一人暮らしを続けていた義母の頼子の体調があまりよくなく、生活のリズムが狂い始めた。頼子はまもなく九十二歳である。もともと几帳面で生真面目な人だから、自分の生活はきちんと守っていた。それが、朝ご飯も食べずに昼近くまで寝ていたり、風呂に一週間も入った形跡がみられないなど、今までとは違った様子が出てきたのだ。そこで、光江は夫とも相談をし、介護の認定を受けることを勧めた。一日に一時間なり二時間なり家事サービスを受けることで、頼子の生活が楽になるだろうと思ったのだ。介護サービスの制度をよく理解していない二人が、適当に説明するのだからよく分かる筈もないのだが、頼子も腑に落ちない表情のまま頷いていた。

 市役所に状況を説明すると、とりあえず実情を知るためコーディネーターを派遣するということであった。そして訪問日が決まり、光江夫婦は頼子の住む光江の実家へ赴き、コーディネーターの来訪を待った。

 秋が深まり肌寒さを覚える気温だが、頼子は朝から気分が優れないとかでパジャマ姿に毛糸編みのポンチョを羽織った姿だった。若い時からお洒落で身だしなみのいい人なので、来客があるのに珍しいなと思いながらもさして気に止めず、今日の用件について話し合った。きちんと整頓されたキッチンには朝食をとった食器がそのままになっている。

「今日はおいしいて、パンを二切れも食べたんよ。でもどういう訳か飲み物が咽喉を越さんの。牛乳が次々余って飲みきれんから、あんた持って帰って」

 頼子はそう言いながらかいがいしくキッチンに立ち、冷蔵庫の中から余っている牛乳を取り出し、ジュースの空き瓶に移し換えた。広口瓶から小さな口の瓶に移し入れるのは大変だろうけれど、年寄りとは思えない正確さで、一滴も零すことなくゆっくりと時間をかけて移し終えた。手を貸そうかとはらはらしながら見ていた光江は、「いつもの義母だ」と安心した。移し終えた瓶にきちんと蓋をし、ビニール袋に入れ、輪ゴムでぐるぐると止め、「はい、忘れんように」と手渡してくれた。

「おばあちゃん、保険証が要るらしいから出しといて」

 頼子は光江の目から見ると、異様と思う程几帳面で持物の整理をきちんとする。留守に必要な物があって探した折、全ての引出しに鍵がかかっていたのには唖然とした。

「それと年金証書も要るんだって」

 頼子は不服そうな表情をしたが、黙って自室へ行き、しばらくして保険証と年金証書を持って来てテーブルの上に置いた。その時、玄関のブザーが鳴った。コーディネーターが来たようだ。光江は急いで玄関へ出て行った。

 二人連れのコーディネーターは愛想のいい笑顔でリビングに上がり込み、光江達に名刺を差し出した。

「お世話になります」と光江は言いながら名刺を眺め、「おばあちゃんも一緒に」と、テーブルからちょっと離れたソファに、ひっそりと座っている頼子を振り返った。その時、全く予期していなかった異変が起こったのだ。

 光江が頼子を見た瞬間、頼子は無表情なままかくんという感じで上を向いた。変な予感がした光江は頼子のそばへ駆け寄り、「おばあちゃん」と大声で呼びながら、膝に揃えている手を取った。だらんと弛緩して冷たい手を握って振りながら、またも「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼び掛けた。頼子の顔は蒼白で目を瞑り、口を半開きにしている。二人のコーディネーターも競うように走り寄って来た。一人が「救急車、救急車」と叫んだ。二人に弾かれたように光江は頼子のそばから迫り出されてしまった。突然起こった出来事に頭が混乱し、何をしてよいのかぼうっと突っ立っている光江と伸介を尻目に、二人はかいがいしく頼子の肩に手を掛け、脇にあったタオルを自分の手に巻いて頼子の口に差し込んでいる。

「何をするんですか」

 二人の慌てように比べ、光江の声は落ち着いている。

「入れ歯を外さないと」

「自分の歯ですけど」

「へえ」

 気抜けしたようにタオルを外し、また、「早く救急車を、一一九番を」とけたたましく叫ぶ。光江たちを叱責しているような口調だ。動作ののろいというか、緊迫感の感じられない光江に、二人の鋭い視線が突き刺さる。その殺気だった眼は、獲物を前にした禽獣を連想させた。

「命ですよ。人の命ですよ」

 そんなこと改めて指摘されなくても分かっている。いつものことながら夫の伸介は、周囲の様子を窺いながら光江の出方を待っている。その伸介を見て光江はきっぱりと言った。

「佐川先生に来て貰います」

 頼子が全幅の信頼を寄せている主治医が、二キロばかり離れた所にいる。

「命がかかってるんですよ。」

何をぐずぐずしてるんだとばかりに、左右から頼子を抱くようにした二人が、光江と伸介に怖い顔を向けて攻め立てる。二人が興奮すればする程光江は落ち着いてくるようだ。この冷静さは何なのか。電話機の側に置いてある頼子手書きの電話帳から佐川医院の番号を探し出し、光江は電話を掛けた。

 すぐ出た相手に義母が倒れたことを話すと、「ちょっとお待ち下さい」と慌てた口調で言い、すぐ担当の女医さんに変った。女医さんの的確な誘導に従って、光江は事態を順序立てて話すことが出来た。そして付け加えた。

「往診をお願いします。義母もそれを願っています」

その言葉に、頼子を抱えて成行きを窺っていた二人の視線が一層険しくなる。一瞬置いて、女医さんのてきぱきとした声が返ってきた。

「往診をするより、救急車で病院へ運んで下さい。S病院とN病院とどちらがいいですか。すぐ手配しますから」

(やっぱりそうなのか)、と舌打ちしたいような感情がよぎったが、ちょっと思案してより近いN病院を指定した。そして事態を見守っている三人の目の前で一一九番にダイヤルし、救急車の要請をした。場所の特定も澱みなく出来た。幸いなことに、救急車を置いた消防署の支所は二百メートル余りの先である。

 戦意を喪失したように黙ってしまった二人に頼子を任せ、光江は病院行きの用意をした。健康保険証を出して貰ったばかりなので助かった。我家からここへ来たところだから身繕いも出来ている。三分程で、賑わしくサイレンを鳴らして救急車が到着した。担架を抱えた救急隊員が二人入って来た。慣れた動作で意識のない頼子を担架に移し車へと運ぶ。

「誰か一人乗って行って下さい」

 なす術もなく突っ立っている伸介に、「すぐ、車で来てね」と言い、二人のコーディネーターには「お世話になりました」と丁寧に頭を下げ、光江はバッグ一つを抱えて付き添った。

 外へ出ると、何人かの人が集っている。救急車が突然来たのだから、何事かと寄って来たのだ。

「ああ、光ちゃん、来てたの。よかったあ」

 隣家の老婦人が心底ほっとしたように大声で言って寄って来た。

「何処かと思ったらお宅やから、おばあちゃん一人でどしたんかとびっくりしたわよ」

「突然倒れて、意識がないの。N病院へ運ぶんです。有難う」

 光江は挨拶もそこそこに救急車に乗り込んだ。N病院まで何分かかったのか定かではないが、救急士三名が、全力で頼子の心臓を止めないための努力をしていた。病院の医師と連絡を取りながら様々な事を試みている。   「危ないから離れていて下さい」

 光江は指示されたとおり、頼子の寝かされているベッドの足元の小さな椅子に座り、サイレンを鳴らして猛スピードで走る車に前後左右に振り回されながら事態を見ていた。九十歳を越す痩せて小柄な体は、救急士の施す人工呼吸や電気ショックに翻弄され痛々しかった。(もういいよ。もういいよ)と心の中で叫びながらも光江は何も言えず、椅子から転げ落ちないよう、必死で椅子の肘に摑まっているのみであった

 救急入口に滑り込んだ病院では、医師と看護師が待ち構えていて、ストレッチャーに頼子を乗せ廊下を駆ける。光江も夢中で後を追う。一言の会話もない。処置室の中へストレッチャーが突進すると、初めて医師が口を利いた。

「付き添いの方はここでお待ち下さい」

 容態の説明も処置の仕方の相談も何もないまま、光江は病院内の人気のない空間に一人取り残された。時計を見ると一時前であった。頼子が倒れたのが正午に少し間がある時間だったから、一時間足らずにしかならない。何だか三日も四日も経ったような気がする。

 六十歳を過ぎて、救急車の付き添いをするなどとは思ってもいなかった。車に振り回された浮遊感が体に残っている。救急車を降りた時、ちょっと年配の救急士が、ぼおっと立っている光江のそばへ寄り、「精一杯のことはしたけんど、覚悟はしといてな」と小さな声で言った。その口調の優しさが耳に残っている。役目とはいえ、本当に誠心誠意尽くしてくれていた。(どうせ年寄りだから)という雰囲気は全く感じられなかった。光江は一時間足らずの間に起こった大事件を反芻しながら、一人で途方に暮れていた。

 三十分程してやっと伸介がやって来た。

 光江は救急車に乗ってからのあらましを伝えた。そして伸介に言った。

「おばあちゃん、家で佐川先生に診察して貰いたかったと思うわ。救急車で病院なんかに来たくなかったと思う」

 口に出して言ってみて初めて、光江は自分の心のもやもやはこれだったのだと気付いた。

それは、義母に託した自分の心の有り様なのかもしれない。自分の思いを頼子の思いとして言っているのかもしれない。伸介は押し黙っている。

 伸介は寡黙な人である。自分の意見を持っているのかいないのか、どんな場合も意思表示をほとんどしない。余程のことがないかぎり妻の意見に従う。便利なようだが実に頼りない。常に光江は決断を迫られ、責任を取らなければならない立場に立たされる。責任逃れをしているような伸介をずるいと感じる。しかしこれは、家長としての威厳を持って君臨していた光江の父陽太郎に、養子として仕えた夫の宿命なのだろうと理解もしている。

「あ、勝男さんに知らせなくちゃ」

「うん」

「電話分かる?」

「うん」

 伸介は胸ポケットから手帳を出し、あちこち繰って番号を唱える。光江は急いで自分の手帳に書き留める。そして公衆電話を探す。携帯電話の普及で、公衆電話はめっきり少なくなった。階段を下りて看護師詰所まで行って聞き、待合室の果てにある公衆電話を探し、勝男に電話を入れた。勝男は頼子の姉の次男で、数少ない頼子の身内である。あまり親交はないが、頼子は身内として信頼していたようだった。ことの次第を話すと、「ま、叔母さんも年齢だから」と言う返事が返ってきた。誰もがそう思うであろう。

 頼子は光江の実母が亡くなったあと、十五歳年齢の離れた陽太郎に嫁いできた。四十二歳であった。その陽太郎が二十年後に亡くなったあとの三十年も、光江一家の一員として暮らしてきた。

 陽太郎の残したもので好きなことをし、優雅に暮らしていた頼子も、八十歳半ばからずいぶん弱ってきた。毎日の雑用に追われる光江は、一週間に一度台所や庭の掃除、大きな物の洗濯などをしに出かけていたが、頼子は光江にはほとんど心を開かなかった。銀行を定年退職して暇になっていた伸介が、日課のように小一時間かけて毎日様子を見に行っていた。そんな伸介を心待ちし、何かともてなすのが、頼子の生き甲斐になっていたような気がする。

 窓もなく世間から隔絶された病院の一室で、伸介と並んで椅子に腰掛け、じっと待っていた光江は、ふっと気付いて言った。

「美子にちょっと知らせておくわ」

 教員をしている長女の美子は、光江達の家から三十分程の所に所帯を構えている。光江はまた公衆電話の所へ行き、美子が勤務している小学校へ電話を入れようとして時計を見ると二時前である。ちょうど授業中だ。わざわざ呼び出して貰うこともないと気付き、受話器を置いた。次女の夏代は神戸へ嫁いでおり、長男の洋は東京で就職している。頼子の病状がはっきりしない今、慌てて連絡しても始まらないと、光江は伸介の待つ部屋へ戻った。夫婦で座っていても相談することは何もない。出来事を反芻してみてもそれだけのことである。伸介から口を開くことはまずない。二人はなすこともなくただ座っていた。                                

一時間近く経って、勝男が顔を出した。光江と年齢の変らない勝男は、この病院からさほど遠くない所で進学塾を開いている。夕方からは忙しい筈だ。

「済みません。お忙しい時に…」

 光江はほっとして勝男を迎えた。何といっても頼子の身内であるから、誰よりも頼子のことを相談するにはいい相手である。光江は頼子が救急車で運ばれるに至った顛末を事細かに説明した。

「子ども孝行なおばあちゃんで、私達が行っている時でよかったわ。誰もいない時だったら大変な事になっていたかも」

「そうですね。叔母さんも幸せな人だ」

 勝男のさりげない一言に、光江はふっと涙ぐみそうになった。

 十九歳で実母を脳溢血で亡くし、二十歳の時に母親として迎えた頼子は、母親というより父親の奥さんという感覚であった。離れて学生生活を送っていた光江は、たまの休みで帰省した折に接触するだけである。自分の回りに一線を引いた感じの頼子は、親しく会話したり、気を許して付き合う雰囲気はなかったが、妻を突然失って、所在なく一人暮らしをする父の面倒を見てくれる人として、光江は好意的に受け止めていた。

 

大学を卒業してまもなく、光江は親類の紹介で伸介と知り合い結婚した。       

 係累のない伸介は、陽太郎の「養子に」との執拗な求めに応じて、彼なりの葛藤の末、川内家に入籍した。当初二人は父夫婦と同居をした。一年近い同居生活のあと、光江は伸介を説得して、車で一時間程の街中に住所を移した。それは、頼子の生い立ちというか性格というか能力というか、かけ離れた違和感をどう埋めようもなく、付き合い切れないもどかしさに、光江が我慢出来なくなったせいもある。毎日頼子を見ているだけでいらいらしてしまう。噛み合わず接点のない会話に絶望したのも確かである。しかしある一瞬の出来事が、光江に別居の決意をさせたといえる。

 夫の伸介は養子という立場上なのか、その他に理由があるのか、自己主張をせず、無口を通していた。そのことは陽太郎を始め、親類や近所の人達に好印象を与えていた。その分突っ張ったり出しゃばったりする光江は、当然のことながら受けが悪い。二人だけの時でさえ常に受身で、自分からは手出しも口出しもしない伸介を物足りなくは感じても、面倒な家へ、名を捨てて養子に来てくれたんだからという負目が光江にはあった。

伸介は自分の落ち着く座がないのか、銀行の仕事が忙しいのを理由に帰宅も遅かった。日曜日でさえ仕事にかこつけて外出した。たまには二人で映画や買物に出かけたいという光江の思いに気付かないのか、養子である手前両親に遠慮しているのか、その気が全くないのか、積極的に光江を誘うことはなかった。

その日光江は、自家用に少しばかり作っている野菜畑の手入れをした。亡き母がずっと続けていたことで、一切手出しをしなかった陽太郎も、時々は自分で手入れをするようになっていた。光江も畑仕事は苦手だが、日毎に暖かくなっていく日差しを受けて、草が勢いを増していくのを放っておく訳にもいかず、鍬を入れて草を取った。やがて茄子や胡瓜や南瓜やトマトの苗を植えるつもりである。妊娠六か月の身重での畑仕事ははかどらず、大いに疲れる。その日のうちに仕上げたいと夕方まで頑張り、やっと終えて井戸端で手足を洗い、台所へ入って行くと、台所はしんとしている。会計事務所を経営している陽太郎は、決算期のため顧客の旅館で泊り込みの仕事をしていた。日永になった春とはいえ、六時を回ると台所は薄暗い。火の気もない鎮まり返った広い台所の上がり框に腰を下ろし、一息入れているとふっと悲しくなった。

午後からずっと畑に出ていることは知っているだろうのに、頼子は何をしているのだろう。夕食の心配はしないのだろうか。陽太郎がいないからどうでもいいのだろうか。昔、母が畑仕事から帰った時は、すぐご飯が食べられるようにと、時間を見計らって準備をしていた光江である。母はそう感謝するふうでもなく、当たり前のようにして食べていたが、もし、光江が夕食の準備を怠っていたなら、きっと怒るか、悲しむかした筈である。ふだん余り思い出すこともなくなっていた亡き母への懐かしさが込み上げ、涙ぐみそうになった。感慨に耽っていても事は運ばない。光江は熱くなった目頭を指先で押さえ立ち上がった。そして気持を振るい立たせて、夕食の準備を始めた。

「あら、帰ってたん。いい匂いがしてきたと思うた」

 ふいに後ろで頼子の声がしたが、光江は相手をする気にもなれず、黙ったまま立ち働いた。頼子は音もなくすっと引き込んでしまったようだ。夕食が出来ても伸介は帰って来ない。待っていても何時になるか分からないので先に食べることにした。一人で食べる訳にもいかず、癪だが頼子を呼びに行った。

「ご飯よ」

「はあい」

 頼子は無邪気な返事をして、光江が半分程終えた頃に出て来た。いつもこれだ。返事はするがすぐに行動したことはない。故意なのか、ただのろいだけなのか理解し難い。

「新しい玉葱はおいしいねえ」

 即席の野菜炒めを申し訳みたいに褒めてくれる。光江は会話する気にもなれず、さっさと食事を済まし、伸介が帰って来るまで一休みしようと離れへ帰った。

半日春陽に当たった身重の体はすっかり疲れ、ちょっとと思って横になるとそのまま寝込んでしまったようだ。時計を見ると十時に近かった。伸介はいない。いくら何でもこんなに遅くなる筈はないと急いで茶の間に行った。廊下に出て茶の間に近づくと頼子の笑い声が聞こえる。頼子の甲高い声の間に、伸介らしい太い笑い声が聞こえた。(珍しいこと。あの人が義母を相手に笑うなんて…)と訝しく思いつつ茶の間に入って行った。  

伸介が定位置に座って食事をしている。ビールの瓶が空になっている。グラスが二つあった。いつも光江が座る伸介の斜め横の席に頼子がいる。何かかいがいしい仕種で、小皿に佃煮やら漬物など、光江が保存食として常備している料理を取り分けて伸介に勧めている。光江が入って行った気配に、同時に振り向いた時の、二人の顔に残った複雑な笑いを、光江は終生忘れない。伸介がこんな明るい顔をするのか。頼子がこんな魅力的な笑顔をするのか。光江はすぐ取って返したかったがぐっと堪え、さりげなく言った。

「あら、帰ってたの。ちっとも知らなくて」

「うん」

 そのまま黙り込んで箸を使う伸介は、いつもの無愛想な夫に返っている。

「あんた、疲れてるようだったから、呼ばんかったんよ」

 頼子は陽気な口調で言い、ビール瓶を持って立ちながら付け加えた。

「伸介さん、今日、お得意さんと面白いことがあったんですって。ほほほほほ」

 頼子が台所へ立った後に嬌声が残る。伸介を見ると、面倒臭そうな表情で冷えた玉葱を突ついている。光江は平気を装って言った。

「へえ、どんなことがあったの?」

「べつに、たいしたことない」

 会話は終った。頼子はそのまま自分の部屋に引き上げたようだ。食事を終えた伸介が離れへ去ったあと、光江は三人分の後片付けをした。頼子の茶碗を洗う時、床へ投げつけて叩き割りたい衝動を覚えたが、何とかこらえた。洗い物を終えて離れへ行くと、伸介はもう寝ていた。

「お風呂は?」

「疲れとるけん、もうええ」

 夢うつつのような答えが返り、すぐ鼾になった。その鼾を聞きながら、光江は別居の決意をしたのだ。

 伸介を説き伏せ、街の中心部にアパートを探した。伸介の給料だけでやっていかなければならないので欲は言えない。六畳と三畳の二部屋に台所とトイレは共同。風呂はなしという物件で折り合いを付けた。近くにマーケットがあるのと、伸介の職場に近いのが取り得である。

大きくなり始めたお腹を抱えての引越しは大変だったが、子どもを生んでしまってからでは実行し難いだろうと思っての決断だった。一日も早く頼子から離れたかった。陽太郎は怒り悲しんだが、頼子はけろっとしていた。

長時間かけて炊事をしても出て来るのは一品のみ。光江が庭の掃除をしながら頼子の部屋に近づくと急いで障子を締めてしまう。光江が炊事をしているとちょろちょろ顔を出して様子を見ているのに、出来上がる頃には引き籠って呼ばないと出て来ない、ハンカチ一枚を丁寧に洗って干して午前中の仕事は終りなどなど。頼子の常識外れの言動に振り回されるのはもう御免だ。これで赤ん坊が生まれれば、光江の負担と苛立ちは募る一方である。

何よりも伸介が、光江の愚痴に耳を貸すどころか、頼子の方に気持を傾けているのが許せなかった。頼子は自分が嫁入ってから迎えた伸介には心を許しているのだろう。二人の間に男女関係があるなどとは疑ってもいないが、あの夜の二人の醸し出していた雰囲気は、まさにそうであったと光江は思う。

 光江達が家を出てから、陽太郎はまた根気よく頼子に家事や家風を教えているようだった。その陽太郎も、喜寿を迎えてまもなく膵臓癌で亡くなった。二十年続いた頼子との結婚生活は終った。

 陽太郎が寝込んで亡くなるまでの三ヶ月近くを、光江は郊外にある実家で暮らした。長女は中三、次女は六年、長男は二年と、母親の手を必要とする年齢であったが、兄弟のいない光江にとって、父の看病は大切な務めである。家事の全く出来ない伸介には期待出来ず、高校受験間近の長女美子に主婦役を託した。一家の大事と言って聞かせ、事細かに家事の手順を教え、何とか乗り切って貰った。次女も長男もよく協力して美子を支えた。

久し振りに同居した頼子の家事音痴は、いっこうに改まってはいなかった。相変わらず何をしたか不明なまま一日を過ごしている。光江は実家の家事を一手に引き受け、父の看病をし、来客の相手をした。腹立たしく思う一方でやっと気付いたのだ。自分がいるから頼子は手を引くのだと。光江がいなければそれなりに切り回していた筈だ。そうでないと家の中がもっともっと荒れている筈だ。気難しい陽太郎の薫陶を受け、それなりに家事をこなしていた筈だ。陽太郎は長い海外勤務の経験がある。自分の身の回りのことは一応できる。が、要求も厳しく、亡くなった実母をよく叱りつけていたことがあった。光江は、父が頼子に声を荒げているのを聞いたことがない。十五歳も年齢の離れた後妻はただただ可愛く、家事が出来なくてもすっとぼけていても我慢をし、遠慮をして暮らしているのかと思っていたが、自分が不自由しないだけの仕事は教え込んでいるのだと納得した。

葬儀が終わると、光江は迷わず自分の家に帰り、頼子の一人暮らしが始まった。育ち盛りの子ども三人を抱え、建てた家のローンもあり家計は窮屈だったが、頼子がこれから一人で暮らしていき易いようにと、古い家に手を入れた。特に毎日使う台所や風呂やトイレは機能的に改造した。たまに訪ねて行った時、使い勝手がいいと自分も気分がいいだろうし、二十年間父の面倒を見てくれた頼子が、一人で暮らしていくためへの、せめてものサービスであると考えてのことだった。

 

「処置が終りました」

 三人が所在なく座っている部屋へ看護師が入ってきて事務的に告げた。廊下へ出ると、頼子を乗せたストレッチャーがゆっくり通り過ぎるところだった。それを見て光江はあっと驚いた。

 頼子の上にはおびただしい管がとぐろを巻いていた。(何ということだ。家族になんの相談もないままに…)。光江は無性に腹が立ってきた。胸がどきどきと大きく脈打つ。恐れていたことが現実となった困惑。「ええっ!」と光江は絶句して伸介と勝男を見た。二人共無表情で突っ立っている。心の在りようは読めない。

 医師が入って来て、淡々とした口調で病状を説明したが、光江はほとんど聞いていなかった。

「あの管はいったい何なのですか」

「人工呼吸器と、栄養補給と、投薬です」

「あんなことすれば治るのでしょうか」

「それはわかりません。精一杯のことをやらせてもらいました」

「何時まで続けるのですか」

「それは、病状を見て判断します」

 光江一人が質問している。伸介も勝男も何も言わない。このまま「有難うございました。今後共よろしくお願いします」と頭を下げるのが常識なのかもしれない。しかし、と光江の心は揺れ動く。いっそう激しくなる胸の動悸を感じながら光江は言葉を続けた。

「義母は九十を過ぎています。今さら管に頼って生きたくはないと思います。あの姿は義母の望む姿ではありません。義母はお洒落で礼儀正しく節操を守って生きてきた人です。あんな姿を喜ぶ筈はないんです。家族に何の相談もなくあんな処置を」

 夢中でまくしたてる光江に、医師は途方に暮れた様子で黙っている。

「ま、しばらく様子を見てということで」

 勝男が堪り兼ねたように口を出し、はっと冷静に返った光江は、そっと頭を下げた。

「では、ICUでお世話をします。面会は午前と午後の一回ずつですが、何時でも呼び出しに応じられるようにしていて下さい」

 医師はほっとしたように言って、部屋を出て行った。

「付き添いさんのお泊りの部屋は三階になっています。付き添い用の寝具は地下の売店で貸し出していますから、行って手続きをして下さい。それから、患者さんに用意する物を言います。紙おむつと、和式の寝巻き三枚と、バスタオル三枚と…」

 義務的に述べる看護師の言葉を空ろに聞きながら、光江は手帳に書き止めた。そして、手続きをするため廊下に出た。窓から外を見るとすっかり夜になっている。

 今自分は、希望のない介護の入口に立っている。外の闇を窺いながら、光江はだんだん萎えていく自分の気持を、どう抑えればいいのか処し兼ねていた。

 入院用品の準備のため、伸介に後を頼み実家へ帰った。頼子の部屋の箪笥の引出しを一つ開けてみたが、案の定鍵が掛かっている。鍵の在りかは当然のことながら想像もつかない。

光江はさっさと諦めて近くのスーパーマーケットで寝巻きと紙おむつを買い、自宅へ帰り洗面用具など自分が泊れる用意をし、たくさんあるバスタオルのうち大判の物三枚を取り出して袋に詰め、軽い夕食を取ってから病院へ帰った。今夜は断りきれない会合があるという伸介と入れ替わる。これからは二人が話し合いながら交代で泊り込むことになるのだ。

付き添いの溜まり場のような大部屋に借りた寝具を運び込み、空間を見つけて敷いた。隣りの老婦人が笑顔で挨拶してくれた。身の回り品も持ち込んでほっと一息入れていると、待っていたように話し掛けてきた。

「誰がお悪いんで」。「母が」。「あんたのお母さんで」。「ええ」。「おいくつで」。「九十二歳です」。「まあ、ほりゃええ年齢じゃなあ」。「ええ、まあ」。「私は主人が一週間前から入っとるんよ。私より三つ上で八十三よ。私ももう八十じゃけんな、寒い日は応えるわ」「そうでしょうね。」失礼にならない程度に相槌を打ちながら、これからずっとこの会話に付き合うんだなと少々うんざりする。

「ちょっと、失礼」と話を断ち切って部屋を出た。そして、あの人たちととりとめのない会話をしながら、いろいろなことを学んでいかなければと殊勝にも思うのだった。

 時計を見ると九時近かった。待合室の端の公衆電話へ行き美子に電話を入れた。

「おばあちゃんが倒れたの」

「ええ!」

 驚く美子の声が返って来た。

「救急車でN病院へ来てるの」

「まあ、いつよ」

「昼過ぎ」

「そして、どうなん」

「原因はよう分からんのやけど、意識がなくなったままなんよ。管いっぱい繋がれてICUに入ってる。今夜は私も病院でお泊りなんだわ」

「やっぱりねえ。そうなんだ」

「やっぱりって」

「そうでしょう。病院へ行ったら、そうそうは帰って来られんのよねえ。管だらけで何時まででも生かされるんやわ」

「そんな、えげつないこと言わんとってよ。母さん適わんわ。こっちもええ年齢なんやからね。これから老老介護が始まるんやから」

「ご苦労さんです。でも、そんな状態だったら、無理して今夜行くこともないわね。明後日、日曜だから娘たち連れて行こうか。」

「今夜は来ても面会出来んしね。面会時間は午前十一時と午後四時だからね。それ以外は会えんけど。ま、会ったところで意識はないし、何もしてあげることもないし:。母さんはそんなにして生きるんは絶対嫌だからね。母さんが寝込んだらはっきりそう言ってね」

「それは無理でしょう。やっぱり本人の意思が大切なんやから。家族がああだこうだ言っても」

 祖母とは言っても付き合いの薄かった頼子である。が、光江の子ども達にとって、「おばあちゃん」と呼べる唯一の存在である。慌てふためいて飛んで来るかと思いきや、変に冷静な受け答えであった。次女の夏代と長男の洋に電話をする意欲が冷めた。「ま、明日でいいや」と光江は受話器を置いた。

 美子の電話を切ったあと、もやもやした不満が薄らいでいるのに気が付いた。美子のあっけらかんとした様子にほっと救われていた。真っ暗だった介護という闇の入口に立って、ただうろたえていただけの光江だったが、闇に敢然と向かっていこうとする勇気のようなものが湧いてきたのだ。悲嘆にくれていても仕方がない。与えられた情況を受け止め、素直に従おうと光江は納得し始めていた。

 頼子が入っているICUの前へ行ってみた。勿論中へは入れない。何の用もない。明かりを落とした廊下の隅のベンチに腰掛け、光江はバッグから手帳を取り出し、スケジュールの調整を考えた。夫婦二人の気安さから、したいことをしたいようしていた暮らしを、まず見つめ直さなければならない。明日からは、介護をメインに据えたスケジュールに組み替えなければ。何時まで続くか果てのない闇だが、両足でしっかり歩かなければと、挑戦する構えになっていた。伸介七十一歳。光江六十六歳。二人で九十二歳の命を支える介護の始まりである。

 廊下の窓ガラスを通して外を眺めると、闇の向こうに街の灯が遠くまたたいている。それをしばらく見つめていて光江はふと気付いた。お互い明日の運命は計り知れない。介護される者とする者、どちらが長生きするか予想はつかないのだ。しっかりしている間に意思表示をしておかなければ。薄暗い電灯の下で、使い慣れた手帳の最後の頁を開けた。そして、はっきり分かる楷書で大きめに濃く記した。

「いかなる場合も延命処置は受けません」。一行空け、「川内光江」と署名をした。ボールペンの黒い滲みが乾くよう電灯に向けて手帳をかざした。空いた欄には、「川内伸介」と書き入れて貰うつもりである。明日は早速入院に必要な品物を取り揃え、一包みにして美子に託そう。
 ICUの病室は明るく、何処からともないざわめきのようなものが絶えず伝わってくる。

やがてこのざわめきにも慣れ親しんでいくのだろう。

 一仕事終えた後のような安堵感が、光江を満たしていた。






闇の入口

竹内 菊世