麦わら帽子の父

作 高木  純

 久しぶりに二日連続で休んだ。
 普段なら友人とゴルフに行くか、遠出して釣りにでも行くのだが、休みが取れたのが平日なので誰も誘えない。しょうがないので、ごたごたとある溜まった用事をきれいさっぱり片付けることにした。まずやることは部屋の掃除だ。フロアーが埃で白くなっているのを見てみないふりをしてい たが、今日はしっかりと見つめた。よく見ると部屋の隅には、どうしたらこうなるのか解らないぐらい、綿埃が絡まり合って丸い塊になっている。おそるおそるベッドの下を覗いて見ると、ああーもうなんと言うことか。だが、それで部屋の掃除を徹底的にやるという決意が固まった。

 休みの一日目は、布団干しからはじまって、3DKのマンションの部屋からトイレから風呂まで徹底的に掃除した。掃除機はもちろんのこと雑巾まで使って磨き上げた。その間、洗濯機はフル稼働させた。下着や靴下にタオルに布団のシーツなどなど洗いまくった。干すためにベランダに出てみると、大きなため息がでた。我慢できなくもないが、ベランダだけが汚いままでは何やら気分が悪い。洗濯物を干す前にここも綺麗にしておこう。結局、掃除洗濯で一日目の休暇は終わった。

二日目は、怪我をして入院している友人のお見舞いやら、銀行に行ってガス代や新聞代の口座引き落としの手続きやら、仕事の合間でもできるのに、億劫でやっていなかった用事を片っ端から片付けた。帰り際に近くのコンビニに寄って町指定のゴミ袋を種類ごとに買い揃えた。それからゴミを分別して袋に詰め替える。明日は燃えるゴミの収集日。明後日はペットボトルとカン類の収集日。処分するもので一番多い古新聞と雑誌類は古紙センターというところに持って行けば片づく。できれば今日持っていくつもりだ。そうすれば大半のゴミが部屋からなくなる。

あらかた用事が終わったのは昼の一時過ぎだった。

 それから、腹が減ったので近くのラーメン屋に行って、チャーハンとラーメンを食べると、満腹になったのと、まあとりあえずやるべきことは全部終わったという安堵で眠くなり、陽当たりのいい部屋でゴロッと横になった。きれいに掃除した畳の上は気持ちがいい。それに、平日の昼間に畳の上でゴロゴロするなんていうのも久しぶりだ。そんなことを考えているうちに眠くなってそのまま寝てしまった。

 

 人が気持ちよく眠っている時に、忌々しいというか腹立たしいというか、携帯の着信音が鳴りだした。甘いスイートメモリーのメロディも昼寝の真っ最中だと、けたたましいベルの音と何ら変わらない。とはいっても仕事の電話ならしかたない。地元新聞で社会部の記者をやっている孝志にとって、休暇が突然つぶれるのはよくあることで、昨日今日の休みとて、つまらない窃盗事件で休みが取れなくなった代わりみたいなものだった。たぶん何か事件が起きて取材に走ることになるのだろう。やれやれと思いながら、横になったままで携帯電話に手を伸ばした。

 電話は兄からだった。めったに電話など掛けてこない兄が、昼間のこんな時間に何の用だろう。孝志は首をかしげた。  

「もしもし……」

「孝志、大変だ。父さんが倒れた。危ない。危篤状態だ」

 兄が慌てた調子で一気に言った。

「えっ……どうして?」

「脳梗塞らしい。俺も今から病院に向かう。お前もすぐ来い。市民病院の三階だ」

 何を言っているのか、すぐには頭に入らなかった。孝志は返事ができなかった。

「聞いてるのか孝志! 市民病院の三階だ。来られるのか?」

 父が危篤。

市民病院の三階。

これだけはしっかり頭に入っていた。すぐに行かなければならないことが、はっきりと分かった。

「わかった。今すぐ出る」

 そう返事しながら、孝志は跳ねるように身体を起こした。だがすぐには立てなかった。

父に会ったのは三日前だった。その時は元気だった。夏でも冬でも年がら年中麦わら帽子を被ったいつもの格好で、畑でナスを収穫していた。「持って帰れ」と言われたが、料理するのがめんどくさいので「いらないよ」と答えた。

その時は確かに元気だった。どこか悪そうな気配など微塵も感じなかった。それなのに何故? 危篤? 孝志は納得できなかった。

 だが、とにかく行かなければならない。孝志は思い立ったように着替えはじめた。とはいっても、ジャージーを脱ぎ捨て、何でもいい、とにかく手にしたズボンをはき、セーターを着た。

 独身で気ままな一人暮らしをしている孝志は、父のいる市の隣町のマンションに住んでいた。実家まで車ならほんの三十分ぐらいの距離だ。父が運び込まれた市民病院ならもっと近い。飛ばせば二十分で行けるかもしれない。孝志は携帯電話と車のキーだけを握りしめて、部屋から飛び出した。

マンションの廊下の端にあるエレベーターは上にあがっていくところだった。孝志はあきらめて階段を駆け下りた。四階から地下までなら走り下りた方が早い。普段は住人に迷惑をかけないように、ゆっくり音を立てずに階段を降りるのだが、今日はそんな気遣いをする余裕などない。十二階まであるこのマンションは、階段の足音が全体にこだまするように鳴りひびく。孝志は構わず一気に駆け下りた。

地下の駐車場の真ん中に、昨年買ったばかりの孝志のポルシェがあった。黒いボディで、駐車場にある三十台ぐらいの車の中でひときわ目立っていた。孝志はそのポルシェに飛びこむように乗りこみ、素早くエンジンをかけた。地下の駐車場にポルシェの高いエンジン音が響いた。

 

 バックするために後ろを見た瞬間、父が言ったことを思い出した。

この車を初めて見た時だった。父は珍しそうに車を見てから、

「親不孝もんだ。助手席は座れても後ろには座席がない。俺と母さんを乗せる気はないな」

 ポルシェには後部座席がない。

 確かに、父や母を連れてこの車でどこか行こうなどとは考えもしなかった。申し訳ない気持ちにもなったが、逆に「そんなこと期待してたのか」などと言ってしまった。父はそれでも怒らず、「まあいい。隣に女でも乗せてうちに連れてこい」そう言って笑った。

 

 駐車場から外に出て、マンションの敷地から片道二車線の広い道路にでた。この道路は孝志のマンションのすぐ北側で行き止まりになっている。用地交渉が進まないのと、予算が付かないため工事が進まないのだ。いずれは後二キロ伸びて国道につながる。だがそれまでは、孝志がいるマンションの専用道路みたいなものだった。

その上、道路の周囲はほとんどが田畑で人家はない。田園地帯の中に片道二車線の広い道路が十キロも伸びているのだ。

 だが、これだけ走りやすい道路も国道に通じず行き止まりとあっては、走る車もあろうはずはない。利用するのは農作業に向かうトラックや孝志の住むマンションの住人の車や、ほんのわずかだけど、抜け道に詳しい人だけだった。だからいつも道路は空いていて、孝志は思うようにポルシェを走らせることができた。案の定、平日の昼間は車一台走っていない。

孝志はアクセルを思い切り踏み込んだ。後ろから来る車もいなければ前にもいない。まるで貸し切り状態だ。孝志は前に広がる道路の空白を一気に埋めようと素早くギアチェンジをした。ポルシェは火を噴くように加速し、すぐに時速一〇〇キロに達した。

 ふと、部屋の鍵をかけ忘れたこと思い出した。それに財布まで置いてきてしまった。思い出した瞬間アクセルを緩めてしまったが、すぐにまた踏み込んだ。まあいい、財布の中には大した金は入ってないし、セキュリティのいいマンションだから泥棒もこないだろう。そう思うことにした。

今、病院では父の傍らで母が不安そうに付き添っているのかもしれない。父は意識があるのだろうか。それとも昏睡状態なのか? いずれにせよ、今、父は生死の境を彷徨っているのだ。

 

孝志は、一ヶ月のことを思い出した。

母が孝志にお見合いを勧めた。相手方の釣書や写真まで用意していた。

「勝手なことしないでくれよ。結婚したくなったら自分で見つけるよ!」そういって孝志ははねつけた。

 母は途端に泣きそうな顔になった。

 畑から帰ってきた父は、その様子を見て『やれやれ……』とばかりに軽いため息をついただけであとは何も言わなかった。

 母にはきつく言い過ぎた。と、後で後悔した。

別に結婚するのが厭なわけではない。いい女性に巡り会えば結婚したいと思っている。だが、親が段取りをつけ、その手順にしたがって生涯の伴侶を決めるのは厭だ。もし、そんな結婚をしたなら、なんとなく親の言いなりで、しかたなく結婚した気持ちになり、夫婦としてずっとやっていけるのか自信がない。だから結婚相手は自分で探し自分が決める。母にはそう言っていたのに、また見合い話をすすめている。

 

 もう少しスピードを出そうと思えば出せる。それでも孝志は時速一〇〇キロに押さえた。いつもそうしている。それでもスピード違反だということは分かっている。万が一スピード違反で検挙されても、このスピードならいくらかの罰金はかかるが、免許停止は短縮される。処分は軽いのだ。そんなことまで計算している。

だが、広い道路には、相変わらず前方にも後方にも車はいない。その上、道路の脇には歩道があり、そこから外は一面田んぼと畑だ。人や自転車が飛び出してくることもない。見通しもいい直線道路なので、何かあればすぐに反応できる。

今日は急ぐ。早く病院に行きたい。孝志はアクセルを踏み込んだ。

 

 三十五歳という孝志の年齢は、父や母にとって結婚できる瀬戸際のように思っている。父が母と結婚したのが三十五歳だったからだ。

 無口な父は女性とは縁がなかったのか、結婚は遅かった。それに孝志から見ても、父が女性にもてるようには見えなかった。

 市役所に勤めていた父は、謹厳実直を絵に書いたような生き方を貫いていた。孝志にはそう見えた。いったい何が面白くて生きているのか? 孝志は聞いてみたかった。毎日役所に通い、決まった時間に帰ってきて、すぐに着替えて、田んぼや畑を耕す。畑仕事がないときは、植木の手入れをしたり、庭の草をむしったり。とにかく働きづめだった。

 

 ポルシェのエンジンが最高にまで回転した後、孝志はアクセルをゆるめた。いくら道路が空いていても信号が赤では止まらざるを得なかった。道路が空いているのに信号で止まらなくてはならない。苛立たしさがこみ上げてきた。実際、止まっている間に前を横切った車は一台もない。そもそもこの交差点に信号はいらないんじゃないか。孝志は信号が青に変わる瞬間に備えてアクセルを小刻みに踏み込んだ。人通りも車もいない道路にポルシェのエンジン音だけが響き渡った。

 

 父が定年を迎えるのと同時に孝志も大学を卒業した。就職氷河期といわれていた時代だったが、孝志は運良く地元の新聞社に就職することができた。家族でささやかながら、父の退職と孝志の就職を祝ったものだった。 

役所に行かなくなった父は、ノンビリするかと思いきや、米作りや畑仕事に没頭し始めた。それまでは、作ったことのない作物を見つけては苗を植え、その手入れをし、収穫を喜び、また種をまく。別に大きな収入になるわけでもない。まるで働くネタを作るために種を蒔く。そんな感じだった。

「年金貰えるんだから、少しは楽して遊んだらどうだ」

 そんな孝志の忠告に耳を傾けることなど一切なかった。

「畑仕事って面白いんだよ。これが俺の遊びだよ」

 父は笑いながら言っていた。

 

 反対側の信号が黄色から赤に変わった。やがてこちらの信号が青になる。孝志はアクセルを踏み込こんでエンジンの回転数を上げた。ギアはローではなくセカンドにシフトした。ポルシェのパワーならセカンドからダッシュをかけても何ら問題ない。もしサーキットで走るならセカンドスタートだ。孝志は前方の信号が見つめた。アクセルは踏み込んだままだ。

信号が青に変わった。その瞬間、一気にクラッチをはずした。ポルシェは弾かれたように加速した。背中がシートに食い込むように張り付く。孝志はこの瞬間が好きだった。ポルシェは瞬く間に交差点から抜け出した。

遠くにある信号は青だった。あの信号が赤に変わる前に、交差点を抜けてやる。孝志はアクセルをゆるめることなく飛ばした。

 

 兄はもう病院に着いているのだろうか。孝志は着いていてほしいと思った。自分は間に合わなくても、せめて兄だけでも死に目にあってやれればいいと思った。兄は病院の近くの中学校で教師をしていた。学校にいたなら目と鼻の先である。すぐに駆けつけたなら今病院にいるはずだった。

 健二と舞は? 父が目に入れても痛くないほど可愛がっている兄の子供だ。幼稚園と保育所から病院に義姉が連れて行ったのだろうか? もし、父の意識があるのなら一目でも会わせてやりたい。

 初めての孫ができたときの父の喜びようは大変なものだった。男の子だったので、家の庭に大きな杉の棹を立て、何尾もの鯉を盛大にはためかせた。父が贅沢するのを目にしたのは孝志にとって、これが初めてだった。

兄夫婦は父の家に同居していた。だから父はいつでも孫を抱くことができた。小学校の教師をしている義姉の産休が終わり、勤め始めてからは父と母が孫の面倒を見ていた。父と母は、大変だと言いつつも、目は笑っていた。

 

 ポルシェのスピードは百キロを越えていたが、孝志はアクセルを緩めなかった。この道路以外ならこんなにスピードは出さない。ほかでは一応安全運転をしていた。今まで一度たりともスピード違反で警察に止められたこともない。密かな自慢だった。仕事柄、警察に出入りすることの多い孝志は、スピード違反の取締りをする日と場所をあらかじめ知っていた。別に特別に教えてもらっているのではなく、警察が公表しているのだ。ラジオでも放送している。今日は取締りのない日だった。ましてや交通量の少ないこの道路では取り締まりをやるはずもない。気をつけなければならないのはパトロール中のパトカーと、なによりも事故さえ起こさなければいいのだ。

 運転には自信があった。反射神経もいいほうだし、何よりこのポルシェはハンドル操作に敏感で、ブレーキ性能も抜群だった。だから、このスピードで何かがあってもかわすことはできる。そう思っていた。

 

 孫ができても相変わらず畑仕事を続けている父だったが、七十歳を過ぎてから、耕す田畑を減らした。さすがに身体が言うことをきかないと自覚したらしい。特に膝が悪くなったようだ。これは完全に使い痛めだ。孝志はそう思っていた。しかしそれでも父は、「せめて、自分の家で食べるものは作る」と言って、足を引きずるように働いた。三反の田に稲を植え、米を作り。家の裏側にある五畝ほどの畑に野菜を植えた。それまでに比べれば、かなり量は減ったが、野菜は食べきれないぐらいだった。とにかく、ふだん家で食べる野菜は全部作っていた。季節によれば二十種類ぐらいの野菜が畑にあるほどだった。食べきれない野菜は近所にお裾分けしていた。

「買ったって安いんだから、無理に作らなくても」

 だが、誰が言ってもやめようとしなかった。

 どうして畑仕事をやめないのか、それが分かったのは孝志がポルシェを買った時だった。昨年のことだ。

「どうしてまた、そんな車を買ったんだ?」

 父が孝志に聞いた。

孝志が中古とはいえ、一千万円もするポルシェを買ったのは、子どもの頃からの夢だったからだ。中学から高校生の時に流行った漫画の影響で、一度はスーパーカーに乗ってみたいと思っていた。そして今、三十四歳になっても独身。これまで働いて貯めた貯金はかなりある。これから先、結婚するかもしれないが、今のうちに欲しい物を買っておくのも悪くない。そう思ったのだ。父にはそう答えた。そして孝志は、一生働きづめで、人生に楽しみを求めようとしない、父の生き方を諫める気持ちもあった。『父さんも少しは人生楽しめよ』そう言いたかったのだ。

 だが父は、孝志の言うことを聞きながら笑った。そして、

「そうか。じゃあ夢が叶ったってわけだ」

そう言われて孝志は、何だか馬鹿にされたような気分になってしまい、無性に腹が立った。

「父さんは夢なんてなかったのか? やりたいことなかったのか? まさか、役所勤めが夢だったなんてことはないだろ? それとも畑か? この年まで働きづめで何が面白かったんだ?」

孝志はまくし立てるように父に言ったのだった。

 

次の交差点間近になって信号は青から黄色に変わったが、孝志は赤にならないうちに交差点を猛スピードで突ききった。目指すは次の交差点。遠くてハッキリ分からないが今は赤のようだ。このままスピードを緩めず車を走らせれば、やがて青信号に変わり、そして次の赤信号に変わるまでに交差点を抜けられる。

 

「俺は夢を叶えたぞ。それも二つだ。充分に満足している」

興奮気味の孝志に父は笑いながら答えたのだった。

「夢を叶えた? なんだい父さんの夢って?」

 いったい何を叶えたのか? 何が父の夢だったのか、孝志には見当もつかなかった。

 

 ポルシェは時速一一〇キロを超えていた。孝志はそれでもアクセルをゆるめなかった。片道二車線の広い道路はあいかわらず空いていた。対向車線は二、三台の車が走ってきたが、孝志の前方には車一台見えなかった。

 

 父は叶えた夢を話した。一つめの夢だ。

「お前には信じられないだろうが、一生腹一杯飯を食えるようにすることだ。物心ついた時から腹を空かしていた。一六や一七になってもな。とにかく食べるものがなかった。食える物は何でも食った。それでも腹が減った。信じられないだろうがそんな時代だったんだ」

戦時中、決して豊かではない家庭で育った父は、ほとんど芋で育ったと聞いていた。ところがその芋でさえ手に入らず、わずかな米をすいとんにして家族で分け合ったという。そんな話をよく聞かされたものだった。

「腹が減ることの辛さといったら、あんな情けないものはないぞ。空きっ腹抱えて泣きながら眠ったもんだ」

 父は遠くを見るような目で続けた。

「そんな思いはもう二度としたくない。子どもにもそんな思いをさせたくない。信じられないだろうが、そんなことをずっと考えていた」

 孝志は、実際信じられなかった。 

父は遠い昔のことを思い出しているように、どこを見るでもない目の柔和な笑顔だった。

「食べるものがなくて、南瓜の葉っぱやらアザミの葉っぱまで食べた。今考えたらとても食べられたもんじゃない。だが今は畑でいくらでも食べ物ができる。米や野菜を作っているのも、そんな思いからだ。少しでも動けるうちは食べ物を作りたい。やめられないんだよ」

 孝志は返す言葉がなかった。

 子どもには腹一杯食べさせたい。それが父の夢? そんなことが? そのために働いたのか? そのために働きづめか? 退職してもまだ働くのか? 孝志はどう考えても理解できなかった。今の時代、畑で作らなくても食べるものならいくらでもある。父だって、それに自分も買って食べるだけの収入は充分にある。それでも、畑で作らないと気がすまないのか。

 

 次の交差点の信号は青に変わっていた。このままのペースで行けば間に合う。孝志は念のため、さらにアクセルを踏み込みスピードを上げた。ポルシェは時速百二十キロに達した。だが孝志はアクセルを緩めることなく加速した。

 

「二つめの夢はなんだい?」

「それは……」

 父は孝志の問いかけに、言いよどんだように口を閉じた。

「なんだよ?」

「これも、言っても分からないだろうが。お前達だ」

「お前達って、俺と兄貴か?」

「そうだ」

「どういうことだよ?」

 父はどう説明すればいいのか、しばらく考え込んでから答えた。

「お前達が生まれて、すくすく育っていった。それも幸せだったが、今はもう一人前になった」

「俺や兄貴を一人前にすることが夢だったのか? そんなことが?」

「ああ。やっぱり分からないか……」

 分からなかった。

だが、後で母が言ったことで、なんとなく分かったような気もした。

「父さんは、お母さんと結婚してから、母さんの両親を自分の親のように大切にした。家族を持てたことが嬉しかったんだよ。お前達が生まれてからは、家族を守ることだけを考えていた」

 母の両親は父と母が結婚して間もなく、相次いで病気で亡くなったが、父は戦争で両親を失っている。大阪の空襲にやられたのだ。子供の頃に聞かされていた。

父は大阪から離れた軍需工場に動員され、ピストルの弾を作っていた。大阪の空襲を知った時に、父はすぐに帰ろうとしたが許されず、三日後に帰ってから、防空壕で死んでいる両親を見つけたという。おそらく窒息死だったのか、遺体はきれいなままで眠ったように死んでいたという。この辺の話が生々しく、子供心に恐ろしくて孝志は今でも覚えている。両親の死から、わずか一ヵ月後に今度は一人しかいない兄の戦死も知らされ、父は天涯孤独の身の上になってしまったのだ。

 終戦後、遠縁の親戚を頼って徳島にきてから、父はやっと平穏な暮らしをすることができた。当時、あまり人気がなかった役所に入ったのは、寡黙でコツコツと仕事をする父にはうってつけで、すぐに正職員となり、その後何年か経って、上司の仲人で母の家に婿養子として入った。父は再び家族を得ることができたのだ。ちょうど今の孝志と同じ歳だった。

 だが、いくら早くに家族を失い、辛い少年期をおくっているにしても、父は自分自身のために生きたいとは思わなかったのか? 孝志はそう思った。ひたすら家族のために働くのが生きがいだったというのか? 孝志には理解できなかった。子供を一人前に育て上げる。そんな当たり前のことで、夢が叶ったというのか……。

 

 次の交差点の信号はまだ青だった。この道路優先の信号で青の時間が長い。まだ距離はあるが充分抜けられる。孝志はスピードを緩めることなくポルシェを疾走させた。道路際に間隔を置いて植えられている欅の木が、まるで垣根のように連なって見えた。

 

「子供を一人前に育てるのは当たり前じゃないか?」

母にその疑問をぶつけてみた。

「それに食べ物に不自由させない。そんなことが夢だったなんて? それで、ひたすら家族のために働き続けて、定年過ぎても畑や田んぼで働くなんて俺には分からない」

 母はすぐに反応して答えた。

「今なら当たり前のことさえ叶わない時代に、父さんと母さんは育ったんだよ」

「それは分かる。だけど、戦争が終わって六十年過ぎてる。戦後の平和で豊かな時代を過ごしてきたじゃないか。それなのに、今だに戦争の苦しかった記憶に囚われているのか?」

 母は一呼吸入れるようにしてから答えた。

「あの頃のことは忘れられないよ。不自由なんてもんじゃなくて自由がなかった。食べる物だけじゃないよ。自由に考えることすらできなかった。想像できるかい? そんなこと」

 想像しなくても知っている。言論統制、思想弾圧。すべて軍国主義に塗り固められた時代があったことは。だが、たしかに知識して知っているだけで、そうなった時に、それがどんなに辛いかは想像もできない。

 母は続けた。

「うちは農家だったけど、うちの畑で採れた物さえ勝手に食べられない。供出させられてね。だけどそれでも都会にいる人よりはましだった。大阪にいた父さんはそれこそ大変だったと思う」

 

 青の信号に間に合った。

 交差点を抜けてから孝志はスピードを緩めた。さすがにここからは今までのように飛ばせない。この交差点から先は交通量も多くなる。だが、病院はもうすぐ近くだ。あと一つ信号のある交差点を抜ければ病院に着く。

できれば死ぬ前に父に声を掛けてやりたい。父が喜ぶのなら、嘘でもいい。『結婚するつもりだ』って言ってもいい。

 

 やはり、今でも戦争の苦しかった記憶に囚われている。戦争は、それほど深い傷を父や母に残しているのか。

だけど、それでも日本は力強く復興したではないか。今は揺らいだ不安定な時代であっても、戦後の経済成長は戦争を体験した人たちによって育まれた。だから、希望に燃えた人生だって経験しているはず。なのに、父だけは、自分自身よりも家族のために生きることが夢だったというのか? 

「父さんは、自分のやりたいことはなかったのか? いくら戦争で大変だったからって、子供に不自由させず、一人前に育てることが夢だったなんて。いくらなんでも……」

「違うよ。父さんは違う……」

「違うって何が?」

 母はしばらく黙ったままだったが、やがて茶の間に孝志を呼び寄せ、椅子に座った。そして孝志も座るように促した。

「大阪の空襲で父さんの両親、つまりあなたのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが死んだことは知っているでしょ」

「ああ。防空壕で死んでいたって聞いている」

「孝志は聞いていないと思うけど、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは抱き合いながら死んでいて、煤にまみれた顔には涙の筋がいっぱいあったんだって」

 そんな話は初めて聞いた。

「泣きながら死んでいったのよ」

 母も泣き出しそうな顔になった。

「父さんは、今でもその時の死に顔をはっきりと憶えているって」

 だから何なのか? 分からなかった。

「父さんは分かったのよ。死んでしまった自分の親が、どうして泣いていたのか。何が辛くて泣いていたのか。わかったのよ」

 それから聞いたことで、父の気持ちが分かった。父は戦争の苦しさに囚われているのではなかった。自分が苦労したから子供にはそんな思いを味合わせたくない。そんなことではなかった。

 

 交差する県道から車が流れ込んで、前方には何台かの車が走っている。もう飛ばしても意味がない。流れに乗って走るしかない。車や人通りがある道路でさっきのように飛ばせば、それでなくても目立つポルシェはなおさら人目を引いてしまう。それにこの通りはパトカーがよく走っている。ここまで来て検挙されてはたまらない。

それにしても、前の車はやけにゆっくりだ。もう少し速く走ってくれればいいのに。孝志は一瞬追い抜こうかとアクセルを踏み掛けたが思い留まった。もうすぐだ。あと五分もすれば病院の駐車場に入れる。そう言い聞かせた。

 

 なぜ泣きながら自分の親が死んでいるのか、父が分かったのは子供ができてからだという。母が話してくれた。

「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの間には、父さんと、戦死した兄さんの写真があったんだって。二人で抱きしめるようにしていたのよ……。それがあの写真」

 母は茶の間の壁に掛けてある写真を指さした。それは、孝志が物心ついた時からあるもので、父と父の兄であることは知っていた。だが、祖父と祖母が死ぬまで離さなかった写真とは知らなかった。

「何が辛いって、自分の子供のことが気がかりで死ぬに死ねなかったんだと思う。ずっとひもじい思いをさせたのも辛かった。兄さんが満州に行ったまま消息が分からないのも辛かった。それにまだ子供だった父さんを独りにさせてしまう。そればかりか、自分の子供を心配することすらできなくなる。そんな、当たり前のことが、できないまま死んでいったんだって」

 母の言うことが重く心に響いた。子供を育てるのは当たり前。と言ってしまったことを悔やんだ。

「自分が親になって初めて、あの涙の筋がどういうものかわかったんだよ。だから、自分の親ができなかったことを、代わりにやるのが夢だって言ったのよ」 

 母にその話を聞かされてから、父を見る目が変わったような気がした。自分から見れば、父はつまらない人生をおくっているように見えたが、父は自分の人生のなかで、戦争で死んでしまった両親のできなかったことを堅実にやっているのだ。そしてやり遂げた。孫の顔を見ることすらできた。つまらなくはない。つまらないと思ったことが今では恥ずかしい。

 いま考えれば、父の眼差しはいつだってやさしかった。たまに家に帰った時も、いつも嬉しそうに迎えてくれていた。いつまでも子供扱いされているようで反発もしたが、あれは、防空壕で涙を流しながら死んでいった、祖父母の愛もこめられた眼差しだったのだ。

 

 もうすぐ最後の交差点を抜けられる。

それにしても前の車は遅い。遅すぎる。

青信号に間に合えばいいが……。

 遅い! 間に合わない。信号が変わってしまう!

 孝志は素早く車線を変え前方の二台の車を追い越した。

 信号が黄色に変わった。

赤になるまでに交差点を抜けられるか?

間に合う! 

瞬時に判断した孝志は一旦緩めたアクセルを思い切り踏み込んだ。

ポルシェのエンジンは唸り声をあげ、放たれた矢のように加速し、交差点に突進した。

次の瞬間、麦わら帽をかぶった老人が道路を横断しようとするのが見えた。孝志の車には全く気づいていない。

孝志はアクセルから足を離しブレーキペダルを思い切り踏み込んだ。途端、タイヤの軋む音が炸裂した。

ポルシェは止まらなかった。タイヤがロックされたまま老人をめがけて進んでいく。

老人は車に気づき、来るな! と言うように両手を突き出した。

老人の顔がはっきりと見え、大きくなった。

「そんな? まさか!」

その瞬間、大型トレーラーが巨像の咆哮のようなクラクションをならして交差点を横切った。

老人は消えた。

 ポルシェは白煙を出しながらスピンして交差点の手前で停止した。

 孝志はシートベルトを慌てて外し、車から降りた。

 自分の車で人を跳ねた感覚はなかった。

あのトレーラーに跳ね飛ばされたに違いない。だが、トレーラーは何事もなかったように走り去っていった。

 孝志は老人を捜した。跳ね飛ばされ、道路の外に横たわっているはずだ。孝志は交差点の周囲を見回した。

老人はいない。どこにもいなかった。

道路にも事故らしき痕跡はない。

何事かと、後から来る車が孝志の方を見ながらゆっくりと通り過ぎていく。

 孝志は探すのをやめた。そして、そのまま道路に座り込んだ。

 あたりは何もなかったように静かになった。小鳥の鳴き声が聞こえた。

「父さんは大阪の空襲の時に、すぐに帰らなかったことをずっと悔やんでいる。もし、すぐに帰っていたら、防空壕から両親を助けられたんじゃないかって」

 母が言っていたことを思い出した。

「だから、家族を守りたいと心底思ってるんだよ」

 そう母に言われた。

 麦わら帽の老人の顔が浮かんだ。必死の形相で、『来るな!』と叫んでいるようだった。

 小鳥の鳴き声に混ざるようにスイートメモリーが聞こえてきた。孝志はそのメロディを夢のように聞いていた。

だが、それが携帯電話であることに気づいた。兄からだった。

「孝志、父さん今息を引きとった……」

 麦わら帽をかぶった老人は父だった。父が大型トレーラーとの衝突を止めてくれたのだ。

 父は最後の最後まで家族を守り、そして逝った。



                   了

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