カウンター

思いもよらぬ休暇だった。しかも二週間もある。刑事の杉田は退職してからでないと、こんなのんびりした時間は取れないと思っていた。ところが、事件の捜査に追われ、三ヶ月の間休みなしで働き続けたあげく、極度の過労で、あろうことか県警本部長の目の前で倒れてしまった。それで、強制的に休暇をとるよう言い渡されたのだ。

杉田は千葉県警捜査二課に所属し、主に汚職関係を捜査していたが、ちょうど市議会議員が絡む、贈収賄事件の捜査を終えたところだった。本当なら、次の案件にかかるところだったが、かかり始めるとのめり込んでしまうたちで、休む機会などほとんどなくなり、ついつい週一の非番も仕事に費やしてしまうのだった。そんな杉田にとって、降って沸いたような長期休暇は、まさに晴天の霹靂だった。休み中に何をするか悩んだ杉田は、まずは病院に行って精密検査を受けたが、元々、剣道で鍛えた頑丈な体であるため「悪いところはない。とにかく体を休ませること」と医者に言われた。身体を休ませろと言われても、どうしていいか分からない杉田は、とりあえず温泉のある所と思い立ち、千葉からそうと遠くはない湯河原に決めたのだった。特に湯河原を知っているわけでもなかった。たまたまインターネットで見た湯河原梅林が心に残っていたからだ。だが、行くと決めて、ガイドブックを読んでみると、湯河原温泉は万葉集にも詠まれた古湯で、万病に効く薬師の湯と言われている。体を休ませる杉田にとっては格好の温泉だった

東京から特急踊り子号に乗り、湯河原に着いたのは昼過ぎだった。予約している旅館は海沿いにあった。窓から海が見える所と思った杉田は、ネットで探し出し予約した。旅館まではタクシーに乗るほどの距離でもない。杉田はとにかく海の方向に足を向け歩くことにした。暖冬とはいえ二月中旬。空気が冷たかったが、電車の暖房で暖められた杉田の体には程よい気持ちよさだった。こんなにのんびりと歩くのは何年ぶりだろう、と考えながら歩く杉田の目には、日常の町の様子がなぜか新鮮に見えた。ただ、やはり職業柄か、駅からここまでやたらと「痴漢が出ます! 夜間注意!」と書いた張り紙が目についた。これだけ張り紙をしているとなると、かなり被害が出ていることは容易に想像できた。たぶん、地元の警察署も忙しい思いをしているんだろうな。杉田はそう思った。

杉田は警察官になって以来、仕事一筋を絵に描いたような働き方をしてきた。念願の刑事になってからはさらに拍車がかかった。その間結婚もしたが、全く家庭を顧みない夫に妻は愛想を尽かし、二年も経たないうちに家を飛び出してしまった。しかし、そんなことがあっても杉田の仕事ぶりは変わらなかった。家庭を失ったことで、かえって制約がなくなったかのごとく働いた。二課の仕事はテレビの刑事ドラマにあるような派手なものではなく、ただひたすら証拠資料を集め、四方八方から吟味し、立件に向け膨大な証拠を積み上げていく。気の遠くなるほど地味な作業を数ヶ月、事件によっては一年以上かけて続けるのである。ほとんどがデスクワークだった。そんな仕事を杉田は十年間続けてきた。そして体の変わり目とも言われる四十二の厄年になって過労で倒れた。幸い、過労による衰弱以外は悪いところはなかったが、医者は仕事依存症だと考え、仕事のことは一切忘れて休むよう勧めた。そして休む場所が温泉のある湯河原だったのだ。

予約していた旅館は純和風の木造りで、白い漆喰の壁に黒い柱が鮮やかだった。

外の門から、よく手入れされた庭木の間を、並べてある敷石のとおりに進むと、両開きに引き戸が開いている玄関にたどり着いた。すぐに仲居が気づいてくれて「いらっしゃいませ」と声をかけてくれ、女将らしき恰幅のいい女性も挨拶に出てきた。杉田は、女将と仲居の表情に驚いた。営業上にこやかにするのは、ファーストフード店やコンビニの店員もやっているが、この二人の笑顔は営業上とは思えない温かさが感じられた。

案内された部屋は、大きな窓から海が見えた。天気がよかったためか、海は穏やかで、あちこちに船が浮かんでいた。仲居の入れてくれたお茶を少しだけ飲んで、杉田は旅館の温泉に向かった。旅館には檜で作られた露天風呂があった。しかも湯船につかりながら太平洋が一望できる。杉田はこんなに長く湯に浸かったことはなかったが、程よい湯加減と海からの冷たい風が気持ちよかった。

夕食は海のそばだけに磯料理だの、とにもかくにも海の幸満載で食べきれるかなと思うほどの量だった。杉田はゆったりと日本酒を飲みながら堪能した。旅館に着いてからほとんどしゃべっていなかったが、少し酔ったせいか口が軽くなった。

「おいしいねこの魚。それに盛り付けもきれいで、食べるのがもったいないぐらいだ」

「ありがとうございます。しっかりと召し上がってください」

 部屋付の仲居は三十ぐらいの色白の美人だった。いくつかの部屋を掛け持ちしているのか、時折部屋に来ては何かと世話をしてくれていた。旅館に着いた時に最初に応対してくれたのもこの仲居だった。その時の「いらっしゃいませ」の明るく弾んだ声と自然な笑顔に、杉田は旅の疲れがいっぺんに吹き飛んだような気がした。考えてみれば、仕事以外で若い女性と話をすることはなかった。それだけに仲居の笑顔が新鮮だったのかもしれない。しかし杉田にとっては、これだけで、この旅館に来てよかったと思うほどだった。

「ところで、くる途中に痴漢注意の張り紙がかなりあったけど、痴漢が出るの」

「そうなんです。ここのところ頻繁に」

「頻繁に! それは大変だね」

「警察の方も頑張ってくれていますし、地元でパトロールもはじめたので、もうすぐつかまると思いますけど……」

 たぶん、地元の警察は厳戒態勢を強いているのだろう。それに一般市民も警戒している。しかし逆に犯人は捕まえにくくなっただろう。通りすがりの痴漢の逮捕は、現場を押さえるか、これまでに同様の罪を犯した者や、まだ犯行にはいたっていなくても、その可能性があるものをマークして捕まえる。この方法しかなかった。警察はすでにマークした容疑者はいたはずだ。ところがたぶんはずれだった。そうすると現場を押さえるしかなくなるが、警察はもとより、一般市民までが目を光らせているとなると、痴漢もそうそう出てこられない。犯行は抑えられるが犯人は逮捕しにくくなる。

「杉田様、明日はどうなされます? 御予定は何かありますか?」

 考え込んでいる杉田に、遠慮がちに仲居が尋ねた。

 杉田は、こんなところまで来て、痴漢逮捕の心配をしている自分が可笑しくなって、顔がほころんでしまった。仲居はそんな杉田を見て、笑顔を見せて返事を待った。

「予定はない。ここに来たのはただノンビリ休養することなんだ。過労で倒れちゃってね、しかも社長の真ん前で。それで強制的に休養を命じられたって訳だ」

仲居はびっくりしていた。

「それは大変でしたね。でもここの温泉に来たのは正解ですね。毎日ゆったりとお風呂に入れば疲れはとれますよ。なにしろここには、湯治客の方もたくさんいらっしゃいますから」

「湯治か……そんなに悪くはないんだよ。ノンビリするといっても退屈するからね。だから湯河原梅林でも見に行こうかと思ってる」

「梅なら今が見頃ですよ。よろしければ明日私がご案内しましょうか」

「えっ、君が連れてってくれるの」

「はい。当旅館のおもてなしです」

仲居はそう言って小首をかしげて微笑んだ。

「うれしいな。じゃあお願いするよ」

「よろこんで」

 杉田は実際うれしかったが、それよりも仲居が旅館に着いたときに見せた、あの爽やかな笑顔で応えてくれたことがもっとうれしかった。

「ところで、君のことなんて呼べばいいのかな」

仲居は藍染めの着物の胸につけた名札を見せながら

「夏美って呼んでください」

「じゃあ夏美さん、明日お願いします」

「はい。お供させていただきます」

夏美は明日の時間の打ち合わせをしてから、食事の片づけを終えて部屋を出た。

 ノンビリ休養するといわれても、休暇などほとんどとらなかった杉田は、何をどうして休養するのか、見当もついていなかった。どうせ退屈するに決まっているから、何か仕事でも持ってこようかと思ったほどだった。しかし、来てみるとそうでもなかった。温泉もいろいろ湯船があってそれだけでも楽しいのに、その上に露天風呂から見る海は、飽きることなく眺められる。梅林をはじめ、見るところもたくさんありそうだった。そもそも観光など、縁のなかった杉田にしてみれば、何もかもが新鮮に写ったのかもしれない。そして、この旅館の心のこもった接客にも驚いた。夏美はもとより、旅館内ですれ違う他の従業員の態度も気持ちよかった。こちらに着いてもなお、やりかけの仕事のことを考えていた杉田だったが、だんだんと仕事のことを考えなくなっていた。そしてぐっすりと眠った。

 翌朝、目を覚ました時には陽は高く上がっていた。あさの八時半。ということは十二時間も眠ったことになる。自分でも驚いたが、まだ体が休養を求めているのかもしれない。杉田はまた寝ころんで天井を見上げた。さて、今日も休み。どうしようか……と考えた。すぐに、こんなゆったりした時間は学生時代以来かな……などと思いをめぐらせていた。今日はあの夏美さんが梅林に案内してくれる。その時間までに朝風呂に入って、それから朝食。なんて優雅な時間だろう。普段は朝風呂どころか朝食さえとってなかった。その代わり昼には大飯を食らう。そんな日々を繰り返していたのだ。ところが今日は温泉の朝風呂に入るのだ。しかも海を見ながら湯に浸る。朝飯は間違いなくおいしいだろう。ご飯とみそ汁だけでも充分だが、おそらく一夜干しの魚や、卵焼きなんかが出てくるに違いない。そしてさっぱりとした漬け物も… 杉田は急に腹が減ってきた気がして起きあがった。

 朝食を済ませた杉田は、ロビーで新聞を開いた。どうしても目がいくのは社会面だった。以前に東京地検の依頼で、手伝ったことのある、国会議員の汚職事件の捜査が本格的に始まった。新聞はその記事を大々的に載せていた。杉田はその記事をむさぼるように読み、さらに別の新聞の記事も読みあさった。杉田が聞いている情報では、立件するのはかなり難しく思えた。それでもなお、強制捜査に踏み切ったのは、何か有力な情報が得られたのかもしれない。新聞記事の中にそれらしきものがあるか、それを探していた。

「あの……杉田様、おはようございます」

 遠慮がちに夏美が声をかけてきた。

 杉田は夏美の顔を見て我に返ったように新聞をおいた。

「ああっ、おはよう」

「梅林にご案内する時間ですが、もう少し新聞を読まれますか」

 なにやら夏美は心配げな面持ちだった。

 杉田は自分の顔が、新聞を読んだことで、すっかりと仕事をしている時の顔になっていたことに気づいた。実際、見出しを見たとたん釘付けになった。そして自分が知っている情報とつきあわせながら読んでいた。その時の顔つきが夏美を怖がらせたのかもしれない。犯罪を捜査し、容疑者と直接向かいあう刑事の顔は、だんだんときつくなり、隙のない研ぎ澄ました顔つきになってしまう。それがそのまま出てしまったのだ。

「いやいいんだ。もう充分読んだから」

 杉田は照れるような笑みを浮かべて応えたが、どこかぎこちなくなっていた。

 夏美は昨日の着物姿とはうってかわって青いスラックスに茶色のセーターと軽装だった。昨日は束ねていた髪も、今日は長くのばしたままだ。杉田には、昨日は綺麗だったが、今日は可愛く見えた。

 夏美の運転する軽四輪の箱バンに杉田は乗り込んだ。

「すみません、こんな車で。でもそう遠くはないですから」

 夏美はそういいながら車を走らせた。後部座席に乗った杉田はバックミラーに写る夏美の表情を伺いながら

「この車で充分さ。君が案内してくれるって事が、僕にはもったいないぐらいだよ」

 夏美はクスッと笑いながら

「お上手ですね。でもさっきは怖い顔してましたよ」

やはり、怖がらせたのか杉田は内心苦笑した。

「仕事関係の記事が載っててね。でも直接関係ないところだから問題ないんだけど」

「お仕事のことは忘れましょう。過労で倒れたんですからノンビリしてください」

夏美は明るく弾んだ口調で諭すように言った。

「そうだった……。ここまで来て仕事の顔してたんだな」

また夏美はクスッと笑った。杉田も笑ってしまった。

 車は海岸沿いを走る国道から、昨日歩いた駅に続く道に入り、すぐに右折して少しだけ狭い道に入った。人通りはほとんどないが夏美は車のスピードを落として走った。前方に二人の男が歩いていた。一人はスーツ姿だったが、もう一人はジャンバーを来ていた。杉田はすぐにそれが刑事だとわかった。おそらく聞き込みをしているのだろう。聞き込みは当てのない地味なものだった。杉田もかつて一課に所属していた時は、脚が棒になるほど歩きまくった。一日中回っても有力な情報どころか、何の収穫もない日がほとんどだった。痴漢が出はじめてからおよそ三ヶ月になるが、今も聞き込みをしているとなると、捜査は行き詰まっているのだろう。おそらく休み返上で捜査を続けているに違いない。杉田には手に取るように分かった。

「ほら、梅林が見えましたよ」

考え込んでいた杉田は、夏美の声を聞いて顔を上げた。

 いつの間にか車は山を登る道に入っていた。そして梅林が見え始めた。山の斜面に少しピンクがかった雲がかかっているようだった。その背景には真っ青な空があった。

 やがて、車は梅林に一番近い駐車場に着いた。

「ここからは少し歩かないといけないんです。一番上に行くと梅林全体を見下ろす所があるんですけど、杉田様お疲れでしょうからこの付近だけ散策します?」

「上までどのくらいかかるの」

「一五分はかかります」

「それなら行ってみるよ」

「でも無理なさらない方が……」

「いや、大丈夫だよ。行ってみたいんだ」

 夏美は心配そうに杉田を見つめていたが、杉田がきっぱりと行きたいと言ったのを聞いて「じゃあ、行きましょうか」と答えた。

 平日にもかかわらず梅林にはかなりの観光客がいた。中にはリュックサックを担いでいる者もいる。杉田と夏美はその一団にとけ込むように梅林にはいった。

 杉田は、花を見にどこかに行ったという経験はなかった。どこかで綺麗な花を見かけても一瞥するだけで、花の名前など思いも浮かばない。それが、今日は梅の花を見るためだけに来ているのだ。まじまじと花を見るのが何だか照れくさく感じた。それでも紅梅をよく見てみると、柔らかい紅色を梅の木はどうやって作り出すのか不思議に感じた。白梅の清らかな白さも、この白がYシャツになったらどんなに綺麗だろう。そんなことを考えた。

 まだ疲れが残っている杉田にとって山の登り道は少しきつかったが、かすかに匂う花の香りが気を紛らせたのか、杉田の脚は軽やかに動いた。

「もうすぐ梅林の一番上です。大丈夫ですか?」

 夏美が後ろから声をかけてくれた。

「大丈夫! 気持ちいいよ!」

杉田が元気よく答えたので、夏美は安心したように笑った。

 梅林全体がよく見渡せるベンチに夏美は杉田を座らせた。

「四千本の梅の木が植えられているんですよ。かなり有名になって、今では東京からもたくさん見物の来られてます」

 なるほど、見に来る値打ちはあるよな。杉田はそう思った。上から見ると梅の花は絨毯のように山の斜面をおおっている。

 夏美は持ってきたポットのお茶を入れ杉田にすすめた。短い時間とはいえ山を登った杉田はのどが渇いていた。

「うまいね……このお茶」

「おいしく感じるのは、ここで飲むからかもしれませんよ」

 そうに違いないと杉田は思った。こんな景色を見ながら飲むんだから。

杉田がふだん飲むお茶は、食事の時に喉をしめらせるか、食べたものが喉を通りやすいようにする。あるいは喉が渇いた時に、出されたお茶をグッと飲む。お茶とはそういうものだった。ところが今は、梅の花を見ながらゆったりとお茶を飲んでいる。こうやって飲むと、お茶の温かさと香りが体にしみわたるような気がした。

夏美が笑みを浮かべながら杉田の顔を見ていた。

「杉田様。旅館に来た時に比べてお顔が柔らかくなってきましたよ」

「えっ、そうなの?」

「はい。初めてお見かけした時は、張りつめたようなお顔でした」

「そうなんだ?…」

「お仕事で相当お疲れになったんですよ」

 杉田は、倒れたとはいえ二週間も休むほど、体が弱っているとは思っていなかった。それなのに医者も上司も、仕事のことを忘れてしばらく休めと言った。杉田は納得がいかなかった。が、休暇は上司の命令だった。さらに、医者は仕事依存症などと訳の分からないことを言い出した。納得のいかないまま湯河原に来たのだった。ところが夏美は、初めて杉田の顔を見た時に何かを感じたのかもしれない。

「こちらにいる間はもっとリラックスしましょう。杉田様」

「リラックスか……」

「そんなに考え込まないでください。ノンビリと温泉につかったり、海や山を見たりすればいいんですよ」

 それはそのとおりで、ノンビリするためにここに来たのだ。だが、そうはいっても頭の中ではついつい仕事のことを考え、これから取りかかる事件で気づいたことがあれば、持ってきた手帳にメモまでしていた。新聞を開けば、関わった事件の記事をむさぼり読む。痴漢注意の張り紙を見て、こちらの警察の動きにまで考えを巡らせていた。

「この梅林、明後日の夜からライトアップされるんです。すごく綺麗ですよ。またご案内しますから見に来ませんか」

「ライトアップか。うん見たいな」

 杉田が嬉しそうに答えたので、夏美も微笑んで頷いた。

 旅館に帰った杉田は、長い時間をかけて温泉につかった。露天風呂から見える海には何艘かの船が浮かんでいた。漁船なのか釣り船なのかは分からない小さな船と、遠くにはタンカーらしき船や、大型フェリーのようなものも見えた。それぞれの船に仕事をしている人や旅をしている人が乗っている。旅をしている人はどこに行くのだろうか、何を考えながら海を見ているのだろうか。ひょっとしたら向こうからも陸地を見ているかもしれない。杉田はそんなとりとめのないことを考えながら、湯船でまどろむようにしていた。

 温泉から出て、いったんロビーに出たところで夏美が現れた。もう着物に着替えていた。

「温泉はいかがでした」

「うん。気持ち良かったよ」

「いい顔色になっていますよ」

「ちょっとのぼせたかもしれないな」

「ここの温泉は疲労回復によく効くんですよ。それにお肌にもいいんですよ」

「ああ、美人の湯って書いてあったけど、夏美さんも入ってるんだ。だから綺麗なんだね」

「まあ!」

 夏美は笑いながら頭を下げてロビーの奥に向かった。

 杉田はロビーのソファーに座って、届いたばかりの夕刊に手を伸ばした。朝読んだ記事の続報が載っていないか探したがなかった。だが、湯河原の痴漢騒動という記事が大きく載っていた。捜査難航、観光に悪影響などと書かれていた。現在のところ被害にあった女性は十人もいるという。怪我をした人はいないが、中にはバッグをとられた者も数人いるため、警察は窃盗犯としても捜査しているとのことであった。犯人は神出鬼没で、警察のパトロールや、市民の目をかいくぐって犯行に及んでいるらしい。犯行時には顔を隠す目出帽を着用しているため人相は全く分からない。服装などについては書かれていなかった。

 杉田は記事を読んですぐに疑問を感じた。この犯人は痴漢が目的ではなく窃盗が目的ではないか。痴漢を装い追及の目をそらす。当然若い子が狙われやすいが、年配の女性は油断する。そこが狙いかもしれない。もしそうだとしたら、この湯河原に当分居着くはずだ。現に警戒が厳しくなっても、ここに居着いて犯行を繰り返している。ここに居着く理由はなんだろう。どんなことが考えられるだろうか。犯行を繰り返すなら、ここを離れた方がやりやすいはずなのになぜ? どうして?……。杉田は座ったまま、固まったかのように動かなくなっていた。

 夏美が呼びにくるまで杉田はロビーで座っていた。夕食の準備ができたのだ。

 部屋の机にはすでに料理が並べられていた。昨日とはすっかり内容が変わっていた。刺身にしても昨日はマグロだったが今日は白身の魚だった。鍋にしても昨日は肉類だったが、今日は牡蠣が中心だった。杉田は黙々と料理に箸を伸ばしていた。

 今日も夏美が料理を運んできては時々お酌もしてくれた。

「夏美さん、湯河原に大きな病院はありますか」

 だまって食事していた杉田が急に聞いてきたので、夏美はびっくりした顔になっていた。

「ありますけど、お体の調子が悪くなったんですか」

夏美が深刻な顔つきで逆に聞いたので杉田は慌てた。

「いや違うよ。僕は大丈夫。調子がいいぐらいだから」

 杉田は、夏美の不安を打ち消すように言ったが、夏美は心配そうな顔つきのままだった。

「でも、今日お疲れになったんじゃあないかって思って… さっきロビーでお見かけした時のお顔が、また張りつめたような感じがして……」

「えっ……そうだったの」

 杉田は、あの時自分が仕事の顔になっていたことに気づいた。

 ロビーで考えこんでいたのは痴漢の容疑者のことだった。同じ町で犯行を繰り返すにしても回数が多すぎる。しかも、警察が厳戒態勢をしいていることを、犯人も十分わかっているはずだ。それでもやっている。たぶん、犯人はここから遠くに行けないのかもしれない。そして、金に困っているのだ。遠くに行けない犯人。警察の捜査がおよばない所。杉田はそれがどこなのか考えていた。

 だが、そんなことを考えていたなどと夏美に説明できなかった。ここでは警察官の身分を隠している。別に隠さなければならない理由があるわけではない。ただ、警察官というだけで怖がる人もいる。怖がらなくとも、どこかしか特別の配慮をされる。それが煩わしくて、杉田に限らず、たいていの警察官はプライベートでは身分をかくしているのだ。そして、犯罪捜査を行う刑事は特にそうだった。

「思い出したんだ。学生時代の友人が湯河原で療養しているってことを。それでこの機会に見舞ってやろうかと思って……」

夏美の納得のいかない顔つきに、杉田は口ごもってしまった。とってつけたような誤魔化しようが夏美には通じなかったらしい。

「病院の名前はわからないのですか?」

「わからない」

「それじゃあ難しいですね、お友達をお探しになるのは。誰それさん入院してますかって聞いても、教えてくれない病院が多いですから」

「そうか。じゃあ仕方ないね」

 杉田は内心ほっとした。

「杉田様、まずご自分のお体のことを考えてくださいね」

「ありがとう。そうするよ」

「何かあればすぐにお呼びになって下さいね」

「心配かけてすまないね」

「いえいえ、とんでもございません」

 夏美は笑顔で答えながら部屋を出て行った。

 翌朝、昨日とは違って朝六時に目覚めた杉田は、すぐに風呂に向かった。露天風呂から見る海はまだ暗かった。朝の冷気は肌を刺すようだったが、湯船につかればどうということはない。しばらくすれば、湯から出ている顔に冷たい風があたって気持ちいいぐらいだった。さて、今日は何をしようか。杉田は考えていた。何もしないのがノンビリすることだと言われても、何もしないってどういうことなのか。杉田には経験のない領域だった。

 痴漢騒動のことが気になった。犯行の状況から見て犯人像は絞り込めるはずだ。こちらの警察はそのことに気づいているのだろうか。いっそのこと地元警察に乗り込んで、これまでの捜査の状況を聞きたいと思った。だが、もちろんそんなことはできない。千葉では敏腕刑事として名が売れているが、他の県ではまったく関係ないのがこの世界だ。

 考え込んでいるうちに海が明るくなってきた。日の出だった。

 水平線が赤くなっている。海は太陽が出てくるところだけが赤く、空は水平線に沿って赤色が広がっている。そのうち太陽が少しだけ顔を出しただけで、海は赤からだんだんと黄金色に輝きだした。光が波に揺られてキラキラしている。杉田は自分の顔に、その光が届いていることを感じた。

 朝食は自分の部屋ではなく、ほかの客も一緒に食堂で食べることになっていた。今日は杉田のほかに四組の客が食べていた。ほとんどが定年を過ぎている感じの夫婦連れで、小さな声で話しながら食べていた。一人で食べている杉田は、なんとなく肩身の狭い心持になってしまった。そして、別れた妻のことを思い出した。未練があるわけではないが、今でも一緒に暮らしたことを思い出してしまう。別れたのは十年前だった。あの時はそうは思わなかったが、今になってみれば自分が悪かったと、はっきり思えるようになっていた。捜査に明け暮れた毎日。家に帰るのはいつも深夜だった。帰らない日もあった。経験を重ねるにつれ、頼られる存在になり、まだ若いにもかかわらず捜査の全体を掌握する。そんな立場にまでなった。手が抜ける状況ではなかった。だが、その結果自分は家庭さえ持てない人間になってしまったのだ。仲良く朝食を食べている夫婦を見ていると、自分が惨めに思えてきたのだった。

「杉田様、おはようございます」

 夏美がいつもの爽やかな笑顔で声をかけてくれた。

「今日はこのあとどうされますか。どこか見て回られます?」

「いや、今日はのんびりするよ。夏美さんのいうとおり、自分の体をいたわるようにする」

「いい心がけですね。でも、もし何処か行かれるようでしたら声をかけてくださいね」

「わかった。ありがとう」

 夏美はその返事を聞いて微笑んで行った。

 今朝の日の出を見て、杉田は心底のんびりしようと思った。仕事のことはもちろん、こちらの痴漢騒動のことにまで、考えをめぐらせている自分が馬鹿らしく思えてきた。

 朝食をすましてからロビーで新聞を広げた。昨日の朝読んだ事件の続報はあるにはあったが、杉田にしてみればどうでもいい記事だった。痴漢騒動の記事は一行も載っていなかった。実際、載ってないほうがいいのだ。捜査もやりにくくなるし、観光への風評被害も考えられる。マスコミは、なんでもやたらと書きたがるが、捜査している者にとっては、新聞報道が邪魔な時もある。警察はできるだけ情報が漏れないようにしているが、どこでどう分かるのか、記者は大まかだが正確な記事を書いている。その上、今後の見通しまで書く。全く困ったものだ。杉田は、先行しすぎる新聞報道で、苦い思いをしたことがあった。千葉であった連続強盗事件を担当した時だった。犯行の手口を細かく分析すると、犯人像が具体的に浮かび上がってきた。職業やら年齢やら住んでいる地域、そして地方の訛りがあることまで。ここまで絞り込めると、捜査はぐっとやりやすくなるのだが、絞り込んだ捜査は始めるや否や、一新聞がすっぱ抜いてしまった。他の新聞も後追いするように記事を書いた。当然、犯人も記事を読んで、危ないと思ったのか姿をくらました。結局、犯人は特定できたが、五年たった今も指名手配中である。

わずかな情報だが、湯河原の犯人像も特定できる。罪を犯すものはどれだけ巧妙にやったとしても、必ず足跡を残している。ましてや、金に困った者の犯行は巧妙どころか、そこかしこに自分の姿を垣間見せている。湯河原の痴漢騒動の犯人も金に困った者の犯行だ。そして何らかの理由で湯河原から離れられない。金が足りなければ、また犯行を繰り返すだろう。杉田は間違いないと思った。だが、同時に自分には関係のないことと、これ以上考えないことにした。

 部屋に帰った杉田は、窓のそばにある椅子に座り、ぼんやりと海を見つめていた。浜辺で散歩している人が見えた。今日も風もなく、陽射しもあるので暖かかそうだ。何もしないで部屋にいるのも退屈なので、杉田も行ってみたくなった。

 杉田が海に散歩に出かけたのは、旅館で昼食を済ませてからだった。結局朝のうちは、ぼんやりと海を見つめているうちに、暖かくて気持ちよくなり、横になったとたん眠ってしまった。これまで、昼寝などしたことはなかったが、昨日も今日もたっぷりと昼寝をしていた。その上、夜もぐっすり眠っている。体が休養を求めているのだろう。そして、仕事と遮断された湯河原にいることがいいのかもしれない。

 一応フロントに、浜辺に散歩に行くことを告げてから外に出た杉田は、浜辺への道をゆっくりと歩いた。湯河原の中心街から離れた町並みは静かなもので、人と逢うこともなかった。前方に自動販売機がありタバコを買っている男がいた。どうという光景ではないのに目についたのは、その男が派手なパジャマを着ているからだ。男はタバコを取って、すぐに開けて火をつけた。杉田がその男の前を通り過ぎたところで病院の看板が見えた。さてはと思った杉田が振り返ってみると、さっきの男はタバコを吸いながらこちらに歩いてきていた。入院してタバコをとめられているが、我慢できないのだろう。こっそり病院を抜け出してタバコを吸いに来たに違いない。杉田が病院の前を通り過ぎてから振り返ると、案の定、男は病院の前でタバコをもみ消して中に入っていった。

 やがて、目の前に海が現れ波の音も聞こえ出した。外洋に面しているこの浜は、普段は波が高く、サーファーも来るらしいが、今日は穏やかな波で、ましてや二月なので浜辺には誰もいなかった。浜辺に下りた杉田は砂の感触を確かめるように歩いた。海に来たのは二十年ぶりかもしれない。別れた妻にせがまれて海水浴に行ったことがあった。それ以来だ。その時の妻の水着姿が脳裏に蘇ってきた。同時に自分のたくましかった体も思い出した。あれから二十年、今の自分の体はどうだ。筋肉は落ち、少しだが腹も出ていた。おそらく別れた妻も、二十年の歳月を刻んだ体になっているだろう。もし、今も一緒だったら、今朝食堂で見かけた夫婦連れのように、湯河原に来ていたかもしれない。今更ながら、別れた妻が懐かしく思えてきた。

 波の音にまぎれて遠くから声が聞こえた。

「杉田様! 杉田様!」

夏美が手を振りながらこちらに走ってきた。

やがて、杉田の前にたどり着き、はずんだ息を整えてから、

「お出かけになるなら、声をかけてくださればよかったのに」

「いや、ふらっと歩いてみたかっただけだから…」

たかが、散歩にまで付き合わせるわけにはいかない。杉田はそう思っていた。

夏美は息を整えるためにまた一呼吸おいた。

「でも、お体の具合が心配で……昨日、梅林でご無理をさせたんじゃないないかなって……」

「心配ないよ。それに昨日は気持ちよかった」

夏美は一瞬杉田の顔を見つめて

「でも、夕べ病院のこと聞かれたでしょ。もし具合が悪くなっていたら大変ですから」

「ああ、そうだったね。でも、本当に僕の具合が悪くなったんじゃないから」

「ほんとうですか?」

「ほんとだって!」

夏美は、しばらく間をおいてから、

「よかったー!」と言ってしゃがみこんだ。

杉田には合点がいかなかった。いくらなんでもここまで心配してくれることが。

「ほんとのこと言っちゃいますと、昨日の夜女将に叱られたんです。過労で倒れて休みに来た方を、梅林の上まで歩かせちゃだめだって」

「そうだったの……でも僕は行きたかったし、君の責任じゃないよ。それに体は順調に回復してるよ。ご飯は美味しいし、グッスリ眠っているし」

「ほんとうに?」

「ああ、ここに来てよかったって思ってる」

夏美はほっとしたような笑顔になった。

「だけど……ずいぶん心配されているんだな……僕は?」

杉田の疑問を聞いて、夏美はふっきれたような感じで、

「実は……最初に杉田様を見た時から女将さんも私も心配だったんですよ」

「えっ、どうして?」

夏美は歩きながら話し出した。

「お顔の色も悪かったんですけど、立っている姿が疲れきっているように見えたんです。それに、張り詰めたような表情でした。私はまだまだ未熟ですけど、うちの女将は一目見ただけでお客様の体調が解かるんです。杉田様は私にも相当疲れてるってわかりました」

杉田は驚いた。旅館に来た最初から気を遣われていたのだ。

「だけど…そんなに疲れた顔だったのかな?」

杉田はその点ではまだ納得がいかなかった。

「それはもう。何かの弾みで倒れるんじゃないかって女将さんが言ってました」

「いくらなんでもそれはないよ」

「でも、過労で倒れたんでしょ」

「そうだったな……」

そうだ。過労でいきなり倒れたからこそ、今ここにいるのだった。杉田は倒れた時のことを思い出した。県警本部長に捜査の結果を報告する最中に、書類の字が見えなくなりそのまま気を失った。

夏美は振り返って杉田を見つめてから

「でも、初めてお逢いした時に比べて顔色もよくなりましたし、表情も柔らかくなってきましたから少し安心してたんですけど、夕べ入院できる病院はってお聞きになるので……」

そうとは知らずに余計なことを聞いてしまった。杉田は後悔した。

「余計なこと聞いちゃったな。実は……病院のことを聞いたのは、痴漢騒動の記事を読んだからなんだ」

夏美はびっくりした顔になった。

「大学で犯罪心理学を専攻してたんだよ。記事を読んでひらめいたんだ。犯人は入院している患者じゃないかって」

夏美は、返事をしないまま続きを待っている。

「犯人は痴漢が目的じゃなくて、女性のバッグが目的じゃないかなって。つまり、金が目的なんだってね。それに、これだけ警戒されているのに、何度も同じ町でやっているってことは、この町から離れた所に行けないんじゃないかって。離れた所に行けない人って考えると、入院している人もそうじゃないかって」

 夏美はまだびっくりしたままだった。

「でも、単なる推理だよ。暇つぶしに考えていただけだよ」

杉田は、笑いながら言った。実際おかしかった。よその県の事件まで、あれこれ推理していた自分がおかしくなったのだ。

「そうだったんですか。でもすごいですねそんな推理をしていたなんて」

 今度は夏美も納得したようだった。杉田にしても、ここまで言って納得してもらわないでは困る。

「素人の推理だからね。ほかの人に言っちゃあだめだよ。入院している人に怒られちゃう」

夏美は黙ってうなずいた。

「気を遣ってもらって悪かったね」

「いえ、とんでもございません」

夏美はすっかり納得した様子だった。

「でも、杉田様。お体が弱っていることは間違いないんですから、これからもしっかりと気を遣わせてもらいますよ」

夏美が微笑みながら、きっぱりと言ったので、杉田は苦笑して頷いた。夏美はしばらくしてから「早く帰ってきてくださいね」って言いながら、小走りで旅館に帰っていった。

 浜辺から帰った杉田は、冷えた体を温めようとすぐに温泉に向かった。お気に入りの檜の露天風呂は、湯気を出して杉田を待っていたかのように満々と湯を蓄えていた。杉田が湯につかるとその分、湯があふれ出す。杉田はこの瞬間が好きだった。なんとも贅沢な気分になる。いつものように檜の板にもたれてゆったりと海を見る。これも贅沢な気分だ。

 また、まどろみながら、浜辺での夏美との会話を振り返っていた。『立っている姿が疲れきっていた。張り詰めたような表情』そう言っていた。自分では気づかなかったが、他から見れば俺はよれよれだったんだ。湯河原梅林まで夏美が案内してくれたのは、一人で生かせるのが心配だから付いてきたんだ。この旅館の気配りの良さには驚くほど感心していたが、客の体調まで考えて、さりげなく配慮する。そこまでするのが夏美の言う、この旅館のもてなしなのか。杉田は改めて感心したが、同時に少しガッカリした。夏美の優しい配慮は、この旅館のもてなしで、特に自分に向けたものではないのだ。それは当たり前の事とはいえ、暖かい日射しのような夏美の笑顔が、自分だけに向けられていることを微かに期待していた。ずいぶんと虫のいい期待であることは分かっているが、そう期待させるほど夏美は魅力的であり美しかった。

 杉田は温泉から上がると、いつものようにロビーのソファーで寛いだ。ちょうど女将に出くわしたので、わざと元気に挨拶し、体調が良くなったことを話した。女将は嬉しそうな顔をして聞いていたが、「まだ、ご無理なさらないように」と、やんわりと釘を刺すように言った。どうやら、杉田の考えていることを見透かしているようだった。夏美の言うとおり、この女将はすごい。杉田はそう思った。

 夕刊はいつも三紙あった。杉田は暇なのですべて目を通している。社会面に湯河原の痴漢がまた出たという記事が載っていた。被害にあった女性に怪我などはないが、バッグを奪われそうになったという。やはり、痴漢ではなく窃盗が目的だったのだ。幸い、大声で助けを呼んだため、犯人はあきらめて走り去ったという。警察は湯河原付近を緊急配備して犯人の行方を追ったが、足取りはつかめなかったようだ。杉田はこちらの警察が、どんな捜査方針を立てているのか気にはなったが、もう考えまいとすぐに新聞をたたんだ。

 三日目となると、豪勢な夕食に少しばかり飽きてきた。本当なら、ふだんの生活のように普通の飯でもいいぐらいだった。杉田のふだんの夕食は、県警本部の近くにある定食屋で、鯖煮込み定食や、トンカツ定食、野菜炒め定食など自分なりに栄養のバランスを考え、メニューを選び食べている。食べればまた本部に戻り仕事を続け、夜遅くなって腹が減っていれば、帰りに立ち食いのそばかうどんを啜る。そんな生活だった。今はその立ち食いそばが食べたいぐらいだった。だが、ここでそんなものを注文するわけにはいかない。いくら気配り抜群でも、夕食は今日も豪華絢爛に違いない。

 案の定、今日も机の上には幾品もの料理が並び、それぞれが私を食べてと言わんばかりに、色とりどりの装いでお皿の上に静座している。手間暇かけて作っている板前さんには申し訳ないが、粗食になれている杉田には、三日連続はきつかった。よく気が付く夏美も、杉田がそんなことを考えているとは思わないらしく、相変わらずの爽やかな笑顔で料理を運び、白くきれいな手でお酌をしてくれる。

「杉田様、今日はあまりお召し上がりになりませんね。どうかなさいました」

やっぱり気づいたか。杉田は思った。

「何もしないでぶらぶらしているからかな。あまり腹が減ってないな」

「もしよろしければ、明日の夕食はお外でお召し上がりになります?」

「えっ、いいのかな?」

思いもよらない夏美の提案に杉田は驚いた。

「ほんとは、私からこんなこと言っては駄目なんですが、毎日こういう料理だと辛くなるお客様もおられますから、長く泊まられる方は時々外で食べています」

「そうなんだ」

自分だけじゃなかったんだ。やはりそうかと杉田は思った。

「でも、板長に叱られますから、私からお勧めしたなんて言わないでくださいね」

夏美は、いつもの笑顔ではなく真顔だった。

「うん分かった。言わないよ」

杉田が、今まで見せなかった神妙な顔をして答えたので、夏美はクスッと笑った。杉田もつられるように笑い出した。

「そうだ。明日の夜は梅林のライトアップが始まるんだったよね? その帰りに、その辺の居酒屋でも行こうかな」

「分かりました。ご案内します」

夏美は、杉田の神妙な顔がおかしくてたまらなかったらしく、まだ笑いながら答えた。

それまであまり食べていなかった杉田だったが、それからは食も進み、ほとんどの料理に箸を付けた。

 

 今朝も六時に目が覚めた。しばらくテレビのニュースを見た後、そろそろ日の出になる頃になって朝風呂に行った。昨日と同じようにきれいな朝日が見えた。

杉田は、夕べ勢いで夏美を居酒屋に誘おうかと思った。だが、口に出せずじまいだった。当たり前のことだが、夏美のことは全く知らない。ことによったら結婚して夫がいるかもしれない。いや、子供がいたっておかしくないぐらいだ。あんないい女を男が放っておくわけがない。夫がいる女性を、居酒屋に誘って酒に付き合わせることはできない。もし、杉田が誘ったら、断りにくい立場の夏美は困ってしまうだろう。だが結局は言いにくそうに断られ、そのあと気まずい思いをするに違いない。そうなるのはいやだ。そういえば、夏美も俺のことは知らない。職業ですら会社員のように誤魔化している。結婚して妻がいるとかいないとか、分かるようなことは一切しゃべっていない。お互い何も知らないのだ。夏美がいくらいい女でも、ここでは客と仲居。そういう関係なのだ。杉田はそう自分に言い聞かせて、勢いよく湯船で立ち上がった。

朝食は今日もおいしかった。これも三日目だが飽きてはいない。考えてみれば、旅館の朝食のメニューは、ふだん杉田が食べていた夕食のレベルだ。だから飽きないのだ。

朝食を済ませた杉田は、いつものようにロビーで新聞を広げた。あの国会議員の汚職事件の記事があったが、杉田は軽く読み流した。直接自分とは関係のない事件だからだ。そう思えるようになっていた。痴漢騒動の記事もなかった。夕べは何もなかったようだ。その前の日に犯人はバッグを取り損ねて、慌てて逃げている。おそらく、ほとぼりが冷めるのを待つのだろう。だが、金がまだ必要ならそのうちまた現れるだろう。今までのように。いずれにしろ、こちらの警察は気の毒なことだ。杉田はそう思った。

通りかかる仲居や従業員が挨拶をしてくれるが、夏美の姿はいっこうに見えなかった。いつもなら必ず話しかけてくれるのに。杉田は目で夏美を探したが、ロビーの付近に夏美の姿はなかった。杉田は気になったが、どちらにしても夜は梅林に連れて行ってくれる。そう思って、部屋に帰った。

今日も、寝ころんでいるうちにいつのまにか眠ってしまい、目を覚ましたのは昼前だった。この旅館には昼食を食べる客はほとんどなく、いつも杉田一人だったが、何しろ朝食を食べてから寝るだけのなので、腹が減るわけもなく、旅館のレストランで頼むのはピラフかスパゲティ、それも食べたという印を残すようなもので、いつも余らせていた。

昼から杉田は、散歩に出ようと思っていた。昨日は海に行ったが、今日は湯河原の町並みを歩いてみようと考えていた。特に目的はなかったが、せっかく湯河原に来たのに、旅館に閉じこもってばかりではもったいないと思ったからだ。

フロントに出かけることを伝えようか迷った。また、夏美が追っかけて来るかもしれないからだ。来てくれれば本当は嬉しいのだが、散歩にまで付き合わせるのは、やはり気が引ける。迷ったあげく杉田は、フロントには伝えず玄関に向かった。

「杉田様、どこかお出かけですか」

背後から呼ぶ声は女将だった。

「ああ、ちょっと散歩に行ってくるよ。でも、もう大丈夫だから。夏美さんにも言っといて下さい」

「ほんと。顔色も良くなりましたよ。でも、まだご無理なさらないように。それから夏美さんは今日お休みですから、別の者がお世話させていただきます」

「えっ、夏美さん今日休みなの?」

「はい。申し訳ありません」

女将は「気をつけて行ってください」と言ってから、ロビーの奥に向かった。

 杉田は、夏美がどうして休みなのか、聞きたかったが聞けなかった。それにガッカリもした。梅林に連れて行ってくれるはずの夏美は休んでいる。ということは、女将の言う『別の者』があの軽自動車で送ってくれるってことか。その後俺はこの付近の居酒屋の前に降ろされて、一人で酒を飲み帰ってくる。夏美も誘いたいと思った自分が馬鹿らしくなってきた。自分のいいように、夏美と見る梅や、あわよくば居酒屋で一緒に飲むことを妄想して、胸をわくわくさせていたのだ。

 何だか、ふてくされた気持ちになった杉田は、それでも散歩にと湯河原の町に出た。あてなどない。旅館にいても退屈だから出てきただけだ。何か面白いものがあれば見るつもりだったが、こんな気分では、何を見つけても面白くは見えないだろう。杉田はただただ黙々と歩いていた。行き当たりばったりに道を選んだ杉田は、やがてあまり車の通らない狭い路地に入っていた。見上げれば、あちこちから湯煙が上がっていた。どうやら、漠然と歩いているうちに道に迷ったようだ。迷ったと言っても旅館に帰れないほどではない。疲れを感じた杉田は、旅館に帰ろうと、もと来た道を引き返した。夏美が休みだと知って、ふてくされていた気持ちも少しは和らいでいた。

 旅館に帰った杉田は、歩きすぎて疲れたせいで、横になってうとうとしていた。女将の言うとおり、まだ無理をしてはいけないのかもしれない。ふらっと散歩にと出たつもりが、何と一時間半も歩いたことになる。これでは散歩どころかまるで運動だ。あと一時間もすれば、ライトアップされた梅を見に行くことになっている。だが、もうどうでも良かった。疲れたのもあるが、夏美ではなく、他の仲居が案内してくれるのなら、やめようかと思っていた。それにしても、夏美はどうして休んでいるのだろう。急用でもできたのだろうか。もともと夏美のことは何も知らないので、どんなことだって考えられる。ことによっては、子供がいて、急に熱を出したとか、嫁ぎ先の姑が倒れたとか、何だって考えられる。きっと、何かのっぴきならない用事ができたに違いない。昨日はあんなに、にこやかに『ご案内します』って言ってくれたのだ。それなのに休んでいるってことは、余程のことがあったのだ。杉田はそう思うことにした。だが、そう考えると気になった。何があったのか。杉田は、夏美の代わりに来る仲居に聞いてみようと思った。そして眠ってしまった。

 

「杉田様。杉田様」

部屋の外から呼ぶ声に目を覚ました。夏美の声だった。

杉田はすぐに起きあがり、目をこすりながら返事をした。

「ごめんなさいお休みだったんですか?」

「いや、うとうとした程度だよ」

「梅林に行く時間ですけど、もう少し休まれます?」

「いや。いいんだ。行くよ、行く」

杉田は慌てるように言った。夏美は安堵したような顔になった。

「それより、夏美さん今日は休みじゃなかったの?」

「ええ、休ませてもらっていました」

「休みなのに出てきてくれたの?」

夏美はそんなこと気にしないでって言うように笑みを浮かべながら、

「お約束ですから」

「何だかわるいなあ」

「何を言ってるんですか。さあ行きましょう!」

夏美はひときわ明るい声で杉田をせかした。そして、どこから用意してきたのか、羽毛の防寒具を杉田に羽織らせた。

 今日も、軽四輪の箱バンだった。夏美は杉田を後ろではなく助手席に座らせた。道中でライトアップされた梅林がよく見えるからだ。杉田は何となく嬉しかった。

「女将さんから、夏美さんが休みだって聞いて、今日は駄目なのかと思ってたよ」

「そうだったんですか。ご心配かけちゃいましたね」

「ひょっとして、急用ができたんじゃないかって、勝手に想像したよ」

「急用じゃなくて定休日だったんですよ」

「定休日か……。せっかくの休みなのに悪いね」

「気になさらないでください。それに、一人で家にいても何もすることがないんですから」

「えっ、夏美さん一人なの?」

「はい。こう見えても花の独身なんですよ」

 杉田にとって、夏美のことで一番知りたいことだった。それがいとも簡単に分かってしまった。杉田は嬉しくなって、自分も独身ですと言いたかったが、なんだか物欲しそうで、さすがにそれは言えなかった。だが、どう答えるのがいいのか迷ったあげく、

「えっーそうだったの! 驚いたな」

「あら、結婚しているように見えました。それとも年だからですか」

夏美はすねたような口調だった。

「いや! そうじゃなくて。こんな魅力的な女性が、一人なわけがないって思ってた」

「またまた! お上手ですね」

二人が車の中で楽しく話している間に、車は山へ上る道に入っていた。やがて、ライトアップされた梅林が見え始めた。幻想的な光景だった。梅の花でできた絨毯が宙に浮いているように見えた。夏美は前に来た時より下の駐車場に車を乗り入れた。ここから見るのが一番だと言う。そして、今夜は歩かないで、ここから見るだけにしようと言った。昼間に散歩に出た杉田の体調を考えてのことだった。杉田は、夏美と梅林を歩きたかったが、「わかりました」と神妙に答えた。夏美はまた笑った。二人は車の外にでて、目の前に広がる梅林を眺めた。何もない漆黒の空間に梅の花だけが浮かび上がっていた。

「すごいなあ!」杉田は思わずつぶやいた。杉田から一歩下がって見ていた夏美が、

「私も一人で時々見に来るんですよ。今日は初日ですから楽しみにしていたんです」

いくら羽毛の防寒具を着ているといっても、二月の夜の冷え込みは尋常ではなかった。五分ほど外に出ていたが、夏美は杉田に無理をさせてはいけないと、車の中に入るように勧めた。風を遮断し暖房がかかっている車の中は別世界のように暖かかった。夏美は持ってきたポットから熱いお茶を入れ杉田に勧めた。冷えた体が中から温まるようだった。

「おかげで、かなり体調が戻ってきたよ」

「良かったですね」

「ここに来てわかったような気がする」

「何がですか?」

「仕事より大事なものがあるってこと」

夏美は次の言葉を待つように黙っていた。

「なんて言えばいいのかな……人としての生活かな……。毎日毎日、夜遅くまで働いていた。休むなんて考えなかった。そんな生活を続けた挙句に倒れた……。ここに来て、海や山や花を見て、きれいだなって思ったんだ。今までそんなこと考えたこともなかった。仕事に夢中になっている間に、大きなものを失ってしまったんじゃないかって……」

夏美は黙って聞いていたが、やがて肩が小刻みに震えだした。夏美の異変に気づいた杉田はビックリした。やがて夏美は抑えられなくなってか嗚咽し車から飛び出した。杉田は訳がわからなかった。だが、すぐに、脱いでいた夏美の防寒具をつかんで自分も外に出た。そして夏美の肩にそっと着せた。

「ごめんなさい。びっくりさせちゃって」

夏美はすすりながら謝った。何がなんだかわからない杉田は黙っていた。やがて、夏美は気を取り直して杉田を車に入れ自分も入った。

夏美はうつむいたままハンカチで涙をぬぐった。

「実は、私結婚してたんです。でも五年前に夫は死んじゃいました。夜中に突然苦しみだしてそのまま……。死んだ夫は会社員でした。毎日毎日帰ってくるのは十二時を回っていたんです。それなのに朝は七時に家を出るんです。日曜だって仕事に出かけて、ほとんど休めないんです。私、心配になって、もう仕事をやめてって頼んだんですけど駄目でした」

夏美は声を詰まらせて、しばらくしゃべれなかった。杉田は待つしかなかった。

「杉田さんを見た時、すぐに夫と一緒だと思いました。でも杉田さんは気づいてくれました。仕事より大事なものがあるってことを。私の夫にも早く気づかせてあげていれば……」

杉田はなんて答えていいのか分からなかった。

「ごめんなさい。お客様にこんな話して。さあ帰りましょう」

夏美は思い立ったように顔を上げ、車をスタートさせた。

 二人が無言のまま、車は山を駆け下った。

 杉田はなんとなく分かったような気がした。夏美が自分にしてくれた気配りは、自分と夫を重ね合わせたからだ。このままではこの人も死んでしまうと思ったのだ。だから、海岸まで追っかけてきてくれたり、休みの日でもこうして梅林に案内してくれたのだ。杉田は夏美の顔をそっと見つめた。夏美は凛とした顔つきでハンドルを握っていた。

 ライトアップ初日とあって、かなりの観光客があった。ちょうど今から道路の混雑が始まる時間だった。この辺の道を知り尽くした夏美は、すぐにわき道に入り渋滞を避けていた。この辺に来て夏美は落ち着きを取り戻した。

「居酒屋まで、もうすぐですから」

「焼き鳥に枝豆、それに湯豆腐を食べるよ。もちろん熱燗でね」

杉田もわざと楽しそうに答えた。もう夏美を誘おうなんて思わなかった。というか、誘える状況ではなかった。

 狭い道なのに前方に車が一台止まっていた。しかたなく夏美は車を止めたが、しばらく待っても前方の車は動かなかった。

「どうしたんでしょうね?」

よく見ると、前の車には運転手が乗っている。

車のエンジン音が小さくなったためか、人の声が聞こえてきた。それも一人ではなく何人もの声だった。

「ちょっと見てきますね」

夏美はそう言って車から降りてすぐに走っていった。

 はっきりとした人の叫び声が近づいて来ると同時に、夏美が悲鳴をあげながらこちらに走ってくるのが見えた。すぐ後ろには目出し帽をかぶった男がいた。男は夏美を捕まえて後ろを振り返り大きな声を出していた。杉田は驚いて車のドアを開けた。空けた瞬間、男の怒声が響くように聞こえた。

「来るな! 来るな! あっち行け! あっちに行けよ!」

男は、左腕で夏美の首を抱え、右手にはナイフを上に振りかざすように持っていた。そして、その向こうには、懐中電灯を持った数人の集団が、息を弾ませながら構えるように立っていた。杉田はそっと男の背後に近づいた。男は興奮して全く気づいていなかった。杉田は素早く男の右手首を掴み捻った。いとも簡単にナイフは男の手から落ちた。男は悲鳴を上げながら左手で杉田に殴りかかった。杉田はそれを予想していたかのようにかわして、つかんでいた男の右手を引っ張った。男は道路に転げるように尻餅を付いたが、そのまま立ち上がり逃げていった。杉田はそれを見て、崩れ落ちるように倒れた夏美のもとに駆け寄った。数人の集団は男を追って行った。

「夏美さん! 夏美さん!」

杉田は、夏美の上体を抱えて呼んだが。夏美は気を失っていた。車のライトに照らされた夏美の唇は紅梅の花びらのように柔らかく見えた。

 

 近所の人がすぐに救急車を呼んでくれた。救急車は夏美を乗せて五分も経たないうちに病院へ搬送した。近くに病院があったのだ。もちろん杉田も一緒だった。夏美は救急室に運ばれ、すぐに医師が来て診察をはじめた。杉田は廊下で待っていた。

 コートに身を包んだ二人の男が杉田に近づいて来た。杉田が先に声をかけた。

「湯河原署の者か」

二人の男はびっくりした顔をしたが、すぐに警察手帳を見せた。刑事だった。

「犯人の特徴を言う前にすぐにこの車を緊急手配しろ」杉田はそう言って車のナンバーと車種を書いたメモを渡した。

「単独犯ではない。共犯者がいた。四十代から五十代の女性だ。髪は長く後ろで束ねていた。紅いジャンバーを着ている。それ以上特徴は分からない。早く連絡しろ!」

片方の刑事がすぐに携帯を取りだし連絡をはじめた。それを見てから杉田はもう一人の刑事を相手に続けた。

「共犯者は車を止めて犯人が戻るのを待っていた。だが、それに失敗して逃走した」

片方の刑事はあっけにとられるように聞いていた。

「次に犯人の特徴を言う」

刑事がただ聞いているだけなのを見て「メモするんだ」と杉田が言った。慌てて刑事は手帳とペンを出した。

「身長は百六十から七十の間。中肉中背だ。頭には濃紺の目出し帽。服は上下とも黒のヤッケだ。化繊でできていると思うテカテカしていた。靴は布製の紺色。それから……ここからが大事な特徴だ。犯人ともみ合っているときに見えた。犯人はヤッケの下にパジャマ柄の服を着ていた。おそらくパジャマに間違いない。水色で縦に……」

杉田の口が止まったので、メモをしていた刑事は顔を上げ杉田の顔を見た。杉田の目は廊下の奥の方に向いていた。二人の刑事も何があるのかと振り返った。

「あれだ……。あのパジャマだ」と杉田が呟いた。

水色でグレーの縦縞のパジャマを着た男が、急ぎ足でこちらに向かってきていた。男はすぐに刑事の視線に気づいた。男は刑事だと直感したのか、足を止め、後ずさりをはじめた。だが、二三歩後ずさりしたところでへたり込むように座り込んだ。

 

 幸い、夏美は恐怖で気を失っただけで、怪我は全くしていなかった。しかし万一のため、一晩だけ経過観察をすることになった。たぶん朝になったら戻ってこれる。

 杉田は、夏美の容態を聞いてから旅館に帰った。そして、泥のように眠った。

 翌朝、目を覚ました杉田はすぐに起きあがりロビーに向かった。新聞を読むためだ。今日は朝風呂に入る気分ではなかった。朝食を済ませたら、地元署の事情聴取に応じなければならない。その前に新聞を読んでおきたかった。

 新聞は大きく『湯河原の連続痴漢逮捕』と書いてあった。共犯の女性も検問の網にかかりその場で逮捕されていた

 朝食を済ませてからまもなく、警察署から迎えの車が来た。署に着いたとたん、署長やら捜査本部長やらが迎えてくれた。事情聴取で杉田は夕べのことを事細かく説明した。警察は暴行罪でも立件する方針で、そのためには杉田の証言は重要だった。しかし、そうなると夏美の証言も必要だ。事件に巻き込まれた夏美は災難としか言いようがなかった。

 警察から旅館に帰ったのは、もう昼を過ぎていた。女将や旅館の従業員が杉田を迎えて丁重にお礼の挨拶をしてくれた。女将は、「夏美さんの命の恩人です」と言ったが、杉田にしてみれば、そんな大仰なことだとは思っていなかった。それよりも夏美のことが気になった。夏美は今、刑事にあの時の状況を説明しているはずだった。

 その日、杉田は遅い昼食を食べてからは、旅館でノンビリとしていた。もっとも、昼寝はしなかった。夏美のことが気になり、寝る気分ではなかった。温泉に入ったり、自分の部屋で窓からぼんやりと海を見ながら過ごしていた。夏美のことばかり考えた。夏美の夫は典型的な過労死だった。死に至るまで働き続けた夫を、自分がもっと早く気遣っていれば、死なせずにすんだ。と、今でも悔やんでいるのだ。だからこそ、同じような道をたどっている自分を見て、他人事とは思えず親身になって気遣ってくれたのだ。そんなことを知らないで、夏美の好意に胸を躍らせていた。そんな自分が恥ずかしくなっていた。

 結局、この日夏美は現れなかった。

 翌朝、杉田は朝六時に目を覚まし、露天風呂につかりながら日の出を眺めた。この日は少しだけ雲も出ていて、朝日に照らされ紅く染まっていた。

 旅館の予約は今日までだった。朝食を食べれば千葉に帰る予定だ。まだ休暇は充分残っていたが、いくら休めと言われても、そんな気にならなかった杉田は五泊しか予約しなかった。朝食の時間までまだ間があったのでロビーで新聞を広げた。痴漢騒動の続報が載っていた。犯人は隣町の男で、病気になって家族の生活費や医療費に困り犯行に及んだという。最初は若い女性に悪戯しただけだったが、女性がハンドバッグを落として逃げたという。その中に現金が入っていたため、味をしめ、犯行を繰り返した。

共犯者は妻だった。夫の犯行を知りつつ、言われるとおり病院から送り迎えをしていたという。警察はさらに詳しく取り調べている。

犯人の病気はかなり重く、こんな犯行を繰り返していたのは驚きだと医者のコメントが出ていた。金に困ったあげく、病気を押して犯行に及んだらしい。杉田はこの記事を読んで犯人が哀れに思えてきた。

 食欲がなく朝食はあまり食べられなかった。この日も夏美の姿が見えなかった。もし来ていたなら真っ先に会いに来てくれるはずである。たぶん今日も休んでいるのだろう。杉田はもう逢えなくてもいいと思っていた。どのみちあったところで、彼女は丁重にお礼を言う。杉田も親身になって世話をしてくれたことに感謝する。そして、見送ってもらって別れるのだ。それ以上のことはない。杉田は自分自身にそう言い聞かせたのだった。

 旅館を出る際に、女将は再びお礼を言った。こんなことがあったので宿泊費は受け取れないと言い出したが、杉田は無理矢理押しつけるように受け取らせた。夏美にも伝言を頼んだ。おかげで元気になった。という程度のことだ。女将は、夏美が直接お礼を言ってないことを詫びた。杉田はそんなことはかまわないと返事した。そして旅館を出たのだった。

 湯河原に着いた時に来た道を、そのまま歩き駅に向かった。初めて通った時に比べ景色が変わっているように感じた。別に変わっているわけではないが杉田はそう感じた。あれだけあった痴漢注意の張り紙は一枚もなかった。そう、これだけは変わっていた。着いた時に見た湯河原は、しかたなく来た温泉だったが、今、帰り道で見る湯河原の町並みは違う、離れがたい気持ちになっていた。ここに来て、自分は変われた。杉田はそう思った。

 前方に女性が立っていた。夏美だった。いつもの笑顔はなく、まっすぐ杉田を見つめながら走ってきた。

「よかった! 間にあって……」

夏美は「駅までお送りさせてください」と言って、杉田の鞄を取りあげた。

二人はしばらく黙ったまま歩いた。

「刑事さんだったんですね」

夏美が呟くように聞いた。

「うん。そうなんだ……」

「私、お仕事のことは忘れてって言いましたけど。結局こちらに来てお仕事させちゃいましたね」

夏美はそう言うと、いたずらっぽく笑った。

「あれは、仕事じゃないよ。ただ……」

杉田はわざと言いにくそうにした。

「ただ、なんですか?」

「ただ……夏美さんを守りたい一心だった」

そう言って杉田はニコリと笑って見せた。本当は真剣な顔で言いたかったのに。

「またあ! お上手ですね!」

「女将さんが言ってた。僕は夏美さんの命の恩人だって……」

「ほんと。そうですよ。あの時杉田様が助けてくれなかったら……」

「違うんだ。君が僕の命の恩人なんだよ」

 夏美はえっと言う顔で杉田を見ていた。

「もし、ここで君に出会わなかったら、僕はまた前みたいに働き続けていたよ。また倒れたかもしれない……。君に会えて良かった」

杉田はしみじみそう思っていた。

夏美はしばらく黙っていたが、いきなり、

「杉田さん……そうお呼びしてもいいですか?」

「うん。その方がいい」

「じゃあ杉田さん。命の恩人である私のお願いをきいてもらいますよ」

「わかった」杉田は即答えた。

夏美はいきなり杉田の腕をとって寄り添った。

「こうさせてもらいます。いいですね!」

「いいに決まってる!」

「まだ、あるんです」

「何?」

「また湯河原に来ること。それもできるだけ近いうちに」

「わかった。必ず来るよ」

「何しに来るんですか?」

「観光? また休養でいいかな?」

「駄目です! 私に逢いに来てください」

「それなら毎週来たい! 休みまくる!」

 楽しそうに歩く二人を、すれ違う観光客が振り返って見つめていた。

 湯河原の町は今日も暖かい日射しに照らされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある刑事の休日

高木 純