茜いま増す

竹内 菊世

         一

 三日間吹きに吹き、降りに降った。

今年は空梅雨ではないかと農家を憂えさせていたが、突然襲った梅雨前線は、台風の様な激しさで吹き荒れながら、日本列島をゆっくり縦断していった。各地で育ち始めていた作物を遠慮会釈なく薙ぎ倒し、田畑を水浸しにした。そんな嫌なニュースがテレビから流れているのをよそ目に、久し振りの晴天に加奈子の心は晴れやかである。

 加奈子はベッドから寝具をベランダに運び出し、竿に掛けた。時折台風の余波か、大きな風が下から掬い上げるように吹く。慌てて用意した布団挟みで飛ばないように留める。布団は風の煽りを受けて裾から翻る。「最近の布団は軽いからね」と加奈子は一人ごちながら、しっかり留まったかどうか、裾を引っ張って確かめた。もし、何かの拍子に吹き飛ばされでもしたら大ごとである。加奈子の愛用しているピンクの羽毛布団は、何処を目指して飛んでいくやら。(ピンクの布団を見かけた方、お手数ですが御一報下さい)なんて広告を出す羽目になるかも、などと考え、(これはジョークでは済まされないよ)と真剣に思ってしまう。

部屋に入り、ガラス戸の開き具合を適当な幅に定めてから、腰を伸ばした。ついでに膝の屈伸。両手をぐるぐる回して、ふっと修一の布団も干してあげた方がいいかなと思い、修一の部屋に入ったとたん、気が変わった。あまりの汚さに眉がしかむ。「自分のことは自分でする」とまた、一人ごちてリビングに帰った。

チャララーン。テーブルの上の携帯電話が短く鳴った。メール着信の合図だ。携帯電話をおもむろに取り上げ蓋を開ける。メール着信一件の表示。「ランチしませんか。忙しいですか」。俳句仲間である知恵から笑顔満載の絵文字付きお誘いだ。今日の日程は、二時半からのフィットネス講座だけなのをカレンダーで確かめる。(うーん、折角布団干したのになあ。昼前に取り込むのはちょっと残念だなあ。でも、それだけで断るのも勿体ない)。咄嗟に判断して加奈子は返信を入れる。「有難う。退屈してたんで嬉しかったよ。何処へ何時に行けばいい?」動くハートマークを入れて送信。蓋を閉めるとまもなくReReが入った。(もう、若い人は早いんだから)。また蓋を開けて中身を点検する。「十二時、Jの前か。えーと、今十時前だから十一時までは時間があるということ」。

最近、加奈子は独り言が多くなったと自覚している。以前は頭の中だけで確認していた事柄を口に出してしまう癖がついた。何時からそうなったか定かではないが、気が付けば声に出ているのだ。

修一が家に居る時はそうでもないが、一人で家に居ると知らぬ間に独り言で行動を確認しているような気がする。「だんだん年寄りになってるってことなんだ」と、また喋って、加奈子は掃除機を手にした。布団を干したので洗濯は明日だ。

風に煽られた布団が思い出したように大きく翻る。が、二十センチ程開けたガラス戸から吹き込む風は結構爽やかだ。「夏はまだなのに台風一過か」。気分がよくなると身内から力が湧いて来る。ベッドを動かし、溜まった埃を掃除機で吸い上げる。一人の部屋でも結構埃は溜まるものだと感心しながら掃除機を動かす。隅に溜まっている埃も見逃さず、千枚通しでほじくって吸い上げた。部屋の中がきれいになるのに比例して気分はすっきり爽快。ついでに修一の部屋のほんのささやかな真ん中の空間にも掃除機を入れる。

夫の修一はからきし片付けが出来ない。いつもいつも山積みのゴミに埋まって暮らしている。本棚の上、机の上、椅子の上。おまけに朝方まで寝ていた筈のベッドの上まで紙袋やら書類やらが溢れている。見ると腹が立って来るので加奈子は出来るだけ見ないようにして暮らしている。家中掃除機を掛けても十五分もあれば結構足りる。この簡単さがマンション住まいの魅力なのだ。

干して一時間も経っていない布団をさっさと取り込み、清潔になった寝室に運び込む。顔を洗い化粧をする。最後の頬紅を口角を上げた形でさっと刷き、ついでにちょっと微笑む。「うん、よかろう」と得心して化粧道具を元の位置に戻す。「さて、何を着ようかな」。居間のクローゼットを開け吟味しかけて、加奈子は気付いた。「二時半だったら帰って来れないかもね。じゃあ、トレパンじゃないの」。苦笑して、ピンクに白のマチが入った半袖トレーナーを着、青地にピンクの線入りジャージパンツを履く。最近ちょっと長めになった髪の形を気にしながら、赤い縁取りのあるサンバイザーを被る。ソックスもスニーカーも白にピンク入りだ。そして、濃いピンクの自転車を引き出し、颯爽(と、自分で思っているだけで、傍目には、婆さん危ないなあ。何だあの派手さは、なんて思われているかもしれないねえ。でもいいのよ。元気で気分がよけりゃあ、誰に迷惑掛けてるわけじゃなし)と跨り、指定の場所へ向かった。

 

 知恵は駅前のコンビニJの前で立っていた。薄いふりふりのスカートが風に煽られ翻っている。こちらは加奈子の布団と違い動きが優美だ。近づく加奈子に気付いて、知恵は笑顔で手を上げた。女の加奈子から見てもなかなかの美人だ。(いい笑顔だな。恋人いるんじゃないの)と思ったが声には出さず、「お待たせ」と、知恵の真ん前で自転車にききーっとブレーキを掛けて止まる。

「若々しいね。何時も元気溌剌だね」

 開口一番知恵はお世辞を言う。全く嘘ではないことをさりげなく口にするところが憎い。

「知恵ちゃんも可愛いよ。そのスカート似合ってる」

「ありがと。ウフフ、雨上がりだからね、お洒落する気分」

「うん、そうそう。でも、フィットネスに行くんで、こんな格好なの」

「へえ。じゃあ、あまりゆっくり出来ないんだね」

「そんなことない。昼御飯くらいゆっくり食べられるよ。知恵ちゃんとしばらく話してないしね」

「よかった。何処にする?」

「いいとこ連れてって」

「じゃあ、最近出来た、そこのイタリアンにする?」

「いいよ。イタ飯は最近食べてないんで」

 他愛もない会話を交わしながら加奈子は自転車を押し、知恵と並んで歩く。昼どきなのでわりに人通りは多い。

県庁所在地とはいえ、最近の地方都市は哀れなものだ。目抜き通りの店舗がどんどん撤退し空き家になる。一旦下ろしたシャッターは、まず開くことはない。憚ることなく落書きされ、空のビニール袋が吹き溜り、落葉がころがる。重しに置かれた砂袋が裂け、砂が零れ出しても誰もいじらない。通りは荒れ、廃墟の様相を醸す。そんな街中を通る度、加奈子は心が痛んだ。(どうしてなの。誰が悪いの。私はどうすればいいの)。でも答えはない。

 加奈子が少女時代を送った吉野川北岸は、交通の便が非常に悪く、阿波のチベットの異名さえ持つ地域であった。ときたま遊びに来る徳島の街は、ハイカラで賑やかで夢と希望に溢れていた。加奈子は憧憬と羨望を込めて(こんな便利な所に住みたい)と願っていた。しかし夢が叶って住み始めた徳島の中心街は、あれよあれよという間に廃れた。人が消え、店が消えた。唯一頑張っているデパートのある駅前だけは何とか面目を保っているが、以前の繁華街は見る影もない有様だ。

 駅前通りから横丁を曲がってすぐの、小さなイタリアンレストランへ入る。

入口の左右に小さな花鉢をいくつか置き、小さな黒板に鮮やかな色チョークでメニューが書いてあるのをちらと見遣りながらドアを開ける。チリリンと上に吊るしたカウベルが爽やかな音を立てた。先客は勤め人らしい制服の女性が二組だけだ。窓際のいい席も空いていた。向かい合って座り、「本日のランチ」を注文する。一口ずつ盛り合わせた三種の前菜に、本日のパスタとサラダとパン、甘いデザートに珈琲も付いて九百八十円。家でのお昼はあり合わせのものばかりで済ましている加奈子には結構ご馳走だ。

「うん、美味しい」

 運ばれてきた前菜の蛸を口に入れて笑みが零れる。

「でも、お客さん、少ないねえ」

「やっぱり、毎日となると、ここは少し高いかもね」

「そう。サラリーマンは毎日だからね、少しでも安くあげたいよね」

「私も殆ど毎日なんだけど」

 知恵が首を竦めて言う。

「でも、セルフうどんで済ます日もあるし、四百五十円のラーメンだけの日もあるわ」

「じゃあ、今日は特別の日?」

「そう、加奈さんと食事するんだから、今日は豪華版」

 二人は声を揃えて笑う。知恵の明るい笑顔を見ながら、加奈子はつくづくよかったと思のだ。

 出窓の外に、はや食事を終えてぶらぶら歩く男たちの集団がある。声は聞こえないが、楽しそうに談笑している雰囲気が伝わって来る。上着を脱いだネクタイが風に翻っている。

「ところで、今日は休みだったの」

「今月は火曜日が休み。きちんと決まっている訳でもないけど、だいたいね」

 知恵が派遣されている会社は、土、日、祝日以外にも休まなければならないらしい。ワーキングシェアというものかなと、加奈子は思う。知恵の個人的なことは踏み込んで聞かないことにしている。知恵が進んで話すこと以外、あまり立ち入らない。

「今日、ご主人は」

「ああ、朝からどっか出かけたよ。夕方まで帰らないらしい」

「何か人ごとみたいね」

「そう。人ごと。お互い係わりなく暮らすのが一番。」

「もう、また、そんなこと」

 知恵はからからと笑った。加奈子も釣られて声に出して笑う。

 本日のパスタが運ばれて来た。トマトと茄子がたっぷり入ってあつあつのスパゲティはやけに美味しい。

「こんな美味しいもの食べてたら、幸せだわ」

 加奈子は冗談でなく本音で言う。

「私もね。悲しくても、人間って食欲はあるんだなあって感心したことあった。やっぱり人間は生きることに貪欲なんだなって思う」

「そう、神様が与えてくれた本能なんだろうね。生きたいって体が求めるんだわ」

 ふっと会話が途絶えた。そっと窺うと、知恵の眼が空ろになっている。(悪いこと言ったかな)加奈子はちらと今の会話を反芻してみる。(当たり前のことしか言ってないよね)と自分で納得する。

 しばらく二人は無言で料理を口に運んだ。スパゲティを食べ終えた知恵が、ナプキンで唇を拭って口を開いた。

「今ね。ふっと夫の靴が目に浮かんだの」

「ああ、亡くなって病院を出る時の」

 知恵は四年前に癌で夫を亡くしている。四十八歳だった。公務員として管理職に就いたばかりであった。まだ若いこともあって進行は早く、入院したと聞いてまもなく、あれよあれよという間に亡くなってしまった。

「主人を霊安室へ送って後片付けしている時、ベッドの下から、入院する時履いて来た靴が出てきたの。ついこの間、この靴を履いて歩いて来たんだなって思ったら、急に悲しくなって」

 あまり多くを語らない知恵だったが、しみじみ漏らした話に、加奈子も共に泣いたことがある。

 黒いまだそんなに痛んでいない、履く主のいない靴を両手に持って眺めている知恵。か細い肩がいかにもいじらしく可哀そうに思えた。知恵はその靴を夫の遺品として何よりも大切に扱うであろう。

 四十五歳で美人の知恵は未亡人となり、大学生の一人息子を、資産家の舅と姑に残して家を出た。駅前の一等地に貸しビルを持っている知恵の家は、夫の両親と妹、知恵夫婦と息子という六人家族だった。跡継ぎの一人息子を失って、両親は悲しむより家の跡をどうするかが心配だったらしい。両親と妹と身近な親戚が集っての相談に、知恵は入れて貰えなかったと悔しがっていた。夫の生命保険のことやら財産分与のことやら複雑な話し合いがあった。四十歳半ばで知恵と同年輩の独身の妹は、家の財産に執着したらしい。結局知恵は、いくばくかの分与を受け取って家を出た。息子は家の跡取りとして残して来るしかなかったし、息子もそちらを選んだのだと寂しそうに話した。

一人住まいのためのマンションを買い、勤め人となって知恵は独立した。今は夫の遺族年金と小遣い程度の給料で暮らしている。加奈子は詳しい経緯を知らない。ただ、独立する前後から盛んに知恵から電話があり、相談を受けた。相談されても、法律の知識もなく、家庭の事情もよく分からない加奈子には答えようもない内容ばかりで、ただ「ふんふん」と聞くばかりであった。だが、知恵は自分で答えを出し見事に立ち直った。奥さん業から勤め人に、大家族から一人暮らしへと変身を遂げ、今は優雅に独身生活を楽しんでいるかに見える。だが、美味しい料理を食べながら、ふっと夫の靴の思い出を語る知恵の悲しみが伝わり、加奈子も胸が詰まった。そして思うのだ。(夫が元気でいてくれるだけ有難いということか)と。

 加奈子は自分を薄情な人間だと思っている。合理的に物事を考え、あまり情にほだされることはない。物語を読んだり、映画を観たりして感動し涙することはよくあるが、誰が死んだということだけで悲しむことはあまりない。人はと言うより、生き物は生まれた時から死ぬ運命にあるのだとわきまえている。まして、自然の摂理から言って、年長者が年少者より先に死ぬのは当然だと思っている。百歳近い親が亡くなったと嘆き悲しむのを見て貰い泣きなどまずしない。近親者が死んだと嘆き哀しむ人はたくさんいるが、世界中で絶えず人が死んでいることを思えば、人間の死なんてたいしたことではないようにも思える。いちいち嘆き哀しんでいては晴れやかな顔をする暇がないではないか。加奈子を冷たいと感じる人は多い。が、知恵は周囲の誰よりも加奈子を相談相手に選び、自分で解決し、二十歳も年齢の離れた加奈子と、今も親しく付き合ってくれる。理由は分からない。加奈子が「どうして」と問うこともない。いわば気が合うと言うことなのだろうか。

 最後の珈琲をゆっくり飲みながら他愛もない世間話に花を咲かせ、レストランを出た。外は相変わらず強めの風が吹いていた。

「こんな風をね。白南風って言うのよ」 

 俳句の先輩として(知ってるかもな)と思いながら口に出す。

「ああ、梅雨明けの風よね」

 さらりと受け流す知恵のこじんまりと整った顔に、「じゃね、今日は有難う」と手を振り、サンバイザーが風に飛ばされないよう右手で押さえながら、加奈子は勢い良くペダルを踏み込んだ。 

 

 市立の健康館で一時間半の所定のコースを終え、さんざん汗を流した快感を抱えて、自転車で帰る途中マーケットに立寄る。

留守勝ちの夫と二人暮らしの世帯は、食べ物が減らない。牛乳、豆腐、水、青野菜、果物程度が必需品で、あとはどうでもいいものばかりだ。特に食べたいと思うものもない。夫の修一は結婚以来加奈子の料理を褒めたためしがない。と言うより食べ物に無関心なのだ。戦中戦後を不自由を常として育った世代だけでもないだろうが、腹一杯食べるだけで満足している。特に好きな物もなければ嫌いで食べられない物もない。

新婚時代、夫の喜ぶ顔が見たくて「今夜は何が食べたい?」と訊ねる新妻に、「何でもいい。ボクは何でも食べるのが自慢だ」と得意そうに答えた修一に唖然としたことがある。ならば、結婚してからの半年余りの毎日、栄養はかたよらないように美味しいものをと一生懸命献立を考え、苦しい家計の中で工夫して料理をしてきた努力と苦労は何だったのかとしらけた思い出がある。結婚記念日や夫の誕生日の度、その答えを反芻して溜息をついてきた。

(うーん、今夜は何にしようかな)と、冷蔵庫にある食品を思い浮かべながら考えたが、昼に重たい食事をしているから、食指の動く食材がない。紙パックの牛乳と豆腐と油揚げを籠に入れ、何か足りないものはないかなと物色していると、ぽんと肩を叩かれた。顔を上げると一緒に俳句をしている伊藤だ。

「あれ、びっくりした」

 咄嗟のことで加奈子は頬が赤くなった。自分の貧しい食卓を覗かれたようで恥ずかしかった。

「お買い物ですか」

 さりげなく声掛けして伊藤の押している空の籠を見遣る。

「ええ、今、来たところでね。酒のつまみでも買おうかと思って」

「へえ、御自分で買われるんですね」

「ま、好きなもんを自分で用意するのも、飲む楽しみの一つだから」

「晩酌ですか」

「仕事が終わって一杯やるのが、一番の楽しみでね」

「じゃ、ごゆっくり」

 加奈子はもっと話したい気持があるのに、そそくさと籠を押してレジに向かった。

 伊藤は近くの私立大学の講師をしている。高校の校長を今年定年退職してからの再就職である。俳句は加奈子よりやや先輩で、専門が国語ということもあり、なかなかの博学である。特に古文に強く、加奈子たちが四苦八苦している用法をさらりと解明してくれる。

「生き字引がいてくれて助かるう」

 加奈子は伊藤に惜しみなく敬意を払い、聞かなきゃ損とばかりに不審に思ったことは遠慮なく尋ねてきた。伊藤も気さくに加奈子の質問に答えてくれる。分からなければ「次までに」と約束して、必ず調べて来てくれる。

伊藤と知り合って十年近いが、加奈子はずっと好意を持っている。伊藤も持っていると信じている。伊藤から電話があると、それが単なる事務的な連絡事項であっても嬉しくて声がはしゃいでしまう。きっと顔も浮かれていることだろう。そばに夫がいる時は少々控えるが、不在の時や寝ている時は臆面もなく声が華やぐ。

伊藤は歌がやけに上手い。伸びやかで張りのあるテナーは非常に魅力的で、聞く者をうっとりさせる。時折俳句の会の宴会で昔の歌を歌う。その年齢とは思えない若々しさと、持ち前のリズム感の良さは、加奈子をすっかり魅了してしまった。二次会に誘われる時は、何の躊躇いもなく付き合い、カクテルを飲みながら彼の歌に聞き惚れ、時折デュエットなどして幸せ感に酔った。夫がいる身なのにと自らを攻める気持より、嬉しさ楽しさの方が上回り、時が経つのを忘れるのである。

伊藤もアルコールが入ると気分が浮くらしく、加奈子の背中に手を回し顔を寄せて軽口を叩く。加奈子の俳句の欠点を指摘し、「もっと詩的であるべし」と説く。「そうなの。どうしても説明的になってしまって」と、加奈子は素直に認める。何度となくスナックやバーに行く機会があったが、いつも誰かが一緒だった。でも、伊藤は加奈子の横に陣取り、加奈子の背を撫でたり、手を握ったり、酒が入っているとはいえ、好意を示してくる。加奈子もそれが嬉しく、逃げたり嫌がったりしたことはない。

句会に出かける時は何時も伊藤を意識しているし、句会の間も伊藤の視線や言葉を感じている。しかし、そのことで、二人が人の噂になったこともなければ、怪しむ友人もいない。それが、ちょっと淋しいが、伊藤は六十歳を過ぎているし、十歳も年上の加奈子を仲間以上の仲だと疑う連衆はいないのだ。少々癪ではあるが、噂が立つ立たないは別として、伊藤を意識することで加奈子が華やぎを覚えるのは事実であるし、そのことで誰かに迷惑を掛けている訳でもないと加奈子は堂々としている。ただ、伊藤が他の誰よりも自分に好意を寄せてくれることを願っている自分に、はしたなさとか、貪欲さとか、厚かましさを感じないでもない。伊藤は勿論妻帯者であるし、美人の奥さんと仲がいいという噂もある。しかし、時折見せる加奈子への好意は確かに異性であるし、友人、仲間以上の情があると加奈子は感じている。

家へ帰ると、留守番電話が入っていた。再生する。

「あ、山下です。ちょっとお願いしたいことがありまして電話しました」

 山下洋子は元市会議員だ。高校時代の同級生で、山下が労働組合から押されて立候補した折は、加奈子も夢中で応援した。同級生が議員になることは名誉なことだし、何かと便利だと思った。普段感じている自治体への矛盾や要望を代弁して貰える。そして何より、加奈子は洋子の人柄に惚れていた。

洋子は親分肌で面倒見がいいばかりでなく、世間を見る目が確かであり、さりげなく批判し、やんわりと横槍を入れていく腕前が素晴らしいのだ。分かりやすい時事解説はお手の物だし、ユーモアに富んだ話は聞く者を飽きさせないばかりか、もっと聞きたいと思わせる魅力があった。初めて政治の舞台へ出馬した洋子は全くの素人で、所信表明も覚束なかった。が、議会に女性をと言う時代の波にも乗れ、強豪と戦って思いがけず楽勝した。洋子は当座、戸惑いを隠せない面持ちだったが、地方議員として研鑽を積み、見事な活躍をした。「洋子の議会だより」は、裏から見た議会の仕組みや、政治家と称する男たちへの痛烈な批判が満載されていて面白かった。

更なる活躍の場をと要請され、洋子が県会議員の補欠選挙に立候補した時、加奈子はちょうど市役所を退職したこともあって、積極的に応援した。毎日手弁当で選挙事務所へ詰め、街宣車にも乗り、駅前でビラも配った。洋子には是非当選してもらいたい一念で一生懸命だった。市会議員に出た折の初々しさはなかったが、洋子は貫禄十分で、自分の政策を堂々と語ったものの、時代は逆風が吹き、涙を呑んだ。応援した支援者達の悔し涙を他所に、当の本人は意外に淡々としており、負けたことは仕方がないと、自分の活躍の場をさっさと議会以外の所に移した。

 実際、洋子だけの人材であれば引く手数多である。あちこちから役職の勧誘を受けたが、どれにも乗らなかった。個人で、社会や政治の矛盾、女性の地位向上の啓蒙運動に専念したいと、人材派遣会社を立ち上げたのである。人付き合いがよく、彼女を慕う人も多く、培ってきた人脈を駆使して、様々な催しで彼女ならではの活躍をしている。

 電話を入れると、県外への会議参加の依頼である。

「○月○日から三日間開いてる?」

 急いで手帳を繰って応える。

「開いてる」

「ああ、よかった。じゃあ、○○で○○があるから、行ってね。人数がいるのよ」

 半ば強引とも取れる話し方であるが、彼女持ち前の口調で言われると、頷いてしまう。そして、むしろ誘ってくれて有難うという気持になる。

「私と一緒に旅行したら楽しいよ。絶対退屈なんかさせないから」と言う通り、洋子との旅は本当に楽しい。退屈どころか笑いが耐えない。六人いれば六人の、二十人いれば二十人の中心で笑いを提供してくれる。その合間にさりげなくする政治談議は的を得ていてなるほどと、全員を頷かせる。やっぱり議員を務めた人物は違うなあ。ただ者ではないなという実感を持たせる。

 そんな彼女から、若い時には全く知らなかったことだが、夫からさんざん暴力行為を受けていたことを告白され、加奈子は絶句したことがある。

「柔道してるから腕力があって怖いのよ。必死で身構えていないと怪我するの。理由が分からないまま暴力を振るわれたらどう対処していいか悩んだわよ。何がこんなに夫を怒らせるのか反省して反省して、思い悩んで、あれかなこれかなと接し方を変えても、いつも怒られるばっかりでね」

具体的な事例を出して話されると、「まさか、嘘でしょ、冗談でしょ、面白可笑しく笑わせるために言ってるんでしょ」と、思いながら聞いていても、ふっと涙ぐんだりしている洋子に、本当のことなのだと、唸ってしまうのだ。

 世間で言うドメスティックヴァイオレンスであるようだ。加奈子は知識としては知っているが、実例に遭遇したこともないし、頼りがいのない夫ではあるが、修一が加奈子に暴力を振るったことは一度もないので実感がない。

 洋子とは学生時代はさりげない付き合いでしかなかったし、お互い就職してからも時々顔を合わせる機会があっても親しくなることはなかった。彼女が選挙に出るということで、同級生の一員として応援する立場になって始めて、彼女の魅力に触れたのである。会社を早期退職して立候補し当選した洋子の応援団として、様々な会合で顔を合わせるようになった。

二度めは残念な結果に終わったが、洋子との付き合いは選挙を挟んで随分深まった。洋子が社長を務める人材派遣会社に登録し、様々な会合やイベントに参加した。国内は勿論、海外へもよく行った。彼女が講師を務める勉強会では熱心な受講生として声援を送った。洋子はいつも輝いていた。元気溌剌であった。ユーモアに富んだ話には無駄がなく、小気味良く歯切れよかった。まさに我々仲間の親分でありホープであった。そんな洋子が、結婚以来ずっと、夫からの暴力に泣かされていたとは。

全く人のことは分からないものだ。我々友人は言うに及ばず、世間にも君臨しているかに振舞う彼女は、きっと家庭でも家族に君臨していると誰もが思うであろう。洋子の夫は社会的な地位もあり、彼女の選挙中も愛想よく振る舞い、妻を支える柔和な紳士である。洋子の話を聞いても実感が湧かない。(それがDVのDVたるところなのよ)と説明され、そんなものかなあと未だ半信半疑の思いが漂う。

 夫の修一が帰って来たのは十二時を回っていた。酔っぱらっている。酒に強い修一の態度がいつもと違うのはよほど呑んでいるからであろう。

 無視しようと思ったが、ドタドタとよろめきながら歩く修一に、加奈子は腹が立ってきた。

「遅くなるならそう言ってよ。御飯要るのか要らないのかちゃんと言っといてっていつも言ってるでしょう。また夕飯が無駄になったじゃないの。私だって忙しい中あなたのために御飯作ってるんだからね。それにそんなになるまで呑んで。年齢もわきまえずに。いい加減にしなさいよ。もう、だらしない。ああ、情ない」

 言い出したら嫌みが次から次へと出てくる。夫は黙っている。聞いているのか聞いていないのか。

「聞いてるの。分かったら返事くらいしてよ。聞いてないのか聞こえないのか分からないでしょ。どうなの。分かったら返事」

「分かった」

 ぽつんと呟いて修一は部屋に入ってしまった。と思ったら、もう高鼾である。あのゴミだらけの部屋で何処に寝てるのだろう。ベッドの上にまで物が散乱していたけどなと、ちょっと気にはなったが、加奈子は「もう知らない。自分のことは自分でやればいい」と、一人ごちた。

 

            二

 加奈子が修一と結婚して、気が付けば五十年近い。共働きをしながら二人の娘を育てた。

 核家族で勤めながらの子育ては相当苦労があった。二人とも公務員だったため、安定はしていたが休みは取り難かった。今ほど子育て支援が整備されていなかった時代でもあり、乳児保育所は非常に少なかったので、近所の人に産後の休暇開けから赤ん坊を預かって貰った。二人の子どもが何とか保育所に上がるまでに、引越しという物理的理由もあったが、通算、六人の人のお世話になった。みんなそれぞれ子ども好きで、それなりによく面倒を見てくれたが、身内でない分、気分を害さないようにとそれなりの気を使った。安月給で謝礼を賄うのも正直大変だった。加奈子の給料一人分が毎月消えた。(子どもが大きくなっているだけが財産)と思い、つましく暮らした。

子どもが病気になった時がまた大騒動である。病気の赤ん坊を預かるのは気心の知れた人たちでも嫌がった。「病気の時くらいは親が居てあげないと」と、はっきり言われた。

子どもは実にいろいろな病気にかかる。風邪はしょっちゅうだし、理由の分からない下痢が続いたこともあるし、流行り病いもある。はしか、おたふく風邪、水痘 結膜炎。全部一応罹患する。

一度かかれば、まず一週間は休まなければならない。夫婦が同じ立場で働いているのだから、どちらが休んでもいい筈なのに、父親である修一はまず休む気がない。母親である加奈子が休んで世話をするのが当たり前と思っている。だが、加奈子も公務員として一人前に働いている以上、子どもが病気なのでという理由は罷り通らない。「私が二日休むから三日めはあなたが休んでね」と提案しても、修一はむっつりを決め込み、朝が来ると当然のように出勤してしまう。結局加奈子が尻拭いの形でまた休む羽目になる。これは子どもが成長して保育所へ通うようになってもずっと続いた。

修一の本心は、「女は家を守る」なのであろう。はっきり口に出して妻に要求するだけの度胸がないから、態度で示しているのだ。だが、男性に混じって教育を受け、公務員の試験に合格した以上、出産や育児を理由に仕事を止める気はない。あまりの忙しさに、仕事を止めてしまえば全て解決し、楽になると考えることもないではないが、ここで弱音を吐いては女性の地位は何時までも同じだと頑張っているのだ。しかし、あまり休みが多いと、職場で一人前の口が利けなくなる。提案したいことや矛盾に気付いても、遠慮して黙っているようになる。(これではいけない。女だから、やっぱり半人前だなんて思われたくない)。

加奈子は与えられた仕事を手際よくこなした。課長や係長はそんな加奈子を重宝に使う。朝から計画を立て、五時の退庁を念頭に入れて手順良くこなしても、それで終わりということにはならない。手が空いたと見てとったらどんどん仕事を言いつけられる。

「水木さん、ちょっと」

課長の大声がかかる。またかと気持は塞ぐが、何時子どもの病気で休まなければならないかもしれないと考えると、出来る時に稼いでおかなければと思い、「はい」と愛想よく答えてしまうのだ。「これちょっと目を通して。係長が出張でいないけどな。急ぐ書類だから、発送しといて」

(ええっ。発送までえ。発送なんて私がやらなくったって)と思いながらも、「はい、分かりました」と素直に受けてしまう。(ああ、これで三十分は帰りが遅くなるう)。退庁時間の五時十五分ぎりぎりに頼まれるのは大いに迷惑だ。

保育所は今と違って延長保育などなかったから、六時が来れば保母さん(現在は保育士)はみんな帰ってしまう。電灯を消された部屋で、用務員の小母さんと二人でひっそり待つ娘の姿を見てから、絶対六時は過ぎる訳にはいかないと自分に言って聞かせている。

加奈子が一人で保育所の送り迎えをしなければならない理由はなく、加奈子が忙しい時は父親の修一が迎えに行けばいいようなものの、修一にはまったくその気がない。忙しさにかまけてそんな根本的なことを夫婦で話し合って取り決めるゆとりもないまま、加奈子は孤軍奮闘してきた。

 急いだからと言って間違いは許されない。大学新卒で入所したばかりの後輩が作成した文書を確かめる。期日の曜日が間違っている。課長に報告し、訂正する。

「ああ、有難う。見てもらってよかったよ。じゃ、頼むね」

加奈子に任せたという顔で課長は席を立ってしまった。最近公印省略の文書が増えたからその分多少手間が省けるが、大急ぎでプリントし、封筒に入れ切手も貼って発送文書箱に入れると、六時七分前になっている。そのままバッグだけ持って「帰ります」と、居残っている課員たちに声を掛けてエレベーターに乗り込む。退庁時間なので各停に近い形で止まるエレベーターに苛立ちながら、気分はもう走っている。幸い勤め先の市役所から長女を預ける保育所は近い。赤信号も無視したいような思いで駆け、六時を少し過ぎたところで到着。

「済みませーん。遅くなりまして」

「あ、お母さん来たよ。よかったね。美子ちゃんのこと忘れてなかったよ」

保母さんの皮肉たっぷりな言いようにかちんとはきたが、子どもを預けている側にとっては受身である。

「間際に急な用が入ったもんで、済みませんでした」

あくまで低姿勢のまま美子の手を引く。

「遅くなる時は電話でも下さいね」

あくまで少し遅れたことに拘る相手に、(遅れた遅れたと言ったって、たかが十分じゃないの)と反発しながら黙って頭を下げる。四歳になる美子は、母と先生とのやりとりがもう分かっているので、不安そうに加奈子の手をぎゅっと握って交互に二人を見ている。(大丈夫よ。あなたが心配しなくてもいいの)との思いを込めて、美子の小さな手をぎゅうっと握り返して微笑む。

「じゃ、帰ろうか。先生にご挨拶して」

「先生、さようなら」

 大きな声で挨拶する美子に、さすがの相手も微笑み、「さようなら、また明日ね」と返してくれた。

 九月も終わりになると日は急速に短くなる。薄暮の街を美子の手を引きせかせかと家路につく。

勤務地の中心街からバスで三十分ほどの郊外に、加奈子たちは家を買った。田圃ばかりだった地域に突如出来た新興住宅地である。そろそろマイカーも出始めた頃で、中心地から郊外へ郊外へと車の波が続く。昔ながらの狭い県道に車が殺到し、渋滞し、にっちもさっちもいかなくなることも度々である。

「渋滞しなければいいけどね」

 満員のバスの一番前に捕まって立っている美子に言う。

「うん、渋滞したらマアちゃんが泣くもんね」

 半歳になる次女の真佐江は近所の奥さんに見て貰っている。その奥さんも夕方になると家事をしなければならないので加奈子の帰りを待ち侘びている。一応六時半までと言う約束になっているが、加奈子が六時半に帰宅できることはまずない。七時近くなると、真佐江を負ぶって家の前まで来て待っていることが多い。

 バスを降りて五分程の道を加奈子は駆ける。

「待ってよう。お母さん待ってえ」

「もう、自分で帰れるでしょ。お母さん急ぐんだから」

 半泣きの美子をそのままに加奈子は団地の中を駆ける。街灯がつき、家々の門灯がつき、窓からは団欒の象徴のような灯りが洩れている。はあはあと息を切らして辿り着いた我家の門先の街路灯の下に、案の定真佐江を負んぶした木下の小母さんの黒い影が。

「はあ、済みません。遅くなって。どうもどうも」

「はいはい。お母さん、お帰り」

 負ぶい紐をすぐに解いて鞄を持ったまま息を弾ませている加奈子に、真佐江は手渡された。

「どうも、有難うございました。小母ちゃんばいばい」

「じゃ、また明日」

 木下の小母ちゃんは後ろも振り向かずさっさと去って行く。

「バイバーイ」

 真佐江の短い腕を支えて振りながらちょっと見送る。何時の間にか追いかけて帰って来た美子が、加奈子のスカートの裾を握ってまつわりついている。

「ささ、忙しい忙しい」

 門を開け、十メートルばかりの敷石を急ぎ足で玄関に向かう。当然のことながら門灯もついていないし家は真っ暗だ。真佐江を抱いたまま鞄をまさぐって鍵を取り出し、手探りで鍵穴に差し込む。落ちそうになるのを感じてか、真佐江が「ううん」とむずかる。片手でゆすりあげようとしても、まといつく美子が邪魔になってずり落ちそうになる。

「もう、ちょっと離しなさいよ。お姉ちゃんでしょ」

 言ってはいけないと自制している言葉が口をついて出る。

「うふん、うふん」と堪えかねたような泣き声が美子の口から洩れる。ちょっと可哀そうな気持にはなったが、ゆとりのない加奈子は美子の手を邪険に振り払い鍵を開け、ドアを開けて手探りで電灯をつける。ぱっと灯りがつくと何となく人心地がつき、最近急に重たくなった真佐江を上がり框に下ろす。子ども二人を玄関先に置いたままリビングに突進する。電灯をつける。テーブルにバッグを置き、ガラス戸を空けて朝干した洗濯物を大急ぎで取り込む。上着だけ脱いで、朝はずして椅子に掛けたままのエプロンを着ける。冷蔵庫を開け、材料を物色する。今夜のおかず、夫婦二人の弁当の用意。頭の中でさっと献立を考え準備にかかる。子どもたちのためにテレビを付ける。アニメ番組を捜す。いけないなと思いつつもテレビにお守をして貰うしか方法はない。煮物の用意をしてガスにかけ、風呂場の掃除をする。昨夜の残り湯で朝洗濯をし、時間があれば湯を抜いて掃除をするのだが、ほとんどそんな暇はなく、夕刻に持ち越してしまうのだ。棒つきたわしでごしごし擦りながら修一の帰りが一刻でも早いことを願う。子ども二人に夕飯を食べさせ、早く風呂に入れて寝かせなければ明日につかえる。真佐江がほとんど家族と同じ物を食べてくれるようになったので大いに助かる。離乳食の頃に比べるとずいぶん手間が省けるようになった。

煮物の人参をスプーンで擦り潰し、抱っこした真佐江の口に運んでやる。ぽちっとした唇を開け、ぺちょぺちょと小さな口を動かす真佐江に思わず頬ずりをする。どんなに苦労があっても、このほんわかと柔かく、しなやかな体を抱え込めるのは、母親に与えられた特権だと笑みが零れる。

そんな加奈子の様子を、美子が羨ましそうな目で掬い上げるように見ている。美子もまだまだ母親の愛情を欲しているのだ。そう気付いても、均等に優しい声を掛けてやるゆとりのない加奈子は、心にもなくまた美子を叱ってしまうのだ。

「さっさと食べなさいね。ほらほらよそ見してたら零れてるよ」

 恨めしそうな美子の目が一瞬心に刺さったが、加奈子はやるべきことに追われていた。

 夕食を終えても修一はまだ帰らない。風呂はまだ薪の時代である。夕食の支度をしながら平行して薪を燃やし、入浴の準備もする。しかし、加奈子は井戸から水を汲んで運んでいた時代を経験しているから、水道があるだけでも有難いと思っている。

 下着や寝巻きの用意をして二人を風呂に入れる。美子はまず自分で出来るので先に風呂場へ入れておき、加奈子自身も裸になり、真佐江を裸にして抱いて入れる。風呂場の前の、洗面所と一緒になっている脱衣所に座布団を敷き、その上にバスタオルを広げておいて、加奈子は裸のまま湯上りの真佐江を寝かし、おむつを当て寝巻きを着せる。

「何時までも遊んでないでさっさとするの」

 加奈子が真佐江にしている様子を真似て人形の頭を洗い、体を擦ってやっている美子をせかして髪を洗ってやる。

「十数えたら出なさい」

 湯船に首まで浸かって赤くなっている美子を横目に、自分も体を擦り髪を洗う。

「さっさと出て、バスタオルできちんと拭くのよ。パンツ履いてパジャマも着るのよ。裸でいたら風邪引くからね」

 人形の世話に余念のない美子にいちいち指示を飛ばして、自分の仕事を済ます。その傍ら脱衣所に寝かせたままの真佐江を気遣う。風呂上がりのお茶を飲まさなければいけなかったな、と、裸のまま急いでキッチンに行き、湯冷ましを哺乳瓶に入れて脱衣所へ取って返し、真佐江に持たす。真佐江はぐずつきもせず、哺乳瓶を抱え込むようにしてごくごくと咽喉を鳴らして呑んだ、「そう、咽喉が渇いていたのね。遅くなってごめんね」優しく声掛けをしてもう一度風呂に入る。

まだ寒くないからいいようなものの、冬になったらまた大変だと、先のことを考えてちょっと憂鬱になる。子どもを風呂に入れるのは当たり前として、入れた子どもを受け取ってくれる人が欲しいとつくづく思う。ストーブがなければ風邪を引くんじゃないかと心配だし、つければつけたで危なくはないかと気遣わなければならない。

「もう、あの人はいったい何をしてるんだろう、私が一人でこんなに苦労してるっていうのに」と、猛烈に腹が立つ。しかし、肝心の本人がいないのだから文句の言い様もない。体を拭いてパジャマを着、真佐江を抱いてリビングへ戻ると、美子がパジャマを半分着かけたままでテレビに見入っている。そんな美子にまたとばっちりが飛ぶ。

「何してるのよ。風邪引くでしょ」

 笑みいっぱいで熱中していたテレビを不意に消されて美子は唖然としているが、母親の剣幕に怯え、文句も言わず黙ってパジャマを着る。

「はい、お休み」

 朝から敷きっ放しの布団の端をはぐって美子を押し込む。

 加奈子はどちらかと言えば几帳面な性格で、だらしないことは好まないが、余りの忙しさに省ける手間は省こうと決心して横着を決め込んでいる。朝出かければ夜帰るまで誰もいないのだからと、布団をしまうことを止めてしまった。その分、休みの日は布団を干し、心ゆくまで掃除をすることにしている。

 二人を寝かせ、夕飯の後片付けを済ませても修一は帰らない。電話もない。

(もう、腹が立つ、。私一人に何もかも放り付けて)と、時計を見てはいらいらする。痺れを切らし、玄関に鍵を掛けて布団に入ったものの、眠れるものではない。腹立ちが心配に変る。(もしや)と悪い想像をしてしまう。交通事故、急病、怪我、事件::。

 考え出すと、想像は悪い方へ悪い方へと働く。心配でどうにもならなくなった時、車の止まる音がし、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。全身耳になっている加奈子の体がぴくっと震える。午前一時を回っている。加奈子は起きていかない。布団の中で眠った振りを決め込む。ピンポーン、ピンポーンと鳴り続けるチャイムに美子が起き出した。

「お母さん、お父さんと違うん」

 加奈子に語り掛けるが、加奈子は寝返りを打って知らん顔をする。

「あーあ、もう仕方ないなあ」

 四歳の美子が起き出してドアを開けに行くのを加奈子はじっと我慢して寝ていた。

「ただいまあ」

「お帰り。お母さん怒っとうよ」

「ほうか。しゃあないなあ」

 二人は縺れるように寝室へ入って来た。

 背広だけ脱いでそのまま加奈子の横に滑り込もうとする夫を蹴飛ばし、加奈子はがばっと跳ね起きた。

「何時だと思ってるのよ。子どもまで起して。お風呂に入りなさいよ。もう、汚い、臭い」

 言い放って布団を頭から引き被った。美子は一瞬怯えた表情になったが、何時ものことなのでそのまま寝入ってしまった。

 修一は加奈子の一声で酔いも冷めたようにすごすごと風呂場へ行った。ふっと安心すると同時に疲れがどっと出て、加奈子は睡魔に襲われる。修一が風呂から出たのも、加奈子の横に入って来たのも気付かず、目覚ましが鳴る朝の六時までぐっすり眠ってしまったのだった。 

 

              三

 今年の夏の暑さは格別だ。日々三十五度前後の猛暑日続きで雨も降らず、朝からかんかん照りの太陽に曝され続ける。

地球温暖化が叫ばれて久しい。が、地球上では車が増え続け、工場は二酸化炭素を排出し続け、経済成長の名のもとに地球の自然を食い荒している。何よりかより世界中でいつまで経っても戦争が絶えないのが悲しい。個人がゴミの分別に心を砕いたり、ささやかなリサイクルに専念しても、地球の惨状はとても改まるものではない。テレビは毎日毎日、悲惨な事件や不埒な出来事を報じている。少々のことでは驚きも新たな発見もなくなってきている加奈子だが、「まあ!ええ?、」と絶句し、溜息をついて嘆くことの多いご時世だ。

コンパクトに便利な造りだが、コンクリートの箱にしか過ぎないマンションの一室は、朝からクーラーを入れっ放しである。

 クーラーなど何処にもなかった時代、窓際には朝顔の蔓が延び、軒先には簾が下がって照りつける太陽を遮断していた。朝夕には打水が冷えた空気を運んでいた。土間の井戸では西瓜やトマトが冷えていた。そんな暮らしを取り戻すことはもう不可能だ。

ぎらぎら容赦なく入り込んで来る朝陽にじとっと汗ばんで目覚めると、少々の抵抗は感じるがクーラーのリモコンに手が伸びてしまう。だが、あとどれだけ生きているのかなどと考えると、もったいないとか惜しいとかいう感じは加奈子から失せている。好き放題して暮らしてもたかがしれているではないか。

 苦労して育てた二人の娘も成人し、親が好むと好まざるにかかわらずさっさと自分の決めた相手と結婚して、家を出てしまった。

 騒がしかった暮らしは終わった。家族それぞれの独立を想定して建てた家は、夫婦二人にとって広過ぎる。

 修一が退職した時、加奈子は迷わず街の中心にマンションを買った。

「これからだんだん年寄りになって車にも乗れなくなったら、便利な所に居る方がいいでしょ」

 相談しても、らちの明かない修一に痺れを切らした形で加奈子が決断した。

「嫌なら、あなたは残っていいのよ。私が勝手に引っ越すんだから」

 必要な物だけ持って移った加奈子に、修一は付いて来た。

 今まで寝室はずっと一緒だったが、別々にした。寝室を共にする理由もなくなっている。修一には一応敬意を表して、玄関脇の一番広い部屋を提供した。

 マンションに移ってから、通勤を始めもろもろの用が自転車か徒歩で済ませられる。渋滞で時間を無駄にすることもない。車は一台持っているが、高い駐車料金を払ってまで夫婦それぞれが持つ必要もない。

 出来るだけ身軽に暮らしたいという思いが加奈子にはある。娘二人は他家へ嫁ぎ、水木家を名乗る跡継ぎはいない。田舎にある先祖代々の墓も、加奈子夫婦がいなくなればお参りする人はいないであろう。夫婦のうち先に逝った方は一応墓に入れてお参りもして貰えるが、残った方はどうなるか全く分からない。考えても仕方のないことだから成行き任せである。

 お墓のこと、仏さんのこと、放り出している家のこと、僅かだが残ってしまう財産のことなど、元気なうちにしておかなければならないことが山積している。しかし、結婚以来ずっとそうだったように、修一と膝突き合わせてじっくりと話し合うことはない。何故だか、ずっと擦れ違い、噛み合わないまま協同生活を送ってきた。

「変な夫婦。もう別れるか別れるかと思っててもやっぱり一緒にいるねえ」

 娘達は呆れ顔で言う。物心付いた頃から喧嘩ばかりしていた両親である。かと言ってどうしても別れなければならない理由もないし、別れるだけの元気も勇気もないだけなのだ。

 世間には、信じ難い夫婦がいる。洋子のように夫の暴力に耐えながらも別れずにいる例もある。寝たきりの妻の介護に専念するため、公職を辞した某知事もいる。それぞれがそれなりの努力で夫婦としての絆を深めているのであろう。 

修一とは何となく結ばれた。特別に好きだと思ったことはないが、嫌な相手でもなかった筈だ。特に愛を語り合ったり確かめ合ったりしたことはないが、一緒に居ることが好ましかったことはある。その証拠にちゃんと娘が二人いる。子どもが出来るような行為が二人の間にあったことなど、全く遠い昔のことで、加奈子にはその実感がない。思い出そうとしても、そんな気分にならない。

 時々加奈子は思う。

「私はこの人とどうして一緒にいるのだろう。この人は私のいったい何なのだろう」

だが、それを口に出して問うことはない。修一が加奈子のことをどう思っているかは、長年暮らした現在なお想像がつかない。何となく同居しているだけである。

大変だった時期を頑張って仕事を続けてきた分、金銭的には安定している。加奈子は夫と同様に、経済的自立が出来ているから、何でも自分で判断し決断出来る。だが、衣食住の生活上で自立が果たせていない修一は、加奈子に負い目がある筈である。それなのに修一にはその自覚がないようだ。加奈子がそんな修一を鬱陶しく思い、ついつい友人に愚痴を零す。

「元気で居てくれるだけで有難いと思いなさい。呆けられても、寝たきりになられても困るわよ」

「年金様、と思ってたら感謝、感謝よ。一人分で生活全部賄うのは大変よ」

「なまじっか期待があるから、腹が立つのよ」

「煩く干渉されないからいいじゃない」

友人達は口々に言う。その通りだと加奈子も思う。

 だが、だがである。やっぱり淋しいではないか。人生一度きり。一度しかない人生を空気のような相手に、勝手に腹を立てたり、何の期待も見返りもなく暮らす。これで本当に生きていると言えるのだろうか。

世の中には男と女がいる。言い換えれば男と女しかいない。七十年生きて来て、誰かを想い胸が切なくなることがあったであろうか。人を恋い焦がれて身を焼いたことがあったであろうか。

 せかせかと仕事に追われ、借金払いに追われ、子育てに追われてきた。しがらみから開放され、やっと自由になったと思った時、そこはかとなく漂ってくるこの虚しさは何なのだろう。人生も黄昏となり、物欲を失った身に何が残ったのだろう。

 眠り付けないでいる加奈子の耳に、隣りの部屋から洩れてくる修一の鼾がやけに響く。

 あの人は悩みなんかないのだろうか。人生について考えたことはないのだろうか。

 突然、伊藤の姿が浮かんだ。優しい笑顔だ。眼鏡の奥の目がじっと加奈子を見つめている。

加奈子はどきっと胸がときめいた。顔がふっとあからむ思いがした。乙女のような恥ずかしさが一瞬胸をよぎる。 茜色に染まる胸憶の夕焼けが、心なしか明るさを増す。

 深夜になっても温度の下がらない熱帯夜である。一人の寝室にクーラーが微かに唸っている。






   了