠志の白い顔があった。息をしてないかと、どきっとする。顔を近づけると寝息に触れた。
 復路の旅が始まった。飛行機の席ではまた両脇から支え、介護用バンの後席に乗せて施設へ送る。精根尽き果てたかのように、忠志は眠りこけた。ときどき力無く体を動かすだけだ。
 梅雨の気まぐれな天気は崩れる予報だった。夕刻までに無事に帰り着かねばならない。ハンドルを握る薫の眠気覚ましのために話しかける。いつ居眠りするか気が気でない。
 ラジオのスイッチを入れると、ビートルズのイエローサブマリンが流れた。忠志の夢に現れる潜水艦も派手な黄色に塗ってやりたかった。そしたら子供たちが胴体の中で遊ぶ人気のオブジェになれるのに。リンゴスターのとぼけた歌声を聞いているうち、なんだかおかしくなってきた。潜水艦に縁があるよね、と薫と二人で笑った。少しためらったが、昨夜杉田敏江と交換したアドレスにメールを送信した。今朝の地震のあと忠志が後悔の涙に暮れたことを、事実のみ伝えた。父娘の仲を取りもとうとした杉田宏典の気持ちを味わう。
 胸ポケットにしまおうとした携帯電話が、突如振動した。敏江の返信かと思ったがちがっていた。メールではなく、誰かからの通話だった。見覚えのない着信番号だ。嫌な予感に与せず耳に当てると、無言の闇が鼓膜に侵入してきた。
「もしもし、どなたですか?」
 返事はない。薄暗い物陰から卑劣な悪意が目をギョロつかせている。美香は鬱屈した気分を捨て去るために、車の窓を大きく開けた。
「いいかげんにしろよ。バカヤロー」
 受話器に毒づき、親指で強く切をプッシュする。怖さを忘れて猛烈に腹が立っていた。車窓から吹き込んだ風にあおられ、忠志がやっと目を覚ます。ふああ、と大きなあくびをした。
「まだ着かんのかい。晩飯までには帰してくれ」
 早朝の慟哭はなんだったのかと思うほどの立ち直りぶりだった。
 数時間の後、車はするすると大理石張りのエントランスに到着した。何度見ても豪勢な建物だ。
「次は韓国旅行でも頼むわ」
 すっかり元気なじじいに戻っている。黒縁眼鏡の看護師が車椅子を受け継いだ。忠志は自動ドアの向こうに吸い込まれていく。振り返りもしなかった。
「やれやれ、任務完了」
 薫はぽんぽんと両手を打ち合わせた。
「お疲れさま」
 美香もほっとした。無言電話の後味の悪さを引きずっている。妙な胸騒ぎがしていた。
「さて、帰りましょう」
 会社に電話を入れる薫のそばで車椅子を片付けていた。直後、やっぱり嫌な予感が的中する。
 自動ドアのガラスの向こうから、入れ違いに男が出てきたのだ。見覚えのある長身のシルエットがふらりと現れる。黒いジャージの上下にグレーのキャップを目深に被っていた。
 顔を隠してはいるが、斉藤渉にまちがいなかった。美香は硬直した。渉はゆらゆらと近寄ってきて、美香の前に立ち塞がった。
「やあ、ひさしぶりだね」
 充血した目が尋常ではない精神状態を示している。
「おまえに出会ってからさんざんだよ。職場も追われるし、警察には目をつけられるしな。まったくひどい目にあった。なあ、そうだろう?」
 渉の息がかかった。魚の腐った臭いがした。
「ところでおまえ、いきなりバカヤローはねえだろう。俺がなにか悪いことしたのかよ」
 勝手に溢れさせた感情に渉は肩を震わせはじめた。イカれている。
「ずいぶん探したぜ。ひと言もなしで県外に行っちゃってるしな。あれから俺もいろいろと考えてたんだ。話くらいは聞いてもらいたいね。ドライブでもしようや」
 先に停めた黒い軽自動車を指差す。どこを走ってきたのか不審な泥汚れで覆われていた。
「冗談はやめてよ。誰があんたなんかと。仕事中だし」
 つうと背筋に冷たい汗が流れる。眼光の鋭さにたじろいだ。
「冗談なんか言うもんか。時間がないんだ。早くしろよ。死にたくなけりゃな」
ポケットから出した手に釘付けになった。クロームの光りに吸い寄せられる。刃渡り十センチほどの果物ナイフだった。
「なんで、なんで・・」
 突発性の失語症みたいに舌が絡まった。
「こっちへ来い」
 渉がさらに近寄ってきた。美香の肘を掴もうと手を伸ばす。尖った指は黒く汚れきっている。獰猛な猛禽類の爪みたいだった。
 恐怖で棒立ちになった。自立せよと勇気づけられた昨夜の杉田敏江の声が木霊する。理不尽な暴力の予感におののき立ち尽くす。悪魔の搦め手は地の果てまでも追いかけてきた。どうにも逃げられない。目の前が絶望で真っ暗になった。
「ぎゃん」
 犬が蹴り上げられたような叫びとともに渉は昏倒した。横から突き出た薫の腕の先で、青白い火花が散っていた。スタンガンだった。
「ふざけんじゃないわよ。女をなんだと思ってるの」
 地面に落ちたナイフを蹴飛ばし、渉の背中を象のような足で踏みつける。小鬼を足蹴にする仁王像の勇ましさだった。
「怯えちゃいけないよ。あたしがいつでも追っ払ってあげるから。でもこいつはこのままじゃダメね。危なすぎる」
 携帯電話を開いて警察に通報する。
「二度と現れないようにしなきゃ」
 けたたましいサイレンとともに警察がやってくる。てんやわんやの騒ぎとなった。薫と美香も被害者として所轄署に移動した。
「立花班長、ありがとうございました。強いんですね」
 パトカーの中で、美香は頼もしい上司に心から礼を言った。渉に連れ去られていたら、今頃どうなっていたかわからない。
「弱いわよ。なりはでかいけど」
 照れ臭そうに下を向く。
「でも山野さんに借りを返せてよかった」
 狭いパトカーの後部座席で薫が呟いた。運転する巡査に聞こえないように小声で話す。
「借り?」
 なんのことかわからなかった。
「山野さんはあたしの命の恩人なんだ」
 思い当たるふしはさっぱりない。
「はじめてコンビで日帰りサポートした日のこと覚えてる?」
 薫が寝坊して大変だった朝だ。
「桜の名所におじいちゃんを連れて行ったよね」
 初めての業務で美香はいたく緊張していた。
「その朝、あたしに電話くれたでしょ。先輩がいなきゃどうにもならないから早く来てって。半泣きだったよね」
 今でも力持ちの薫がいなければ、やせっぽちの老人一人車の乗り降りさえさせられない。
「そのとき自殺しようとしてたんだ、あたし。鬱の真っ黒い波が覆い被さってきて、どうにもならなくなってた。経験のない最悪な目覚めだった。今度こそ、この嫌な世の中におさらばしてやるんだって思った。柱に吊ったロープに首を入れようとしてたとき、どんぴしゃのタイミングで山野さんからの電話が鳴ったんだよ」
 とんでもない後日談が続く。
「ずうっと鬱病。薬のせいでこんな太っちゃった。眠くてしょうがないのも薬の副作用。迷惑かけちゃってるよね」
 ときどき薫が飲んでいるのは、胃薬だとばかり思っていた。
「幼児のときに親に虐待されてたの、あたし」
 ぼそぼそとうち明ける。薫が自分のことを話すのは始めてだった。
「鬼畜みたいな母親だったなあ。両手両足を縛られて洗濯機に入れられたことがある。口も粘着テープでふさがれて、ふたに重しをかけられた。何時間も放置するだけじゃなく、水を入れて回転させたんだよ。狂気の沙汰だよね。なにがそんなに憎かったのかわからない。実の子なのに」
 ぶるぶると首を横に振った。
「父親は商社かなんかに勤めている人で、しょっちゅう転勤してた。あたしが生まれたときも、単身赴任でほとんどいなかったらしい。週末も帰ってこなかった。赴任先で女ができて、給料も仕送りしてこなくなったの。母親は育児ノイローゼと重なって気が狂ったみたいになっちゃった。そんなに手のかかる子供じゃなかったんだけどね、あたしは」
 悲しい笑いを浮かべる。
「なんで自分ばっかりこんなしんどい目にあわなきゃなんないの、ってのが母親の口癖だった。無視が続いて、食事も十分もらえなかった。一日にあんパン一個なんて日もあったね。がりがりに痩せたチビだったんだよ。信じらんないでしょ」
 どうやって生きてきたのか不思議な話だった。
「児童相談所が入って、一時預かりの保護施設に入れられた。あのままだと危険だと判断されたんだね」
 幼稚園にもほとんど行ってなかったという。
「そこで引き取り手が探されたの。母親のお兄さん、つまり伯父さんが見かねて自分が育てると言ってくれたんだ。子供がいなかったから。それがいまのNPO法人の理事長ってわけ。ちょっとむさいけど、足長おじさんにちがいなかったな。本当に助かった。母親は若い男とトンずらして、それ以来行方不明。そのほうがいいけど。今度見つけたらぶん殴ってやる」
 理事長の近藤治が薫の親戚であり後見人だったのだ。彼はあいかわらず飄々としている。理事長室にいつも籠もっていた。パソコンでなにか書き物をしているが、それがなにか知らない。NPO法人の業務は他のスタッフがすべて取り仕切っている。いくつかの班で分担していた。彼が思いつきで作ったこの組織は、勝手に少しずつ業績を伸ばし大きくなりつつあった。ミスタービーンの先見性はたいしたものだったのだ。
「伯父さんの家から学校に通わせてもらった。そこでもずううっと、いじめられっ子だったなあ。小学校から高校まで、こづかれたり蹴られたり無視されたりパシリにされたり、いつも誰かの玩具だった。あたしがブスでオドオドしてるからだと思ってた」
 虐げられるべき理由は自分の中にある。自らを責めて責め抜いた先には鬱病が待っている。回路の先端は常に内向きに、もっとも柔らかい心の奥底を掘り進む。薫の苦悩が伝わってきた。
「二十数年の鬱憤がこのでかい体に詰まってる。あの朝とうとう限界がきて、これ以上はもう無理ってとこまで煮詰まっちゃった。幸い、山野さんの電話があたしをこの世に引き留めたんだ。あれがなきゃ、たぶん今ここにいないわ」
 瞼の裏が熱くなってきた。
「桜花園のソメイヨシノ、ほんとにきれいだったよね。覚えてる?付き添ったおじいちゃん以上に感動しちゃった。あたしの頭のうえで、つむじ風に乗った花吹雪が渦巻いたんだよ。まだまだあきらめんなよって。姿の見えない誰かに励まされた気分だったなあ」
 見事な桜並木の下を、車椅子の老人と三人で歩いたのだ。
「もう少しがんばってみるかって気になった。だから山野さんには感謝してるんだよ」
 照れ臭そうにおずおずと手を重ねてきた。温かい厚切りの食パンが乗ったような感触だった。
「こちらこそありがとう」
「どういたしまして」
 窮屈な車内がささやかな希望で満ちた。
「ヤメにしたんだ。やられっぱなしでは終わらないぞって。あいかわらず鬱病は完治してないけど、だいぶんマシになった」
 もはや眠り病のウドの大木のイメージはどこにもない。
「これよこれ。通販で買ったの。お守りのつもりで持つことにした。今日はじめて試したんだけど。ばっちり使えたよお。あなたにもやり方教えてあげるわ」
 上着の胸を叩く。黒いスタンガンは警察に取り上げられることもなく、いつのまにか薫の内ポケットに戻っている。
「目には目をってわけじゃないけど、絶対に折られないっていう気持ちを示さなけりゃね。それで殺されりゃあ本望よ。じゃない?」
 美香は大きく頷いた。誰かに依存し縛られ支配され続ける人生などまっぴらだと思った。白い火花を次は自分が散らしてみせる。通販で人工の雷製造器を購入しよう。不逞の輩には、ためらいなく天誅の落雷をお見舞いしてやるのだ。
「男運が悪いんだよね、私。ひどいのばっかり」
 次からは薫になんでも相談してみよう。
「運なんてあるだけマシだよ。ぜいたく言わないの」
薫が丸い顔をさらに丸めた。運転席の若い巡査が、ちらりと振り返り苦笑した。
 なにかの合図のように薫の携帯の着信音が響いた。いつの間にダウンロードしたのか、またまたイエローサブマリンだった。
「はい、まごころ旅工房の立花薫です」
 旅で仲良くなった老人たちが、ときどき薫の携帯を鳴らす。用もないのに、彼女の声を聞きたくてかけてくる。毎度うれしそうに対応していた。家族に恵まれない孤独な老人たちの乗る黄色い潜水艦からの交信だ。とぼけたロックを大音量で撒き散らしながら、深海を我がもの顔に航行する。明るい海面に浮上することなど、とうの昔にあきらめてしまった。死に場所としては上等だと彼らはやけくそで思っている。どちらにしても燃料はもうほとんど残っていない。
 今度は美香の携帯が振動した。渉であるはずがない。期待しながら開くと、やっぱり杉田敏江からのメールだった。
〈主人がレストアしていたフェアレデイーが見事に仕上がりました。これに乗って、近いうちに夫婦で旅行でもしようと話しています。行き先は広島もいいかなんて思っています。この車、あのひとに見せてあげると懐かしがってよろこぶかもしれません〉
 クロームメッキの輝く白いオープンカーの写真がメールに貼付してあった。このゴージャスな車は、例の豪華老健施設のエントランスにとても似合うことだろう。
 昔の若々しい姿の忠志が運転席にすわる。ウッドのハンドルを握って、助手席の幼児を柔らかい眼差しで見下ろす。もっとも父親らしかった頃の情景を、敏江はフラッシュバックさせる。
 大切なことを何一つ言葉にして交わせなかった不幸な父娘の視線が交錯する。死ぬまで消えない赤い糸が絡み合う、許せない思いを抱えたまま、それでも両者は捨てきれない絆を探し求める。被弾して沈みかけた潜水艦の寿命が、ほんの少しだけ延びたらいいのに。美香は彼らの幸運を祈った。
 当NPO法人は、身体の不自由な老人や障害者の快適な旅をサポートするためにある。たまたま不況のあおりでもぐり込んだこの薄給の会社には、偶然素敵な先輩もいてくれた。
「立花班長、わたしたちいいコンビですよね」
 うれしくなって美香は言った。
「うん、そのうち漫才でもする?老人たちに受けるかも」
 くるよの真似をして、おなかとほっぺを膨らませる。信じがたいほど似ていた。
「イヤです」
 相方のいくよにされるのは我慢ならない。
 梅雨がパトカーの窓に放尿をはじめた。アスファルトに落ちた雨は、うんざりする湿気を連れてくる。不快指数もうなぎ登りだ。
 わたしたちの人生これからも、晴れた朝ではないことが多いだろう。天候不順を嘆くだけでははじまらない。入道雲の合間から雷が落ちたあとには、きっとすがすがしい夏空が広がるはずだ。それを信じてもがいてみるのも悪くない。生涯の締めくくりに臨む老人たちから、さまざまな生き方を教わるだろう。薫といっしょに真摯に学んでみたい。美香はこの仕事に本気で取り組んでみようと心に決めるのだった。

                           〈了〉