怪傑詩人 広瀬志津雄(1)

第6号 2009秋冬号掲載
宮内鳩彦の詩友たち  5

−早逝した叙情詩人・高原熹勇()

第3号 2008春夏号掲載
宮内鳩彦の詩友たち  3

 −早逝した叙情詩人・高原熹勇−

第2号 2007秋冬号掲載
宮内鳩彦の詩友たち  2

−馬酔木昶を探して−

宮内鳩彦の詩友たち  1
創刊号 2007春夏号掲載
松崎 慧の本棚
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宮内鳩彦の詩友たち

宮内鳩彦は「焼け跡に詩の種を蒔いた人」だと言われている。1946年4月、彼は長い暗黒の夜明けを待っていたかのように、西村菱雨らと徳島詩人クラブを再結成し、ガリ版刷りの詩誌『吉野川』を発行した。藁半紙の袋綴じ、わずか28ページの雑誌であったが、『吉野川』は戦後最初に徳島で発行された詩誌である。

 創刊号の同人は8名であった。さらに会員を増やそうと、市街の土塀や電柱に同人募集の貼り紙をした。

“詩は志である。批評である。

一行の詩句から革命が起こるかもしれない。

焼け跡の荒廃したこの戦後にも”

 この貼り紙を見て、高縄 淳、岸上 繁らが詩人クラブに加入した。さらに広瀬志津雄(翻訳家)「文芸天地」、同人の佐藤翠紅、高原熹勇らが参加し、誌名を『徳島詩人』に変更、県下の詩人を結集したのである。同人は16名になった。編集者は宮内鳩彦、発行人は西村菱雨。発行所は菱雨が住職をつとめていた潮音寺に置いた。

『徳島詩人』創刊号の巻頭には「われら陋巷に飢えるとも」と題した檄文を掲載している。

「詩のためには餓死もいとわず、ポエジイと共にあり、ポエジイと共に飢えん」と、再発足の決意を表明している。

 同年末(昭21)、井内輝吉、寒川 琢が相次いで満州から帰国。二人は戦前、共に詩人クラブの会員であった。宮内鳩彦は早速二人に会い、彼らを同人に迎え入れた。 その頃から、尾崎 英、冬園 節、中尾万代ら新鋭の詩人が次々と『徳島詩人』に参加した。

 同人たちの間で、詩誌を活字印刷で出そうという機運が盛り上がった。「新しい酒は新しい革袋でなければ醸されない」からということで、広瀬志津雄の提案で誌名を『詩脈』に変更し、活字印刷で発行することになった。

 そのような時流に乗って、1947年12月『詩脈』は創刊された。それは徳島詩壇における戦後ルネッサンスでもあった。初代編集長には寒川 琢が就いた。彼は発刊の辞のなかで「長い忍苦の伏流たりし詩人クラブ及び徳島詩人編集者に感謝したい」と記し、宮内鳩彦に謝意を表している。

 第一期『詩脈』は1949年11月に20号を出した後、約15年休刊状態になっていたのだが、第二期『詩脈』が2011年4月現在、通巻348号を出している。

 『詩脈』の源流は『吉野川』に遡る。本稿ではその『吉野川』から、初期『詩脈』に至る戦後苦難の時代に真摯に時流と向き合い詩を書いていた無名詩人のことを書き記したいと思っている。

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早逝した叙情詩人・高原嘉男()

第4号 2008秋冬号掲載
宮内鳩彦の詩友たち  4